忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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続々ヒロノさん:大車の御者と義弟妹たち

       ◇ 赤ん坊同然の私と母親みたいなヒロノさん ◇
10月も末に近い中国東北地方・旧満州は日が暮れるのが早い。16:00ハルビン発
特急373号は真っ暗闇に向かってまっしぐら。何処をどう走っているのか…このまま
地獄へ向かって走っていても私にはどうする術もない。

寝返りを打つたびに上の寝台に寝ているヒロノさんが「喉が渇いてない?お腹は空い
てない?」と、まるで母親のように私に声をかけてくれる。中国の土を踏んで以来、私
ヒロノさんの立場は見事に逆転してしまった。

日本にいる時は私が三歳年上のせいもあり、彼女を妹のように思っていたのに。西
も東も分からない。中国語も你好(ニイハオ)と謝々(シェシェ)しかしゃべれない私は
確かに赤ん坊同然であった。

旅程表によると、10月23日午前零時過ぎに訥河駅に着く予定である。ハルビンから
は8時間。1000キロ近いだろうか。「少しでもいいから眠りなさい」「分かった 分かっ
た。そうする」と、ヒロノ母さんに従うしかない。

トロトロッと寝入りかけた頃「そろそろ下りる準備をして」と、ヒロノさんに揺り動かせら
れた。とうとう来てしまった!中国でも最北端に近い訥河へ!
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     ◇ とうとう来てしまった訥河 ◇
午前零時過ぎだというのに、列車からは黒山の人が吐き出され、いずれも山のような
荷物を背負ったり抱えて猛スピードで、改札口に突進している。「何でこんな深夜に急
ぐ必要があるの?」。

人ごみに跳ね飛ばされそうになりながら不可解で仕方がなかった。とにかく中国の人
々は大きな声で喧嘩腰にしゃべる。電車やバスの乗り降りも“われ先に”で、山水画や
胡弓の哀調を帯びた音色とは程遠かった。しかし、3日もすれば、日本のように「済み
ません」などと言っていられないことが分かってきた。

駅前広場といっても、低い外灯が侘しい光をともしているだけ。その裸電球の外灯の下
に、日本でも戦中戦後、街中をバタバタと走り回っていた懐かしいオート三輪の姿が!

列車を下りた人々は争うように、そのオート三輪めがけて走っていた。1台去り、2台去
りして10数台のオート三輪も闇に消えてしまった。取り残されてしまった私とヒロノさん。

      ◇ 大車(ダーチョ)の荷台で夜半の街を ◇
外灯の下にはロバに引かせた大車(ダーチョ)という荷車がたった一台きり。「まさか、
あの大車に乗るんじゃないでしょうね」。遠目にも御者は頭も顔もすっぽり覆って、重々
しい外套姿が盗賊みたいで空恐ろしい。

「おかしいなあ。迎えが来るはずなんだけど。荷物から手を離しちゃ駄目よ」と、ヒロノさんは私に荷物の番をさせて駅舎の端から端まで駆け回っている。やがて大車
近寄り、交渉しているみたいだ。交渉が成立したのか手を振っている。やれやれ。
しかし、この暗闇で朝が明けるのを待つのも恐怖そのものだ。

よっこらしょと這い上がった荷台は滑り台のように傾斜している上に、つかまる所がな
い。四肢を踏ん張って滑り落ちないようにするだけで、気が遠くなりそうだった。ハルビ
ン郊外で行き交わした大車の荷台に乗った人々は、脚をブラブラさせて気楽そうに見
えたのに、いざ自分が乗って見るとおっかなくて身体が硬直してしまった。

全身を張り詰めているせいか寒さはそれほど気にならなかったが、バシッ、バシッツと
御者がロバの背に鞭をくれるたびに、私の心臓は縮み上がった。夜半の街は電灯の
明かりすらもない。いびつな月が鈍い光を放っているだけの漆黒の空をにらんで耐え
ていた。

ここで御者の男が変な気を起こしたら、私たち小柄な女性二人は…考えるだけで失神
しそうになる。生きて帰れるのだろうか。40年も前、よくヒロノさんはこの土地で生き伸
びてきたものだと、背筋が痺れそうになる。

一時間にも二時間にも感じたが、実際は30分あまりで、ヒロノさんの養父母の家近く
に着いたのではないだろうか。「ちょっと待っててね」と、ヒロノさんが路地奥に入って行
った。御者の男と二人になった数分間。若いのか年とっているのかも分からなかった
が、タバコを吸い始めた仕草を見ると、それほど悪い輩でもなさそうで私にもタバコを
差出し「吸わないか」と奨めてくれた。丁重にお断りしたが、それが挨拶のようだった。

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     ◇ オンドルと迎えてくれた家族の温かさ ◇
ヒロノさんが家人らしき2~3人と連れ立って戻り、「私たちの着く日を一日間違えてい
たみたい」と。深夜というのに義弟妹たちは起き出して、私を末弟夫婦の寝ていたオン
ドル
の上に招いて、手をさすってくれた。妻の方は臨月のお腹をしているのに、嫌な顔
ひとつしないで。

きっと「寒かったでしょう」と言っていたのだろう。10畳くらいの土間の片隅に2畳くらい
のベッドがあるきりのワンルーム。そのベッドの下がオンドルで温められるようになって
いた。この辺りの標準的な住まいで、2~3世帯が棟割長屋のようになっていた。ヒロノ
さんの育った開拓団の家も同じような造りだったようである。

しばらくヒロノさんは義弟妹たちと歓談していたが、やがて彼らは「ゆっくり休みなさい」
と私に言い残して姿を消してしまった。何処へ消えたのか、もう私には気を回す余力は
残っていなかった。

オンドルの上はポカポカ心地よく、一人で手足を伸ばした。明け方までに数回、人の出
入りする足音がしたが、私は眠ったフリをしていた。朝になって、オンドルの窯口に石炭
をくべに通って来てくれていたのが分かった。言葉では伝えられなかったが、彼らの温
かさが泣きたいくらい有難かった。

それ以上にヒロノさん、中国名・高秀芝(こう・しゅうず)に対する養父母一家の遇し方が
感じ取れた。何と4人の弟妹たちのオムツを取り替え離乳食を与え、子守り洗濯を一手
に背負ってきたそうだ。

地主階級だった養父母は文化大革命前から始まった弾圧思想統制で家屋敷を取り
上げられ、養父は酒びたりに。養母の性格が変わり賭け事に狂ってしまった顛末に
は、日本人のヒロノさんを養女にしていたことも少なからず、彼等の人生の歯車を狂
わせていたようである。

日本の国家政策で開拓に移住した大陸の地で生まれ育ち、何の罪もないヒロノさん
が「シャオ・リーベン・クーィズ!(小日本人鬼子)」と罵られ、その養父母まで犠牲に
なったとは!

残念なことに養父は1週間前に他界しており、今回の訪親に間に合わなかったが、
ヒロノさんは初七日に当たるこの日、墓参ができることを心から喜んでいた。かつて
は鬼婆のようだった養母も枯れ木のように細い静かな老女になっており、私にベッド
の下を指差した。

何かしらと覗いて見ると、隅っこに鶏が数羽いてびっくり!その内の1羽で今夜のご
馳走を作ってくれると言う。いやはや大変なことになった。

しかし、私とヒロノさんが訥河にやってきたことが、どのようにして伝わったのか、夜
が明けるやいなや、近隣の人々が集まってきた。

入れ代わり立ち代りやって来て、人形のように押し黙っている私を珍獣のように見物。
仕方なく微笑むと、「笑った 笑った」と口にしているようだ。中には私の手や頬を触っ
て、お餅のように柔らかいと、彼等の頬をすり寄せてきた。

乾燥の激しい酷寒の地の人々の皮膚は二十歳過ぎると皺が深く刻まれ、ひび割れ
でガサガサになってしまう。そのような大地に100万戸の移住計画を立てて送り出し、
その忠実で働き者の開拓団の人々を防護壁として利用し、放り出してしまったのが、
残留婦人と残留孤児を生み出した背景である。その後遺症はまだ続いている。

      ◇ 開拓団跡地は当時も元の姿で ◇
ヒロノさんの生まれ育った下学田開拓団跡地へも足を運んだ。訥河から車で1時間
あまり、未舗装の道路を車で走ると、砂塵がもうもうと舞い上がり、たちまち頭髪は真
っ白になってしまった。

当時戦後40年あまり経っていたが、開拓団の軒の低い土壁の住居も学校も殆どそ
のまま使われており、青酸カリを飲んで集団自決した井戸も…。さすがに井戸は蓋を
されていたが、余りにも生々しい。悲し過ぎる歴史の痕跡だった。

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「開拓団に入植した人々は牛や馬のように働いて、自分たちの畑を開墾したのよ。武
器弾薬に費やすお金があったら、山に木を植え、耕作機械を買って荒地を畑にしたら、
世界の貧しい人々が飢えなくてお腹いっぱい食べられる。貧困から戦争が起きるんだ
から」とヒロノさん。ポロッと漏らしたその言葉が今でも耳にこびりついている私。

私は訥河県を訪ねた戦後2番目の日本人だったそうです。
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by love-letter-to | 2007-08-30 21:34 | 人間万歳! | Comments(4)
Commented by cheery at 2007-08-31 20:30 x
モグラさん 大変な経験をされたのですね。よくご無事で帰って
来られたと思います。訥河県の人々は初めて見る日本人が
どんなに美しく、珍しく思えた事でしょう。その人達の心にもきっと
モグラさんの事が今でも焼き付いて残っていることでしょう。
本当に興味深く読ませて頂きました。
Commented by ふうさん at 2007-08-31 21:26 x
モグラさん
続続ヒロノさん
読ませていただきました
とても考えられない程の経験をなさいましたモグラさんですね
今日の記者さんがあるという実感が伺われます。
満州での生活は日本の終戦時どころではないようですが、
心の綺麗さ、人情味が表れていてほっとしました。
日本人で2番目・・・なモグラさん。印象深かったことでしょう。
Commented by 小平のモグラ at 2007-08-31 23:15 x
cherryさん、コンバンワ!cherryさんのブログ「長崎の思い出
の地、三菱造船所の見える港、お洒落なお店が建ち並ぶ浜の町、毎日学校へ通ったオランダ坂、ステンドグラスの美しい大浦天主堂、グラバー邸と精霊流し…」など、とても共感をして読ませて
頂きました。
ヒロノさんとの旧満州の旅については、新聞の記事として書け
なかった私的な部分で、いつかは書いておきたいと…当時の
メモだけは大事にしてきました。
20年以上も経てようやく頭の整理ができました。我ながら、
スローモーなのに呆れてしまいますが、20年経っても忘れら
れないことが、私には大事なことだったようです。
Commented by 小平のモグラ at 2007-08-31 23:34 x
ふうさんコンバンワ!あの猛暑の中で昭和記念公園の
サギソウ園を訪ねられたそうで、ふうさんのファイトには
脱帽しております。
昭和記念公園のサギソウは、私のブログのスタートに書き
ました「サギソウのサンタさん」の宮奈利喜さんが、自宅の
球根を寄贈して、ボランティアにも栽培指導をされたの。
サギソウ園がオープンして、今年で10年になるはず。
そのサギソウの写真を撮って下さって有難う。宮奈さんも
あの世で喜んでおられることでしょう。
私がヒロノさんと訪ねた中国東北地方は、最近の経済発展
からも取り残されている地域で、まだ当時とあまり変わらな
い暮らしをしているでしょうが、心の温かい人々だったこと
が私には忘れえません。