◇ ダークグリーンのスイカズラの実 ◇
いち早く初冬の趣きを見せ始めた玉川上水堤で、
スイカズラの実がひっそりと色づいていた。立ち木にからまった蔓に、渋いグリーンの真珠くらいの玉を2個ずつ並べて。
初夏には筒状の先をパックリ開けたような白い花をツインで咲かせるスイカズラ。和名は吸蔓と書くが、冬の寒さをも耐え忍んで緑の葉を保つことから
忍冬とも書く。甘い香りを漂わせながら、白から黄色に変色していくスイカズラの花は、白を銀、黄色を金になぞらえて金銀花とも呼ばれる。
◇ 美しい筆跡で綴られた冊子 ◇
忍冬と言えば…。薄紫色の表紙に自筆で『
忍冬』と書かれた私家版の冊子がオーバーラップしてくる。手書き原稿をそのままコピーして製本したA5版200ページの冊子である。どういう経緯で私に送られてきたのか…私の手元に届いたのは20年ほど前のことだった。
老眼が進んだ今となっては細かい手書き文字を読むのはつらいが、美しい筆跡で綴られた馥郁とした文章に、目を奪われてしまったのは昨日のことのように感じてしまう。
筆者の
米倉美智子さんは私と同年代で、
認知症の母親に付き添っていた診療所の待合室でのシーンから展開される彼女の筆致に、我を忘れた。その当時はまだ
アルツハイマー型痴呆症と呼ばれ、治療法はなく介護保険もなく、世間からもあまり“認知”されてない時代であった。
美智子さんが同居していた母親の素振りに首をかしげることが多くなったのは、母親が60代前半になってからのことだった。最初のうちは胆のう炎の手術の後遺症か高血圧症の薬の副作用ではないかと疑っていた。引き潮のように徐々に後退していったので、
美智子さんら肉親が気付くのが遅れたようだ。またその病への認識も薄かった。
自分を見失って問題行動を繰り返す母親の介護に追われるようになってから、
美智子さんはペンを取るようになった。文章に綴ることが精神安定剤になったようだ。
…と言うと、悲惨な介護記録を想像するだろうが、『あざみの歌』『わすれな草』『つりしのぶ』『むらさきつゆ草』…など、身近な草花に事寄せながら母親の病状や介護を通して、自分を見つめ、家族の関わり方、医療・社会問題へと筆を進めて行く。それらの花々が蕾から開花していくように。
例えば、母親がよく口ずさんでいた『
あざみの歌』の章では、
「健康だった頃、母はよくあざみの花を買って来た。野の花は水揚げが難しいのか、この花が気難しいのか知らないが、すぐ枯れてしまう。それでも母はまた買ってくるのだった。『あざみの歌』が好きだったからだ。レコードも買って、よくその歌をうたっていた。(後略)」
◇ 文通を通して ◇
その当時、彼女は既に母親の介護を10年以上も続けており、母親は言葉も失い寝たきり状態の出口の見えないトンネルの中にいた。軽度の時は通所していたデイケアからも断られ、施設に入所させるか自宅介護か…選択肢はこの二つ。しかし施設も多くの待機者がおり、美智子さんには“帯に短し襷に長し”で母親の居場所ではないように思えたそうだ。
「徘徊や不潔行為を繰り返していた頃の母には、まだそのエネルギーがあったのだ。寝たきりになった今となっては、その頃が懐かしくさえ思う」と受け止めていた
美智子さん。しかし24時間介護の日々を思うと、直接電話をかけるのも躊躇われて、文通による付き合いが始まった。
私は殆どハガキ一枚で済ませたが、
美智子さんからはペン習字のお手本のように美しい文字で書かれた便箋が何枚も、封筒に折りたたまれていた。文通が始まって2年あまり経った頃だった。
原稿用紙に250枚もの長編を書いてみたという手紙が届いた。夫と3人の子供に母親の介護を担う家庭の主婦でありながら、いつどうやって文章を紡ぐのだろうか?『夕鶴』のおつうさんが身を削って織り上げた尊い反物のように感じられて、「今度は本になさったら?出版社に打診してみますから」と返事を書いた。認知症介護に関する本はまだ数少ない時で、知り合いの『けやき出版』の編集者も乗り気になってくれた。
◇『 母さんが壊れていく 』が本に◇
そうして出版されたのが『
母さんが壊れていくーアルツハイマー在宅介護15年の記録』である。母親の病状や介護について
美智子さんと親友の会話を通して軽いタッチで綴られている。表紙も赤いカーネーションをデザインされ、ファンタジックノベルのような体裁に結実した。彼女に直接会ったのは1回きりだが、彼女からの書簡は菓子箱にぎっしり。
2001年に介護保険が導入され、在宅介護を取り巻く環境も変わってきたが、
美智子さんの『
忍冬』や『
母さんが壊れていく』を改めて開いてみると、病んで老いていく母親へのラブレターに思えてきた。忍冬や来期の初夏も金銀に…そんな晩秋を迎えている私です。