◇ 『根川のめがね橋』の絵との出会い ◇
立川駅ビルのオープン(1982年10月1日)と同時に勤め先のオフィスが、その9階に移転することが正式に決まり、朝日ギャラリーも併設されることになった。そのオープン記念展として開かれた故
倉田三郎先生の『多摩の風景画展』も、思い出が深い。
その数年前に、立川駅北口のたましんギャラリーで開催された『
多摩を描いて50年』という倉田三郎先生の個展会場で目にして以来、網膜に焼きついて離れなかった『
根川のめがね橋』。
たしか6号くらいの小品だったが、早春の萌えたぎる緑が
根川の川面も緑に染め、石橋のアーチが長閑な田園風景を一層ポエジーのあるものにしていた。根川は立川市南部の段丘から発する小川で2キロほど下って多摩川に合流してしまうが、現在もその流域は
根川緑道として整備され、桜の名所になっている。
作者の
倉田先生は牛乳瓶の底をはめ込んだような度の強い眼鏡をかけ、会場では旧府立二中(現都立立川高校)の教え子たちから“
クラッちゃん”と呼ばれて人垣が絶えなかった。
◇ 惚れて口説いて… ◇
その温かい輪と『
根川のめがね橋』に惹かれて、同ギャラリーのオープニングはぜひ倉田先生の作品展にしたいと熱くなって、編集会議で「
倉田先生は如何でしょうか。多摩に住んで多摩を描き続けて半世紀以上になるそうですし…」と、口に出してしまったから大変!時として身の程知らずの発言をしてしまう私である。
週刊のタブロイド紙創刊以来8年、その紙面を埋める取材オンリーだった記者が、突然、ギャラリーの営業まがいの仕事もやるのだから、冒険に近い。もし、
倉田先生がウンと言ってくれなければ…、ギャラリーの会場費ぐらいの絵の売り上げも・・・と考えるだけで頭が狂いそうになった。
しかし、この『
根川のめがね橋』に惚れたお陰で、「あの絵をもう一度見たいんです。ぜひ作品展をやらせて下さい」と、倉田先生をすんなり口説くことができてしまった。それは
倉田先生の温情によることが大きかったが、『
根川のめがね橋』のお陰でもあろう。
お陰で『
倉田三郎・多摩の風景画』展で、朝日ギャラリーのオープン記念展を飾ることができ、連日、バーゲン会場並みの人出で賑わった。バブルの絶頂期であり、立川の名士といわれる人の多くが
倉田先生の教え子だったこともあって、絵の売り上げも…。
その後も数回、毎年、
倉田先生の作品展を開催して、私もパリとソフィア郊外の水彩画など数点を格安で譲って頂いて、勝手に想像を膨らませながら楽しんでいる。今は亡き
倉田先生と対話しているようでもある。
◇ 名誉教授の肩書きなんか ◇
それはともかく、小金井駅南口に近いアトリエに何度も通い、「ねえ先生、油絵もいいけど、スケッチや淡彩の方が伸び伸びして先生らしさが感じられますね」などと、生意気な口を利くほど親しく接して頂いた。当時、国際的な美術教育界の大御所にして学芸大学名誉教授で、画壇・春陽会の古参メンバーでもあった
倉田先生にである。
しかし、
倉田先生は全くブラない人柄で「学芸大学名誉教授の肩書きなんか、くれるから貰っただけのことで、本業は一介の絵描きだよ。絵描きでは食えないから教師と二足草鞋を履いてきたが、これでも古式泳法水府流の達人で、青山師範学校時代には“
河童”と呼ばれ、模範演技を披露したもんですよ」と、ドリフターズのズンドコ節調で抜き手の真似をしたのには大笑いさせられた。
倉田先生によると、青山師範学校卒業後、愛媛師範学校の美術教師を数年、昭和3年に府立二中の教師として赴任すると同時に、小金井へ転居。当時の立川や小金井周辺は至る所に
武蔵野の田園風景が広がり、絵心を掻き立て修業するのに絶好の条件が揃っていた。
◇ “坊ちゃん”さながらの熱血先生 ◇
「府立二中では生徒と
根川へ写生に出掛け、水泳もよくやったな」。先生自ら授業を放り出して水泳に熱中したり、独身の青年教師だったので、宿直も進んで引き受け、生徒たちと宿直室で盛り上がったこともしばしば。
生徒が校則違反をすると、「また倉田がけしかけたのだろう」と校長に訓示されたことも多かったそうで、漱石の“
坊ちゃん”以上に直情・熱血教師だったようだ。生徒たちからは兄貴のように慕われていたという。
その熱血“
クラッちゃん”は、長女の江美子さんによると、食卓についてさえもチラシの余白に子供たちの表情や手足の動きを鉛筆で走り描きしていたそうだ。とにかく目の開いている間は所選ばず絵を探求していた。海外30数カ国の街や村、人々の絵も素晴しい作品として残されている。多摩の絵は郷土資料としても高く評価されている。
◇ 絵は自分探求 ◇
「先生ほどの方がどうして、寸暇を惜しんで絵を描くのですか」「上手く描けないからだよ。自分探求なんだよ」と、アトリエで会話したことも忘れられない。『
多摩総合美術展』などの審査では下手でも努力の跡が見られる絵を評価していた。1992年90歳で他界されるまでの代表作の多くは、
たましん地域文化財団に買い上げられたり寄贈されている。同財団の
青梅・御岳美術館には、それらの作品が常設展示されている
倉田三郎記念室がある
御岳美術館:1993年11月に「たましん歴史・美術館」の分館として開館。多摩川の上流、御岳渓谷遊歩道に面した景勝の地に位置し、明治・大正・昭和にいたる近代日本の美術を中心に展示している。
主な展示作品は、荻原守衛(碌山)「女」・高村光太郎「手」・中原悌二郎「若きカフカス人」・ロダン「カレーの市民(第1試作)」・マイヨール「トルソー」などの彫刻作品、浅井忠・岸田劉生・藤島武二・鳥海青児・梅原龍三郎・中川一政などの油彩。また、多摩を代表する作家である春陽会会員、故倉田三郎画伯より寄贈された作品の中から「世界の旅」シリーズをテーマごとに展示。喫茶コーナー・ミュージアムショップ併設。年1~2回の展示替えを。〒198-0173 東京都青梅市御岳本町1-1 青梅線御岳駅より徒歩18分