◇ 精悍な72歳のアマゾン展 ◇
4年後なんて遠い先のように思っていたが、地球は太陽の周りの軌道を休みなく回り、
安井宇宙さんの二度目の個展もあっという間にやってきた。平成3年(1992)7月、再び立川駅ビル9階の朝日ギャラリーに姿を現せた
宇宙さんは相変わらず精悍で、とても72歳には見えなかった。
さすが“
アマゾンのモンテクリスト伯たらん”と大河アマゾンを相手に60余年も暮らしてきた男だ!二度目の個展も一回目を上回る大ホームランだったが、
宇宙さんは自分史を綴ることに大変こだわっていた。「アマゾン開拓などと言うと苦闘だとか苦難の歳月というワンパターンに受け止められるか、サクセスストーリーや自慢話で終わってしまいがちで、恥の上塗りをするような自分史を書く気になれなかった」という。
◇ ある日約100枚の原稿がド~ンと ◇
第2回『
安井宇宙展』を終えて
宇宙さんは元気にブラジルへの帰国の途についた。しかし、原稿は待てど暮らせど…。1~2年は瞬く間に過ぎ、私自身忘れかけていた1994年のゴールデンウィーク前後に
宇宙さんから分厚い封書ド~ンと私の自宅に届いた。400字詰めの原稿用紙にびっしり几帳面な字で綴った手記は
100枚近くあり、ガ~ン!「
宇宙さんは本気で書き始めたんだ!」正直なところ焦った。
「
日本高等拓殖学校(以下、高拓と略す)…そんな学校があるとはまったく知らなかった。昭和8年(1933)3月、千葉県立長生中学を卒業したが、行くところがなかった。生来、勉強というものに興味がなく、遊びほうけているうちに父親も口うるさく言わなくなり、中学を押し出されてしまった」という書き出しで、夏目漱石の『
坊ちゃん』そこのけの痛快さとアマゾンの気候風土が漂ってくる
宇宙さんの文章に、私は惚れ込んでしまった。
◇ アマゾンへ行ってやろう ◇
「高拓は南米アマゾンの開拓者リーダーを養成する学校で昭和6年に設立され、現地に養成所がある」と友人からの手紙で知り、二次募集に間に合うとのことで「よーし、
アマゾンに行ってやろう!」と弾みで受験し、4期生に潜り込んだのが
宇宙さんのアマゾン渡航のそもそもだった。父親は謹厳実直を絵に描いたような海軍軍人だった。7人兄弟妹の長子として生まれ育った
宇宙さんは長男としての自負もあったが、敷かれたレールの上に乗っかるタイプではなかった。
当時、日本は昭和恐慌のあおりで農村が疲弊し、その解決策として満州開拓を奨励し軍国主義の道をひた走り、100万人の移住計画で満州へ満州へ…と草木もなびく風潮に同調する気にはなれなかった。
アマゾンには未知の魅力があった。
小田急線生田駅近くにあった
高拓キャンパスで1年間ポルトガル語や学科と農業実習を積んだ後、昭和9年4月、いよいよアマゾン行きの
移民船に乗り込んだ宇宙さん。当時、南米への移民船は香港、シンガポールを経てアフリカ最南端の喜望峰を回るルートでアマゾン河口まで2ヵ月あまりかかった。地球の果てに来たようだったという。
2年目はアマゾン中流域のパリンチンスに設けられていたビラアマゾニア実習地で、現地の地質気候にあった作物の試験栽培をすることになっていた。最も有望視されていたのはコーヒー豆の袋に使われる
ジュートだったが、1~3回生まで失敗に終わっていた。
◇ アマゾン流域にジュートの緑の炎 ◇
ところが、3回生たちと入植した家族移民が栽培した
ジュートの種子を採取するのに成功した直後に、
宇宙さんら4回生が入植。栽培者の名前を取って“
尾山種”と名づけられたジュートは成育も早く優良な繊維が取れた。
その成功がアマゾン流域にジュートの緑の炎を萌え上がらせたと言っても過言ではない。
宇宙さんもジュート栽培から足が抜けなくなり、
アマゾンに永住することになってしまったが、時流に翻弄されアマゾンの自然の驚異にさらされ…どん底に突き落とされ這い上がる繰り返しだった。それでも宇宙さんは「日本に住むのもアマゾンに暮らすのも大した違いはない」と話していた。
◇ 宇宙さんの手記出版に向けて ◇
最初に100枚近くの原稿が届いて以来、2~3ヵ月に一度30枚、50枚…と宇宙さんから原稿が届くたびに私はアマゾンのめり込み、「声をかけた以上、何としても出版しなければ」と落ち着かなくなった。
宇宙さんの手記には最近の日本では使われないような難しい漢字や語句、耳慣れないポルトガル語や地名、人名が頻繁に登場するだけでなく、時の流れが前後することも多くて私自身が消化するのに時間もかかった。
原稿が
599枚に達した時、私は
宇宙さんの原稿の整理をする一方で、日本人のアマゾン移住史を書き加えながら、編集作業に取り掛かった。宇宙さんに出会ってから11年、その間に太平洋を越えて交わした手紙はそれぞれ
100通を下らないと思う。
宇宙さんとじきじき顔を合わせた時間はわずかだが、手紙と原稿を通して親子のような親密な関係を築いてこられたのではないだろうか。忘れようにも忘れ得ない宇宙さんだ。
◇ 空振り三振の後に出版へ ◇
一年がかりで原稿は300枚程度に凝縮して本にできるところまでこぎつけ、出版してくれそうな出版社を打診しては空振りノーチップ。いよいよ三振凡退かと…自費出版を覚悟した頃に巡り会ったのが良質のノンフィクションで知られた『
草思社』だった。
最終的に原稿と写真・マップなどを木谷東男編集長に手渡したのは、忘れもしない1997年12月24日
クリスマスイブだった。原宿駅から吐き出されてくる若いカップルとすれ違いながら帰途に着いた。場違いな思いで見上げた表参道のクリスマスイルミネーションも目に焼きついている。
宇宙さんの『
アマゾン開拓は夢のごとし』はそれから半年あまり後の1998年8月に出版され、朝日新聞の書評欄を初め日刊主要紙に取り上げられ、ブラジルでもサンパウロ新聞などにも大きく紹介されたそうだ。
宇宙さんはその後、心筋梗塞の後遺症で車椅子の生活を余儀なくされているが、信子夫人からの今春の賀状によると食欲も旺盛で、身の回りのことは自分ででき、卒寿の日々を平穏に送っておられるとのこと。
ブラジルでは大幅な通貨の切り下げで、一夜にして物価が50~100%も値上がりしたこともあり、日本では想像もできない
アマゾンに大きな足跡を残した日本人移住者一世の生き証人として、一日でも長く…と祈っている。