忘れ得ぬ人々& 道草ノート

ankodaira.exblog.jp
ブログトップ

2008年 01月 27日 ( 1 )

街づくりの夢を託した小冊子『街角から』

       ◇ 戸惑う立川駅前の変貌 ◇
10年ひと昔といわれるが、立川駅北口を訪ねるたびに“浦島花子さん”の心境になってしまう。改札口から放射状に伸びたペデストリアンデッキ(歩道橋)を伝って伊勢丹や高島屋、立川シネマシティなどへ直行できるのは便利だが・・・赤坂や六本木と変わらないじゃん!
ここ10年足らずで無機質のスケープになってしまった。
f0137096_22581914.jpg
勤め先のオフィスが立川駅ビル内に移転してからも20年近く通い続けた立川駅。立川駅ビルは昭和57年(1982)オープン当初はWILLと呼ばれ、その9階の西端に私の勤め先のオフィスと併設のギャラリーがあった。

全面ガラス張りのオフィスの窓からは立川駅北口ロータリーが見下ろせ、バスの離発着や通行客が機械仕掛けの小さなおもちゃのように見えた。原稿に行き詰ると、小人国のガリバー気分でロータリーの右往左往に気分転換をはかったものだった。

       ◇ 待ち合わせに利用した『立川ビル画廊』 ◇
在職時代には目の前が立川高島屋でその先はたしか野村證券立川支店で、同証券のロビーと隣り合って『立川ビル画廊』があった。画廊といってもそのビルのエントランスホールの壁面を利用した“通路ギャラリー”であった。
f0137096_2125299.jpg
しかし、バス停で次のバスを待ったり、銀行やデパートの行き帰りに気軽に立ち寄れるだけでなく、待ち合わせ場所としても絶好の『立川ビル画廊』だった。冷暖房完備で無料で時間つぶしができ、座り心地のいい長椅子も置かれていた。

この『立川ビル画廊』がオープンしたのは昭和41年6月。東京オリンピックの翌々年のことで、多摩地区にはまだ画廊らしい画廊が殆どない時代であった。基地の町立川のイメージも拭いきれてなかった。

そんな立川駅前で、ビルのエントランスホールを画廊に利用するという先駆的な発想をしたのは、ビルのオーナー会社社長の故岩崎茂雄さんであった。肩書きに似合わず、詩人でクリムトの絵を愛した“精神貴族”であった。

       ◇ 休む場所のある街に ◇
立川の街づくりに対して岩崎さんは次のように語り、具体的なヴィジョンを描いていた。
「立川の街で一番欠けているのは腰掛ける場所だと言われています。ショッピングに立川に来ても、ゆっくり休む場所がないという不満が調査結果にも表れています。休む場所のある街とは緑陰のある街角、人間的な触れ合いのある街だと思います」。
f0137096_21282745.jpg
岩崎さんが訪ねた欧米各国で心に残っているのは、テラスで珈琲を飲みながら町行く人を眺めたり、木陰のベンチでひと時を過ごせた街であったという。

岩崎さんが素晴しいのは口で言うだけでなく、自社ビルでそのヴィジョンを実践したことだろう。その手始めが『立川ビル画廊』で、多摩地区在住の作家や美術団体、絵画・彫刻・工芸サークルの作品展が次々に開かれ、発表の機会を得た。これらの作品展を通してどれだけ多くの人と人の出会いや触れ合いの場を演出してきたことだろう。

       ◇ 画廊開設10周年記念誌として ◇
立川ビル画廊』がオープンして10年。その記念誌として小冊子『街角から』が発刊された。大沢昌助画伯のコンテンポラリーな女性像を表紙にした斬新な随想集で、寄稿者の絵やイラストもふんだんに使われている新書版サイズの小冊子である。

岩崎さんの話では当初は画廊十年誌としてまとめるつもりだったが、次第に構想がふくらんで、画廊を包み込んだ街の理想像をこの小冊子に託して『街角から』のタイトルにしたそうだ。寄稿者たちの街に寄せる思いが行間にあふれている。
f0137096_2134249.jpg

       ◇ 岩崎コレクションに囲まれて至福の時間を ◇
「もし、時間があったら、おしゃべりに来ませんか」。この小冊子がきっかけで岩崎さんから時々声がかかり、岩崎さんの社長室を訪ねた私は、壁面の絵画コレクションに上気しながら夢のような時間を過ごした。岩崎さんはもっぱら聞き役で、私のとりとめのない話に耳を傾けてくれた。

その後1983年には『立川ビル画廊』の北側に、洒落たティーサロン『アルビヨン』とケーキショップ『エミリーフローゲ』、アートサロン『四季』も開設された。それらのオーナーも岩崎さんで、手狭な路地裏の一角にホッとするような小さな緑陰が設けられていた。
f0137096_21371459.jpg
西脇順三郎やボードレールの詩を暗誦していた“永遠の二枚目”だった岩崎さんは、1993年、国立駅前に『コートギャラリー』も開設した。コート(中庭)をはさんで南北に2室の展示スペースがあるモダンでゆとりのあるギャラリーだったが、何故国立に?

立川駅北口の再開発で『立川ビル画廊』も『アルビヨン』などのエリアも消えてしまうことになっているからとのことだった。ビルのオーナー社長といえども大型再開発のプロジェクトには抗し切れない挫折感を持っているのだと、その時知った。

そう言えば、「小企業といえどもトップは孤独なもんです。社員とは個人的に話すことも難しい。決断は下さなければならない」と、口にされたことがあった。私レベルではない憂愁が岩崎さんの顔の彫りを深くしていたのかもしれない。

小冊子『街角から』は3年おきぐらいに6巻まで岩崎さんのポケットマネーで刊行されたが、2003年5月、岩崎さんは急ぎ足で他界されてしまった。81歳とのことだったが青年の心のまま逝かれたように思う。昨今の行財政界リーダーたちの品性を欠く報道を見聞きするたびに、岩崎さんの澄んだ瞳が懐かしくなる。
f0137096_21445970.jpg

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
f0137096_22352773.jpg
この歌は明治39年牧水22歳の学生のとき、奥多摩へ行く途中に立川に立ち寄ったときに詠んだとのこと。歌碑は立川市制10年を記念し昭和25年に建てられたもので、碑面の文字は喜志子夫人による。
[PR]
by love-letter-to | 2008-01-27 21:47 | レクイェム | Comments(8)