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多摩の植物散歩 その②

           ◇ 早トチリとトンチンカン ◇
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ある時、向かいのデスクの横田部長が「ケーリがね…」と、声をかけてきた。一瞬、「経理の清算が間違っていたのか」と早トチリした私は、「経理のキクちゃんが珍しく電卓でも打ち間違えたのかしら」と、気のない返事をしてしまった。

「その経理でなく、ケーリさんが久しぶりに上京することになって、明日会うことになったんですよ」と、横田部長は私のトンチンカンぶりいささか気をそがれてしまったらしいが、嬉しくて黙っていられない顔つきだった。

ケーリなんて気安く呼ぶから経理と早合点してしまったが、当時、同志社大学の名物教授オーティス・ケーリさんで、『太平洋の生還者』を読んで以来、一度お会いしたい方だった。
           
ケーリさんは“ALWAYS3丁目の夕日”の時代頃、新聞や雑誌によく登場し、日米比較文化論についての対談やエッセーは軽妙洒脱で、私には憧れの文化人だった。

           ◇ べらんめえ調の日本語に度肝を抜かれ ◇
横田部長によるとケーリさんはアメリカでも名門のアーモスト大学在学中に海軍に入隊して、太平洋諸島を転々とした後にニーミッツ司令部情報部員としてハワイの捕虜収容所で日本兵から情報を収集する特殊任務についていた。f0137096_19542558.jpg

ケーリさんは1歳の時に宣教師の父親と来日。幼少年時代を日本で送っているので日本語の読み書きができる要員として、ハワイの捕虜収容所で特殊任務に。そこでグアムで投降し捕虜となった横田兵士と出会ったのだ。「階級順に並べ!上等兵、伍長、軍曹、少尉…大佐、元帥、おっと元帥はいねぇか」と、べらんめえ調で捕虜たちの度肝を抜いたのがケーリ中尉だった。

捕虜とその管理をする立場、国力をかけて決死の戦いを続けている日米の立場を超えて、ハワイの捕虜収容所ではマル秘のグループが啐啄の時を迎えようとしていた。「両国と両国民のために一時も早く戦争を終わらせたい」という一念だけで、ある作業に勤しんでいた。 (啐啄=雛が卵の殻を嘴でつつくこと)。

           ◇ ハワイ捕虜収容所での親米派 ◇
日本人より日本語に通じ、近松門左衛門や松尾芭蕉など古典から現代文学まで研究対象とし、三島由紀夫作品など数多く英訳。英語圏への日本文化の紹介・解説者として知られるドナルド・キーン・コロンビア大学名誉教授もハワイで特殊任務についていた。f0137096_1956940.jpg

戦争末期、日本本土でもB29からばら撒かれた“早期戦争終結”や“ポツダム宣言受諾”を呼びかけるアジビラを記憶している方もいるだろう。私自身は九段下の『昭和館』で目にしたと記憶している。その宣伝ビラを作成していたのがケーリさんと横田さんら親米派捕虜だと聞いている。

ケーリさんやキーンさんらと横田さんら一部の親米派捕虜との結びつきは、戦後も交流が続けられており、『バリバリ会』と称して1年に1回交流会を開いてきたそうだ。


           ◇ 実は私の亡父もグアム生還者 ◇
実は私の亡父もグアム島で捕虜となり、ハワイの捕虜収容所にしばらく収容されていたが、満杯状態になり米本国の収容所に送られて、綿摘みなどの強制労働に従事した後、昭和22年の1月に日本へ送還された“生還者”の一人だった。父も戦地や捕虜収容所時代のことは黙して語らずの大正生まれだった。ただ、コーヒーとステーキが大好きで81歳で他界するまで愛していたことから察すると、親米派に近かったのではないだろうか。

そんな父親を持つことからも、ケーリさんと横田部長の『バリバリ会』には関心があって、原稿の締め切りにヒーヒー追われながらも、横田部長が“ケーリ”と口にすると引きずり込まれるのだった。

                ◇ セピア色の3冊 ◇
しばらくして、横田部長が出社してくるなり、厚い紙封筒を私の机にポンと置いて「興味があったら読んでごらん」と、言い残して取材に出かけたことがあった。中には『ジープ奥の細道』と『日本の若い者』『日本開眼』の3冊が入っていた。
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いずれも昭和25~28年に相次いで出版されており、頂戴した時には既に出版後30年以上も経って、表紙もページもセピア色に変色していた。もちろん絶版になって久しかった。

3冊とも著者はオーティス・ケーリさんになっているが、加筆監修というより横田部長との共同執筆と言った方が相応しい。ことに『ジープ奥の細道』は戦後間もない昭和24年9月、手に入れたばかりのおんぼろジープに新婚のアリス夫人と生後半年のベスことエリザベスちゃんを乗せて、京都からケーリさんの生い育った北海道を目指してロングドライブした紀行文である。

           ◇ ケイトねえちゃんとロングドライブ ◇
f0137096_2064176.jpg生後半年の乳児ベスちゃんを同行させるなんて「そりゃ無茶だ!」と、非難ごうごう。“ケイトねえちゃん”と名付けた進駐軍ご用済みのジープがとんでもないおんぼろで、エンコ続きの上に、当時の日本は幹線道路も穴ぼこだらけ、未舗装部分も少なくない。

芭蕉が奥の細道をたどった時代から220年後とはいえ、日本のローカルは古き時代の慣習を頑固に留めており、目の青いケーリさん一家は行く先々で“見世物”さながら。しかし人情機微に触れながらのドライブはお腹がよじれてしまうほど可笑しく、日本人の特性を浮き彫りにしている。現代にも通じる日米比較文化論が語られている。

横田部長はロングドライブの一部を同行取材しており、「原稿料はケーリと折半。お互いにOK」と握手してさっぱりしたものだったとのこと。

           ◇ 愛用のループタイをプレゼントされ ◇
ケーリさんと横田部長の共同執筆3冊の他に、私は愛用されていたループタイも頂いた。横田部長の送別会の数日前のことだった。f0137096_209775.jpg

ベンガラ色の木彫りの梅は棟像志功の手彫りだそうだ。志功が世に出る以前、居候をしていた市川・式場隆三郎邸のお嬢さんたちにプレゼントした帯止めをループタイにリフォームしたもので、精神病理学者で芸術にも造詣の深い隆三郎博士の妹が横田部長の奥様であった。「女房があなたに使ってほしいと言っている」と横田部長から手渡された。お礼の言葉に代えてひたすら大事に使っている。時を経るにつれ津軽塗りの輝きが増しているように思う。
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by love-letter-to | 2008-05-13 20:13 | レクイェム | Comments(7)

多摩の植物散歩 その①

           ◇ 草の心 木の心 土の心を ◇
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「ホトケノザというのは春の七草の仏の座とは違う野草でね」とか「今日は五日市の山地を下ってきたところで、ホオノキ(朴の木)の花が目の高さでユッサユッサ揺れて壮観でした」と、取材先から帰るなり嬉しそうに話しかけてきた横田正平さん。

足まめで観察眼は鋭いが“草の心”“木の心”“土の心”が伝わるような植物エッセーの名人だった。図鑑や文献も丹念に調べ、写真の腕もプロ級で毎日のようにニコンの一眼レフを抱えて多摩の山野を駆け巡っていた。片栗の花ひとつ取材するのに3~4回は通っていた。

           ◇ 金魚の糞のように ◇
f0137096_14492544.jpg元の職場アサヒタウンズで創刊当初は校閲と読者通信欄を担当されていたが、その後、報道部長として原稿の書き方のイロハから教わり、金魚の糞のように取材先にもくっついて行った。横田部長の足は早くて短足の私は毎度小走りしながら、フウフウ言わされたっけ。

普段は寡黙でちょっと煙ったい存在でもあったが、昭和52年1月から『多摩の植物散歩』の連載が始まると、取材先で見聞した草木の花について、それは愛おしそうに口の封を切る。

            ◇ 道端の草なんか…と ◇
日が西に傾いてくると、当時の下田尾健編集長に「お茶を一杯どうですか」と、仕事机の端に湯のみをコトンと置くことが多かった。目の前の私には「これはお茶ですからね」とウィンクして、二人でコップ酒を飲み始めると横田部長の舌はさらに滑らかになった。

当時、横田部長は還暦に近く、20~30代そこそこの女性記者たちとは年代差もキャリアも差がありすぎて近寄りがたく、「道端のありきたりの花なんか何で面白いんだろう」と“土産話”を聞かされるのは有難迷惑でもあった。f0137096_14505719.jpg
「草花に興味を持つようになるのは、年寄りになった証拠だそうよね」と、陰口もたたかれていた。横田部長の正面に座っていた私は否応なく相槌だけは打っても、肝心の植物の名前すら右の耳から左へ抜けてしまうのが常だった。

◇ 太平洋の生還者本人とは ◇
ある時、「横田部長は『太平洋の生還者』の主人公で、筆者の上前淳一郎の上司だった」と耳にした。『太平洋の生還者』は第二次世界大戦で玉砕したグァム島から劇的に生還した兵士のドキュメントで、第3回日本ノンフィクション賞、第8回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だったから、私も読んでいた。

しかし、目の前にいる横田部長がその生還者本人とは!グァム島玉砕寸前に投降して捕虜として米軍に協力した兵士だったという。戦争が長引いて故国が焦土と化すのを避けるために、戦争の終結を促す米軍作戦に協力したそうだ。当時の日本兵として珍しくクールでインテリジェントな陸軍兵士だったが、敵国に協力したとあっては…。

ハワイでの抑留生活を終えて敗戦国日本に引き揚げ、朝日新聞社に復帰してからも、その事実は殆ど語られず四半世紀を経て、部下の上前淳一郎記者によって明らかになった。何故、堅く閉ざした“貝の口”を開く気になったのか…横田部長に面と向かって聞く勇気はなかったが、「やっこさんに嗅ぎ付けられたんだ」と漏らされたことをおぼろげに記憶している。

           ◇ かつての玄関口でのトピックス ◇
それはそれとして、横田部長の駆け出し記者時代や支局長時代の裏話は実に面白かった。当時、人気だった連続テレビドラマ『事件記者』なんかお呼びじゃないほど、スリリングでヒューマニティに富んでいてしびれた。“筆の立つ記者の話は面白い”というのは事実だと思った。f0137096_15501553.jpgとくに私は戦後の横浜支局時代の話を聞くのが楽しみだった。当時、横浜港は海外の玄関口であったから、内外のVIPは横浜の税関を通る。税関で待ち受けてインタビューをした相手には現陛下の皇太子時代の英語教師バイニング夫人、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士や友永振一郎博士など…世界的な物理学者の友永博士が渡米したときの粗末な船室にいたく同情し、日本の学問に対する待遇のお粗末さを知らされたという。

           ◇ 新居に植えたバラが植物への興味を ◇
横田部長は昭和30年前後に退職金の前借をした50万円で土地を買って新築したという川崎市の自宅に、バラを数本植えたのが植物に興味を持つきっかけだそうだ。「育ててみると我が子以上に可愛いですよ」と、風船蔓や女郎花、花大根の種を頂くこともあったが、当時の私は食べ盛りの息子の朝晩と弁当作りに追われて植物の世話どころではなかった。

しかし、それから約30年、私は玉川上水の草木の花を追いかけながら、あの頃、もう少し身を入れて横田部長の草花の話を聞いておけばよかったと後悔している。そして私も野草に興味を持つ年代になったんだと、思わずにはいられない。
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           ◇ 手製のモノクロ写真葉書 ◇
横田部長が65歳で退職された後も、しばしば写真葉書を頂いた。葉書大にカットしたモノクロ印画紙にご自分で撮影した写真を焼き付けたオリジナル葉書だ。現在のようにデジカメ・パソコン・プリンターのない時代から、横田部長は手製の写真葉書を常用していた。裏面にはブルーブラックの万年筆で近況や、相変わらず続けておられた植物ルポのエッセンスが走り書きされていた。リタイア後も筆まめだった。
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まるで老いとは無縁に思われた横田部長だったが、昭和60年春に入院され病状は深刻だと知らされた。前立腺癌が発見された時は末期だったそうだ。いよいよ危ないと聞いて編集部員揃って駆けつけた6月末には…もう意識も定かではなかった。

           ◇ 他界後に上梓された珠玉の2冊 ◇
7月に他界された後ご遺族が書斎を整理していたら、『多摩の植物散歩』の原稿が出版を待っているかのように清書されていたそうで、三回忌を前に草思社から上梓され植物名コラムは陽の目を見たのだった。私の愛読書であると同時にホームページ『玉川上水の草樹の花』のウォッティングにも参考にさせてもらっている。有難い“虎の巻き”の存在だ。
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もう一冊、“太平洋の生還者”本人が戦地で肌身離さず持ち歩き、激しい戦闘の嵐でも記録していた手帳を元に、死ぬ間際まで書き続けていた戦争体験も、横田部長の死後5年目に出版された。その『玉砕しなかった兵士の手記:草思社刊』も、あの死闘の中でよくぞ冷静に戦争を見つめ、米軍に投降してハワイのキャンプでの極秘行動も綿密に綴っている。あの世へ旅立つ前に貴重な手記を遺された。

記録としても素晴らしいが、表現力豊かで無駄のない文章が心を打つ。枯れた心を潤してくれる。珠玉の手記である。
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by love-letter-to | 2008-05-06 15:26 | レクイェム | Comments(4)

百草画荘の善太郎画伯

          ◇ ワインカラーのルパシカにベレー帽 ◇
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梅はおろか葉桜のシーズンになってしまったが、梅が開花する頃になると、故小島善太郎画伯を懐かしく思い出す。梅の名所として知られる百草園の真向かいに住んでおられた。小島邸の庭園も百草園に劣らず見事な景観で、初めて訪ねた時は紅白梅が咲き香っていた。

「ここは背後の斜面が北風を遮って、冬でも天候のいい日は温かくて庭で写生をするのが日課」と、善太郎翁はルパシカ風のビロードの上着に同じワインカラーのベレーをかぶって、鉛筆を走らせていた。「ワァッ~!凄くお似合いで、ファッショナブルですね」と目を見張ると「そうかね。ファッショナブルかね」と小島翁は子供のように喜ばれた。
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日本の初期洋画界に革新をもたらした『独立美術協会』の創立メンバーで、当時、米寿を迎えておられたが、創作意欲で奥まった目がランランと燃えていたのを昨日のことのように思い出す。

 ◇ アトリエで極楽気分 ◇
30畳以上はあろうか、天井の高い広々としたアトリエに足を踏み入れた途端、展覧会場にいるような気分になった。三方の壁はサムホールから100号あまりの大作で埋まっていた。

処女作「村の娘」、安井曽太郎に賞賛され大正展覧会で受賞した「四ツ谷見附」、在仏時代にサロン・ドートンヌ展にて入賞した「パリ郊外」から近作まで、アトリエで直接拝見する幸せに浴した。“セザンヌのリンゴ”に対して“善太郎の桃”と言われるくらい、桃の絵では比類ない画家で、近作には桃の傑作が多かった。f0137096_1013774.jpg

「僕はね、画が自分の履歴書だと思うから、殆どの作品を手元に置いて、毎日眺めて自分を駆り立てているんですよ。十数年前の作品に筆を入れることもある」。その果てしない探究心は暗く重苦しい生い立ちによって培われたという。

 ◇ 暗く重苦しい青少年時代から ◇
善太郎翁によると明治25年に淀橋(現在の新宿副都心街)で生まれ、農業から転じた父親の商売が上手くいかず自棄酒で酒乱と化すのを、母親と弟妹で恐る恐る耐え忍んで育った。尋常小学校を終えると浅草の醤油屋で丁稚奉公に出ることになった。

雑用や注文取り・配達にも追われたが、売掛金の集金がことにつらかったという。谷中の墓地へ逃げ込んでは涙を乾かし、母親や弟妹の顔を思い浮かべて心を奮い立たせる日々だった。

ある日、両足を踏ん張って無心に木立を描いている男と出会った。周囲とは隔絶して絵に没頭していた男の姿に圧倒されて、「画家になろう!どんなことがあっても画家になる」と善太郎少年は自分に誓った。小学生が使うような粗末な絵の具と画帳を買い、わずかな時間でも絵筆を握ると配達や集金の労も救われたという。

          ◇ 絵を描くことが人生の全て・パリも微笑 ◇
「その少年時代の決心は揺らぐことはなかったのですか」と訊ねると、「絵を描くことで私は地獄から救われ、中村覚・陸軍大将や野村徳七・野村證券創始者の温かい支援も受けてパリで勉強をする幸運にも恵まれました。絵を描くことが人生の全てです」と、きっぱり。
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大正12~14年にかけて在仏中はルーブル美術館に通い、イタリアルネサンス期の画家ティントレットの300号の大作『スザンナ』の模写に励んだ。「さすが美術の都パリ。私のような東洋から来た画家の卵でも模写を許可され、心行くまで研究をさせてくれた。パリが私に微笑してくれた」と、小説よりもドラマテッィクな善太郎翁の話は尽きることがなかった。

後に『独立美術協会』を創設するきっかけとなった佐伯祐三里見勝蔵らと親交を結んだのも刺激になり、画家の登竜門であるサロン・ドートンヌ展に在仏日本人の中でいち早く入賞して自信を得たそうだ。

          ◇ セザンヌのように地方に住んで ◇
帰国後は新進画家として目覚しい活躍をするが、セザンヌのように中央画壇の派閥争いや“政治闘争”には背を向けて多摩に引きこもり、ひたすら自分の画に向かい合ってきたという。孤高の画家とか画壇の異端児とも言われてきただけに、この日のインタビューを喜ばれた。

「先生は何故、桃の絵をよく描かれるのですか?」「あの柔らかな質感と微妙で豊潤な色彩が私を魅了して、もっと美味しそうに描きたい。ジューシーに描けないものだろうか…と、寝床の中でも考え、翌朝が待ちきれない」と上機嫌で、恒子夫人手作りのお昼もご馳走になった。
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          ◇ 大音響で叱られた日も ◇
しかし一度、善太郎画伯に大音響で怒鳴られたこともある。1982年10月にオープンした立川駅ビル開設記念展として『小島善太郎・卆寿記念展』の開催準備中のことだった。私は実行委員会のメッセンジャー役として再三、百草丘陵の坂を上り小島画伯のアトリエに通っていた。

「あなたには失礼だが、朝日新聞社や駅ビルから何故、展覧会の責任者が一度も顔を出さないのか?これまで私の展覧会には美術館館長や主催デパートの重役が必ず足を運んでくれたのに…このままでは展覧会は取り止めだ!」と真っ赤になって、鬱積していた不満をぶつけられてしまった。
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「今回の先生の展覧会場の立川駅ビルはまだ建設中という特殊な事情で、10月1日オープンに向けて最後の追い込み段階なんです。完成させることが先決で250店舗のテナントとの調整にも責任ある地位の方は日夜追われて…、だから私のような下っ端記者が使い走りをしているんです」。心臓がオーバーヒートしそうになりながらも、私は諸事情を打ち明け説得に努めた。実は展覧会会場設営やポスターやチラシ、入場券などを含めると約1,500万円もの経費がかかり、その確保にも関係者は走り回っていたのだった。
          ◇ 青梅・小島善太郎美術館の建設にひと役 ◇
善太郎画伯も特殊な事情を納得されたようで、「あなたに済まないことを口にしてしまった」と、深々と詫びられた。後々、小島家のファミリーから「パパに頭を下げさせたのは、あなただけよ」と、語り草にもなった。ことに小島家の次女の敦子さんが私と同じ名前であったことも幸いして、末っ子のように可愛がってもらった。f0137096_10144927.jpg今春も梅の時期に百草園を訪ねる機会を逸してしまったが、梅の咲くシーズンになると、善太郎翁のあの剣幕に鼓動が高鳴る。この卆寿展がきっかけとなり青梅市立美術館の一角に『小島善太郎美術館』の建設が早まり大変喜ばれたことも懐かしい。

この卆寿展の2年後、善太郎画伯は92歳で他界された。存命中の最後の展覧会になっただけに思い入れも深い。
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by love-letter-to | 2008-04-14 10:15 | レクイェム | Comments(15)
       ◇ 数奇な運命の掛け軸のその後 ◇
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数奇な運命をたどった花本聴秋の句「休戦三日 踊れ月下の 敵味方」の関係者探しも一段落した後日、その作者聴秋宗匠の孫・上田都史(本名:馮介)さんから「昼飯に付き合ってくれませんか」と、誘いを受けたことが時折りあった。

「こんな爺さん寡とのデートじゃ悪いかな」「とんでもない!俳句のお付き合いは無理ですが、食事なら喜んで…」と、八王子周辺の割烹やレストランでルンルンご相伴にあずかった。

今から思うと、昭和60年代当時の上田さんは生涯で最も執筆作業に脂が乗り、多忙な時期であったのだが、一区切りつけると気分転換に食事や午後のティータイムに話し相手が欲しかったらしい。2年ほど前に奥様に先立たれていた。
       ◇ 粋なお店でランチデート ◇
待ち合わせ場所で落ち合うと決まって「老いの独り暮らしは食事が単調になってね。腹は空いても旨くないんですよ」と、うなぎやてんぷら、お寿司、時にはフレンチをご馳走になった。

なかなかの食道楽と見えて、穴場的な店へご一緒することが多かった。知る人ぞ知る俳人として馴染みの店も上田さんの美学にかなった粋なお店だった。

駅前の雑踏の中でも長身痩躯のダンディな上田さんは目立ち、後ろから声を掛けられたことも何度か。「お知り合いが多いようですね」「いや、孤高の“廃人”ですよ。山頭火尾崎放哉ほどではないが、わが道をヒタヒタ来たので…息子一家も寄り付かない」と、チラリと身の上話をされることがあった。

       ◇ 酒は憂いを掃く箒 ◇
上田さんはお酒も相当にイケルようだったが、下戸の私相手ではビール1~2本かお銚子2~3本でご機嫌になっていた。「呑めないのはアルコールを教育してくれる人がいなかったからでしょ。中国では酒は憂いを掃く箒といって、酒屋の目印に箒が掲げられているんですよ」「箒が酒屋の看板になっているんですか?」「酒の異名を“掃憂箒”といったことに由来するそうです」。
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私にとっては博学で漢和辞典のような人としか言いようのない上田さんだったが、どこかに屈折した影を宿し、シャイで立ち居振る舞いは痺れるほど素敵だった。当時喜寿を超えられていたが若き日のハンサムぶりも健在で、いぶし銀のような色気を漂わせていた。
       ◇ 10代から俳句に親しんで ◇
祖父が京都俳諧の重きをなした俳人という家に生まれ育った上田さんは、10代から俳句に親しみ俳句の個人誌を編み29歳の時、処女句集『純粋』を刊行している。「だけど親爺はコチコチの海軍教官で、全く文学には無縁の人でした」「じゃあ隔世遺伝ですね」「まあ、そうとも言えるが、祖父のはいわゆる月並み俳句でした」と、バッサリ言ってのけたので、びっくりしてしまった。

あの“休戦三日踊れ月下の敵味方”の句の作者が月並みとは…!「あの句で私も祖父を見直しました。小説でも絵画でも作者の手を離れて生きるというか、読者や観る人々に運命が委ねられるのと同様に、俳句も一人歩きして数奇な運命をたどるものだと感動させられましたよ」と上田さん。

都史さん自身も五七五の定型句からスタートしたそうだが、花鳥風詠が本来の俳句ではない。人間を謳うことが俳句の原点で、形式に縛られず人間の機微を謳いたいと自由律句を詠むようになったとのこと。山頭火尾崎放哉の研究家で、二人の評価を世間に知らしめた一人である。

       ◇ 糠に錆び釘 ◇
「俳句というのはそんな敷居の高いものではないですよ。日々感じたことや目にした印象を自分の言葉で表現すればいい」と、それとなく俳句に誘われたのだが、当時の私には“糠に錆び釘”に終わった。

お会いした時は決まって、上田さんの新著を頂いたが、“積読”するだけだった当時が今になって恥ずかしい。悔やまれる。『放哉漂白の彼方=講談社』『俳人山頭火=潮文新書』、子規を起点とする近代俳句から現代俳句への道程を紐解いた超大作『近代俳人列伝』3部作他、こんなに沢山の著書を頂いていたのか…と。そしてこれらは私への“ラブレター”ではなかったのかとも思う。いわゆる恋文ではなく人生の先輩として先明かりを灯してくれたに違いない。

       ◇ 香港・廣州・桂林の旅から ◇
その内の一冊『香港 廣州 桂林からの手紙』は、金子兜太夫妻らと訪ねた香港・廣州・桂林の旅の随想であるが、単なる紀行文ではない。上田さんの人生が凝縮されている。豊穣な知識と研ぎ澄まされた触覚と嗅覚で捕らえた点景に熱い想いが!読み終えた夜は熱い“恋文”に興奮して眠れなかった。

その後、上田さんは後添えに恵まれたが、晩年の幸せは短かった。胃癌で入院して2ヵ月足らずで風のように消えられて13回忌が過ぎた。今、『心の俳句 趣味の俳句』を読み始めて、遅まきながら俳句に惹かれ始めた。
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上田さんの知己や慕う人たちで八王子・金南寺境内に建立された句碑には、「男地球に立ち夕映えに言うこと多く」と、男の気概が刻まれている。私は「豆腐屋うらへ廻った陽も廻った」と何気ない暮らしを詠んだ句が好きだ。
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            夕錦 見せたき男の 懐手(ふところで)  モグラ
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by love-letter-to | 2008-02-17 14:00 | レクイェム | Comments(10)
       ◇ 大戦中の北京郊外で ◇
日野市に住んでおられた黒田世志子さんから一幅の掛け軸の持ち主を探したいと相談を受けたことがあった。昭和16年、日中戦争から太平洋戦争に拡大した直後、北京郊外で前線に移動する部隊を見送っていた列に近づいてきた馬上の兵士から手渡されたそうだ。
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「君に預けるよ」と軍服の下に隠し持っていた細長い包みを黒田さんに手渡して、その兵士は走り去ってしまった。咄嗟のことで名前を聞く余裕もなく、軍の機密に関することで部隊の行き先も知ることはできなかった。受け取った薄鼠色の風呂敷を開けてみると、「休戦三日 踊れ月下の 敵味方」と力強い筆跡で句が書かれていた。

地紋の入った絹地で表装してあり、よほど大事にしていたものと思われた。その兵士の筆によるものか、戦地に赴く時のはなむけに持たされたものか知る由もなかった。しかし、記されている俳句は「休戦には敵味方なく踊れ」と明らかに反戦の意が汲み取れる。前線に向かう兵士が所持していては処罰間違いない。

敗戦直後、黒田さんは託された掛け軸を行李の一番下に隠して大連から引き揚げ船に潜り込んだ。引き揚げ先の祖母宛に送った行李13個のうち、届いたのは1個だけだった。が、奇跡的にもその行李に兵士から託された掛け軸が入っていたのは、幸運だった。

       ◇ 戦後40年を経て・・・ ◇
戦後の混乱期には掛け軸のことなど省みる余裕がなかったが、戦後40年近くなり、黒田さん自身70代半ばに差し掛かって、その掛け軸のことがしきりに気になってしょうがない。

長く古文書の研究をしておられた小平市の松田銀治さんに、右隅に書かれてある書名と落款を判読してもらったところ、署名は「聴秋」と読み取れ、素晴しく切れ味のいいスケールの大きな句で「相当な俳人の作だろう」とのことだった。

ボロボロになってしまった表装も専門家に依頼してお化粧直したので、作者に関する情報を得て、できれば持ち主かその縁のある方を探し出したいと黒田さんは切望していた。
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しかし、40数年も前、中国大陸での出来事である。馬上の一兵士の身元など探し出すのは、砂丘から一粒の砂を選び出すよりも難しい。黒田さんには気休めの言葉もかけられなかった。

    ◇ 尋ね人探しに朗報 ◇
ところがである。その記事を紹介した紙面が配布された昭和59年7月14日の翌日、立川市の古美術商店主からかなり自信に満ちた声で電話がかかって来た。「聴秋は恐らく花本聴秋でしょう。本名は上田肇と言い、花本流派の11世宗匠で明治~大正期に京都の俳壇で重きをなした俳人の一人です。しかも孫にあたる上田都史さんが八王子市に住んでおられます」とのことだった。

「うっそ~!ほんと~ォ!」と飛び上がらんばかりのホットニュースだった。上田都史さん自身俳人であり、『俳人山頭火』『人間・尾崎放哉』などの俳句評論や随筆でも著名で、裏高尾に長年住んでおられた。奇遇というか、この馬上の兵士から託された軸の数奇な運命の糸に眠れないほど興奮してしまった。

数日後、古美術商の案内で黒田さんと一緒に裏高尾の上田家を訪ねた。小仏川支流のほとりの住まいは、いかにも文人の隠れ家といった簡素だが風情のある平屋であった。
       ◇ 句の作者子孫と対面 ◇
「一昨年、家内に先立たれた男寡の独り暮らしですから、行き届きませんが…」と通された玄関の三和土と板の間には焼き〆の大小の壷が無造作に転がり、通された座敷の書棚には書籍がぎっしり。当時上田都史さんも喜寿を迎えられていたが、痩身長躯のダンディな紳士だった。
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上田さん自身が所蔵していた祖父花本聴秋の短冊の一枚にも、「十年のうらみも忘れ初日の出」と、旅順開城を詠んだ句があり、作風も署名も「休戦三日…」の軸に酷似していた。上田さんの記憶にある聴秋は全国に門人がおり、ひんぱんに旅をして先々で色紙や軸を書き、生活の糧にしていた。

黒田さんが馬上の兵士から手渡された軸装も、そうした一枚だろうとのこと。「持ち主に返したい気持ちも尊いが、『預けるよ』と言ったのは戦場で灰にしたくなかったからでしょう。
また、戦地にあっても平和を愛する気持ちを持ち続け、馬上から黒田さんに手渡した時に戦う兵士に自分を駆り立てて行ったのではないか…」と、斟酌された上田さんの横顔は忘れ得ない。人生観の奥深さに打たれてしまった。

       ◇ 戦火をくぐり抜けた掛け軸は菩提寺に ◇
馬上の兵士の意志を大事にしてきた黒田さんへの最高の言葉の贈り物だったと思う。そして私にも言葉の持つ力、五七五に託された人生の襞にこの頃になって熱くなっている。その後、黒田さんはその軸装を兵士へ弔いとして自身の菩提寺に納めたとのこと。「休戦三日…」の句は戦火をくぐり抜け、戦後の混乱期も経てやっと安住の地にたどり着いた。
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その後、黒田さんからは音信が途絶えて消息は分らないままになっているが、あの日の帰りに見た小仏川支流の眺めは、私の目に焼きついて離れない。
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by love-letter-to | 2008-02-10 15:57 | レクイェム | Comments(7)

根川のめがね橋

         ◇ 『根川のめがね橋』の絵との出会い ◇
立川駅ビルのオープン(1982年10月1日)と同時に勤め先のオフィスが、その9階に移転することが正式に決まり、朝日ギャラリーも併設されることになった。そのオープン記念展として開かれた故倉田三郎先生の『多摩の風景画展』も、思い出が深い。

その数年前に、立川駅北口のたましんギャラリーで開催された『多摩を描いて50年』という倉田三郎先生の個展会場で目にして以来、網膜に焼きついて離れなかった『根川のめがね橋』。
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たしか6号くらいの小品だったが、早春の萌えたぎる緑が根川の川面も緑に染め、石橋のアーチが長閑な田園風景を一層ポエジーのあるものにしていた。根川は立川市南部の段丘から発する小川で2キロほど下って多摩川に合流してしまうが、現在もその流域は根川緑道として整備され、桜の名所になっている。
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作者の倉田先生は牛乳瓶の底をはめ込んだような度の強い眼鏡をかけ、会場では旧府立二中(現都立立川高校)の教え子たちから“クラッちゃん”と呼ばれて人垣が絶えなかった。

       ◇ 惚れて口説いて… ◇
その温かい輪と『根川のめがね橋』に惹かれて、同ギャラリーのオープニングはぜひ倉田先生の作品展にしたいと熱くなって、編集会議で「倉田先生は如何でしょうか。多摩に住んで多摩を描き続けて半世紀以上になるそうですし…」と、口に出してしまったから大変!時として身の程知らずの発言をしてしまう私である。f0137096_13214750.jpg
週刊のタブロイド紙創刊以来8年、その紙面を埋める取材オンリーだった記者が、突然、ギャラリーの営業まがいの仕事もやるのだから、冒険に近い。もし、倉田先生がウンと言ってくれなければ…、ギャラリーの会場費ぐらいの絵の売り上げも・・・と考えるだけで頭が狂いそうになった。

しかし、この『根川のめがね橋』に惚れたお陰で、「あの絵をもう一度見たいんです。ぜひ作品展をやらせて下さい」と、倉田先生をすんなり口説くことができてしまった。それは倉田先生の温情によることが大きかったが、『根川のめがね橋』のお陰でもあろう。

お陰で『倉田三郎・多摩の風景画』展で、朝日ギャラリーのオープン記念展を飾ることができ、連日、バーゲン会場並みの人出で賑わった。バブルの絶頂期であり、立川の名士といわれる人の多くが倉田先生の教え子だったこともあって、絵の売り上げも…。
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その後も数回、毎年、倉田先生の作品展を開催して、私もパリとソフィア郊外の水彩画など数点を格安で譲って頂いて、勝手に想像を膨らませながら楽しんでいる。今は亡き倉田先生と対話しているようでもある。

       ◇ 名誉教授の肩書きなんか ◇
それはともかく、小金井駅南口に近いアトリエに何度も通い、「ねえ先生、油絵もいいけど、スケッチや淡彩の方が伸び伸びして先生らしさが感じられますね」などと、生意気な口を利くほど親しく接して頂いた。当時、国際的な美術教育界の大御所にして学芸大学名誉教授で、画壇・春陽会の古参メンバーでもあった倉田先生にである。

しかし、倉田先生は全くブラない人柄で「学芸大学名誉教授の肩書きなんか、くれるから貰っただけのことで、本業は一介の絵描きだよ。絵描きでは食えないから教師と二足草鞋を履いてきたが、これでも古式泳法水府流の達人で、青山師範学校時代には“河童”と呼ばれ、模範演技を披露したもんですよ」と、ドリフターズのズンドコ節調で抜き手の真似をしたのには大笑いさせられた。
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倉田先生によると、青山師範学校卒業後、愛媛師範学校の美術教師を数年、昭和3年に府立二中の教師として赴任すると同時に、小金井へ転居。当時の立川や小金井周辺は至る所に武蔵野の田園風景が広がり、絵心を掻き立て修業するのに絶好の条件が揃っていた。

       ◇ “坊ちゃん”さながらの熱血先生 ◇
「府立二中では生徒と根川へ写生に出掛け、水泳もよくやったな」。先生自ら授業を放り出して水泳に熱中したり、独身の青年教師だったので、宿直も進んで引き受け、生徒たちと宿直室で盛り上がったこともしばしば。

生徒が校則違反をすると、「また倉田がけしかけたのだろう」と校長に訓示されたことも多かったそうで、漱石の“坊ちゃん”以上に直情・熱血教師だったようだ。生徒たちからは兄貴のように慕われていたという。f0137096_1332640.jpg
その熱血“クラッちゃん”は、長女の江美子さんによると、食卓についてさえもチラシの余白に子供たちの表情や手足の動きを鉛筆で走り描きしていたそうだ。とにかく目の開いている間は所選ばず絵を探求していた。海外30数カ国の街や村、人々の絵も素晴しい作品として残されている。多摩の絵は郷土資料としても高く評価されている。

       ◇ 絵は自分探求 ◇
「先生ほどの方がどうして、寸暇を惜しんで絵を描くのですか」「上手く描けないからだよ。自分探求なんだよ」と、アトリエで会話したことも忘れられない。『多摩総合美術展』などの審査では下手でも努力の跡が見られる絵を評価していた。1992年90歳で他界されるまでの代表作の多くは、たましん地域文化財団に買い上げられたり寄贈されている。同財団の青梅・御岳美術館には、それらの作品が常設展示されている倉田三郎記念室がある
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御岳美術館:1993年11月に「たましん歴史・美術館」の分館として開館。多摩川の上流、御岳渓谷遊歩道に面した景勝の地に位置し、明治・大正・昭和にいたる近代日本の美術を中心に展示している。
主な展示作品は、荻原守衛(碌山)「女」・高村光太郎「手」・中原悌二郎「若きカフカス人」・ロダン「カレーの市民(第1試作)」・マイヨール「トルソー」などの彫刻作品、浅井忠・岸田劉生・藤島武二・鳥海青児・梅原龍三郎・中川一政などの油彩。また、多摩を代表する作家である春陽会会員、故倉田三郎画伯より寄贈された作品の中から「世界の旅」シリーズをテーマごとに展示。喫茶コーナー・ミュージアムショップ併設。年1~2回の展示替えを。〒198-0173 東京都青梅市御岳本町1-1 青梅線御岳駅より徒歩18分
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by love-letter-to | 2008-02-03 13:45 | レクイェム | Comments(6)
       ◇ 戸惑う立川駅前の変貌 ◇
10年ひと昔といわれるが、立川駅北口を訪ねるたびに“浦島花子さん”の心境になってしまう。改札口から放射状に伸びたペデストリアンデッキ(歩道橋)を伝って伊勢丹や高島屋、立川シネマシティなどへ直行できるのは便利だが・・・赤坂や六本木と変わらないじゃん!
ここ10年足らずで無機質のスケープになってしまった。
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勤め先のオフィスが立川駅ビル内に移転してからも20年近く通い続けた立川駅。立川駅ビルは昭和57年(1982)オープン当初はWILLと呼ばれ、その9階の西端に私の勤め先のオフィスと併設のギャラリーがあった。

全面ガラス張りのオフィスの窓からは立川駅北口ロータリーが見下ろせ、バスの離発着や通行客が機械仕掛けの小さなおもちゃのように見えた。原稿に行き詰ると、小人国のガリバー気分でロータリーの右往左往に気分転換をはかったものだった。

       ◇ 待ち合わせに利用した『立川ビル画廊』 ◇
在職時代には目の前が立川高島屋でその先はたしか野村證券立川支店で、同証券のロビーと隣り合って『立川ビル画廊』があった。画廊といってもそのビルのエントランスホールの壁面を利用した“通路ギャラリー”であった。
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しかし、バス停で次のバスを待ったり、銀行やデパートの行き帰りに気軽に立ち寄れるだけでなく、待ち合わせ場所としても絶好の『立川ビル画廊』だった。冷暖房完備で無料で時間つぶしができ、座り心地のいい長椅子も置かれていた。

この『立川ビル画廊』がオープンしたのは昭和41年6月。東京オリンピックの翌々年のことで、多摩地区にはまだ画廊らしい画廊が殆どない時代であった。基地の町立川のイメージも拭いきれてなかった。

そんな立川駅前で、ビルのエントランスホールを画廊に利用するという先駆的な発想をしたのは、ビルのオーナー会社社長の故岩崎茂雄さんであった。肩書きに似合わず、詩人でクリムトの絵を愛した“精神貴族”であった。

       ◇ 休む場所のある街に ◇
立川の街づくりに対して岩崎さんは次のように語り、具体的なヴィジョンを描いていた。
「立川の街で一番欠けているのは腰掛ける場所だと言われています。ショッピングに立川に来ても、ゆっくり休む場所がないという不満が調査結果にも表れています。休む場所のある街とは緑陰のある街角、人間的な触れ合いのある街だと思います」。
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岩崎さんが訪ねた欧米各国で心に残っているのは、テラスで珈琲を飲みながら町行く人を眺めたり、木陰のベンチでひと時を過ごせた街であったという。

岩崎さんが素晴しいのは口で言うだけでなく、自社ビルでそのヴィジョンを実践したことだろう。その手始めが『立川ビル画廊』で、多摩地区在住の作家や美術団体、絵画・彫刻・工芸サークルの作品展が次々に開かれ、発表の機会を得た。これらの作品展を通してどれだけ多くの人と人の出会いや触れ合いの場を演出してきたことだろう。

       ◇ 画廊開設10周年記念誌として ◇
立川ビル画廊』がオープンして10年。その記念誌として小冊子『街角から』が発刊された。大沢昌助画伯のコンテンポラリーな女性像を表紙にした斬新な随想集で、寄稿者の絵やイラストもふんだんに使われている新書版サイズの小冊子である。

岩崎さんの話では当初は画廊十年誌としてまとめるつもりだったが、次第に構想がふくらんで、画廊を包み込んだ街の理想像をこの小冊子に託して『街角から』のタイトルにしたそうだ。寄稿者たちの街に寄せる思いが行間にあふれている。
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       ◇ 岩崎コレクションに囲まれて至福の時間を ◇
「もし、時間があったら、おしゃべりに来ませんか」。この小冊子がきっかけで岩崎さんから時々声がかかり、岩崎さんの社長室を訪ねた私は、壁面の絵画コレクションに上気しながら夢のような時間を過ごした。岩崎さんはもっぱら聞き役で、私のとりとめのない話に耳を傾けてくれた。

その後1983年には『立川ビル画廊』の北側に、洒落たティーサロン『アルビヨン』とケーキショップ『エミリーフローゲ』、アートサロン『四季』も開設された。それらのオーナーも岩崎さんで、手狭な路地裏の一角にホッとするような小さな緑陰が設けられていた。
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西脇順三郎やボードレールの詩を暗誦していた“永遠の二枚目”だった岩崎さんは、1993年、国立駅前に『コートギャラリー』も開設した。コート(中庭)をはさんで南北に2室の展示スペースがあるモダンでゆとりのあるギャラリーだったが、何故国立に?

立川駅北口の再開発で『立川ビル画廊』も『アルビヨン』などのエリアも消えてしまうことになっているからとのことだった。ビルのオーナー社長といえども大型再開発のプロジェクトには抗し切れない挫折感を持っているのだと、その時知った。

そう言えば、「小企業といえどもトップは孤独なもんです。社員とは個人的に話すことも難しい。決断は下さなければならない」と、口にされたことがあった。私レベルではない憂愁が岩崎さんの顔の彫りを深くしていたのかもしれない。

小冊子『街角から』は3年おきぐらいに6巻まで岩崎さんのポケットマネーで刊行されたが、2003年5月、岩崎さんは急ぎ足で他界されてしまった。81歳とのことだったが青年の心のまま逝かれたように思う。昨今の行財政界リーダーたちの品性を欠く報道を見聞きするたびに、岩崎さんの澄んだ瞳が懐かしくなる。
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この歌は明治39年牧水22歳の学生のとき、奥多摩へ行く途中に立川に立ち寄ったときに詠んだとのこと。歌碑は立川市制10年を記念し昭和25年に建てられたもので、碑面の文字は喜志子夫人による。
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by love-letter-to | 2008-01-27 21:47 | レクイェム | Comments(8)

水芭蕉曼陀羅

             ◇ 心に残る年賀状 ◇
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年賀状を書いたり頂く年の瀬年明けになると、思い出すのは故佐藤多持先生から頂いた手描き、あるいは手刷りの賀状です。葉書サイズとはいえど、単純な線と色で描く佐藤さんの墨彩画の世界に引き込まれてしまう。

もう30年も前になるだろうか…。頂くようになった当初の頃は、「さすが日本画の大家!しかし筆まめな先生だ」ぐらいに軽く受け止めて、散じてしまったのが残念で仕方がない。

ある時、保存しておけば佐藤多持コレクションになると気がついた。年賀状だけでなく、個展やグループ展などを取材したり、会場に出向いただけでも丁寧な礼状を下さった。それらを数えてみたら20点以上にもなっている。私の愛するコレクションである。
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       ◇ 水芭蕉曼陀羅に託された美の探究 ◇
立川駅北口のたましん本店ビル9階に、多摩地域では初めての本格的な『たましんギャラリー』が開設され、そのオープニング展で初めて佐藤さんの『水芭蕉曼陀羅』を拝見して、グサリと心臓をえぐられたように思った。

闇を鋭利な刃物で切り裂くような線と金環食の太陽のような円。黒と白、線と円だけでダイナミックに描かれた水芭蕉が、静と動、強と弱を感じると同時に太古から未来を連想させ、鋭く問いかけてくるようだった。いわゆる日本画とは違う。
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生意気にもそう口にしたら、「僕が20代の頃、尾瀬で最初に水芭蕉に出会った感動は衝撃に近かった。雪解けの冷たい水の中から仏炎苞を覗かせ、朝の光が射してきた光景は、この世にこんなに美しく尊い姿があるのかと…。その時の感動を絵にしたい。その一心で格闘している僕の奇跡が線であり円なんだ。終戦間もない頃からの美を求め続けている」と佐藤さん。

気さくに応えて下さった佐藤さんに魅かれて、その後、国立駅北口の高台にあるアトリエを訪ね、円月殺法のような鋭い線を描く所も拝見させて頂いた。筆に墨をつけて紙に下ろしたら最後、やり直しの効かない一発勝負。躊躇いもできない。
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真剣勝負の制作活動を続けておられた佐藤さんだが、本当にマメに画廊巡りをされ、趣味レベルのグループ展でもお目にかかることが多かった。「素人もプロの画家の絵でも見ることが勉強。吸収するものがあり、常に自分に問いかけ試している」とのことだった。
そうか、絶えず新しいものを吸収して感性を刺激しなければ、大家といえど萎んでしまうのだ!

◇ 美術教師が描いた戦時下の絵日誌 ◇
戦後40年の節目の年、昭和60年の6月、ある美術教師の青春というサブタイトルで『戦時下の絵日誌』が刊行された。佐藤さんが戦時中に勤め先の昭和第一工業学校(現昭和第一学園高校)で、暇を見つけては色紙に筆を走らせたスケッチ146点を収録した画集である。

佐藤さんは東京美術学校(現東京芸大)日本画科を昭和16年12月に繰り上げ卒業させられるなり入隊したが、右手の負傷が悪化して軍医から「君は絵を描く生命を持って生まれてきたのだから、絵を描け」と除隊を強く勧められた。

戦地に赴いた友人のことを考えると、心苦しかったが軍医の強い勧めで生家の観音寺(国分寺市)に戻った。療養しながらも日中ブラブラしているのは苦痛で、昭和一工夜間部の美術教師に。

当時、近くの軍施設に全国から優秀な生徒が徴用されており、夜間部に通って来ていた。昼間は絵に専心し夜間教師を務めた佐藤さんは、昼間働いて夜学に通う青年たちの兄貴分という感じだったそうだ。

そのうち昼間部の若手教師はどんどん徴用され、佐藤さんは昼間も教壇に立つようになった。教壇に立つ頃から戦況は厳しくなったが、佐藤さんは5分でも手が開くと色紙に筆を走らせて授業風景や学校行事、軍事訓練、同高付近の町や人々などを写生するようになった。立川空襲で燃え上がる街や避難する人々、買出しでごった返す駅前などなど。

昭和18年1月から24年6月10日までに描いた色紙は146枚。戦中戦後を思い出させる色紙はその後仕舞い込まれたままになっていたが、戦後30年も経て、その一部をたましん本店のロビーに展示したところ、貴重な戦争記録だという声が高まり、『戦時下の絵日誌』が出版される運びになった。
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佐藤さんから頂いた賀状や礼状を目にすると、初対面の頃から先年他界されるまでの思い出が噴出してくる。20数点の葉書にも歴史あり、佐藤さんの手描きの温かさが私を包んでくれる。佐藤さん有難う!思い出の数々を有難うございました!
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by love-letter-to | 2007-12-29 23:46 | レクイェム | Comments(6)

水引草の取り持つ縁

             ◇ 水引の花 ◇
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前回の柏樹みささんを紹介してくれた児島一枝さんにも忘れがたい思い出が多い。読者投稿欄の常連だった児島さんから、ある時、「水引の花」と題して次のような一文が寄せられた。
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「近所から頂いた水引草が今年もずいぶん咲く。遅咲きのホウセンカが満開している間にも“私も咲いてます”といいたげな風情。幼い頃、花の姿が祝い事の熨斗袋にかける紅白の水引に似ているので、ミズヒキと教わったのを思い出す。種類が他にもあり、白一色のは銀水引。紅白の花をつけるのは御所水引と呼ぶこともあると本に書いてあった。花の名を知り、所以を知ると親しみが増す。我が家のは赤一色。5~6本まとめてしごいて手に広げると、四方に甘くやるせない香りが広がった」
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        ◇ 水引草へのラブレター殺到 ◇
この児島さんの投稿を読んだ読者から、児島さん宅へ採取したばかりの銀水引の種が届けられたそうだ。児島家には多すぎるので銀水引と児島家の赤のミズヒキをセットで10人ぐらいにプレゼントしたいとのこと。読者投稿欄で希望者を呼びかけたところ、ちょっとした水引ブームが起きて、水引草に思いを寄せるラブレターや投稿が私のデスクに山積みになってしまった。

居ながらにして投稿できるインターネットやメールのない時代のことで、ハガキや手紙に一筆書いて投函する手間をいとわず、寄せられた投稿には“心のつながり”を感じ、責任もひしひしと胸に迫った。
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         ◇ お祖母ちゃんカメラマン ◇
水引草の取り持つ縁で、昭和57年当時67歳だった児島さんが、13人の孫それぞれの誕生からの写真を撮り、アルバムにして成人式のプレゼントにしたいとハッスルしていることが分った。既に9年間も続けており、アルバムを積み上げると1メートルにも達していた。

児島さんは南満州鉄道株式会社(略して満鉄)鉄路総局に勤務していたご主人と結婚後間もなく中国に渡り、チチハル、奉天(現在の瀋陽)、大連、北京、徐州と転居しながら3男2女の母親になった。慣れない大陸での生活に5人の子育てに追われて、子供たちの成長記録や記念写真を撮ってやれなかったことが心残りで、初孫が誕生した日から“お祖母ちゃんカメラマン”に。

お宮参りや誕生日、七五三などは欠かさず、入園・卒園、入学式。運動会などのイベントにも駆けつけ、愛用のコニカC35AFなど3台のカメラで撮りまくった。もちろんデジカメなどが誕生する昔むかしのことだから、フィルム代とDPEの費用を加算すると…。
「主人がずいぶんお金を使ったな、と呆れるけど、男の付き合いの飲み代に比べれば安いもんです」と、あっけらかん。
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         ◇ 言葉の花籠 ◇
“書くことは自分を愛しく思うこと”称して、新聞やミニコミ紙、地元八王子市の老人クラブ連合会の会報などへもマメに投稿していた。これは!と思う記事は切り抜いてファイルしておく新聞雑誌の“切抜き魔”でもあった。

特に心を打った言葉、知識を広げ耳寄りな情報を知らせてくれる記事やコラムを、児島さんは3度の食事と同じくらい大切な物と語っていた。だからだろう、頭が柔軟で若々しかった。

そして、それらの投稿や切抜きをまとめて、5年くらい先に迎える金婚式には本にしたいと語っていた。

自分史をまとめたいという人は多いが、実現するまでには山あり谷ありで、なかなか難しい。ところが、児島さんは見事に実現してしまった。『言葉の花籠』と題して、金婚式を迎えてまもなく昭和63年11月に刊行された。“普段着のまま飾らないで書く”ことをモットーに、暮らしを綴ることを提唱していた『ふだん記全国グループ』から出版された。お祖母ちゃんカメラマンの写真も巻頭のグラビアで満開!
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      ◇ 人の一生は400字詰め原稿用紙に一字一字 ◇
あとがきで児島さんは、次のように書いている。「人間の一生は400字詰めの原稿用紙を1字1字埋めてゆくのと同じともいう。空白があったり、迷路に迷い込んだり、時には輝かしい光が見えたりする。ある日、ふと投じた拙文が採用になり活字に。それがきっかけで私の本が誕生した」と。

このブログ『忘れ得ぬ人々』も積み重ねて行くと、あるいは児島さんの『言葉の花籠』のように、これまで出会った方々との思い出や触れあいが縦糸や横糸になって織り上がるかもしれない。

水引草で取り結ばれた児島さんとの不思議なご縁に改めて感謝している。
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by love-letter-to | 2007-12-08 21:24 | レクイェム | Comments(6)

お婆ちゃまモデル

      ◇ 惚れ惚れした着物姿 ◇
f0137096_20471443.jpg残念ながら手元には右のような小さなボケた写真しか残ってないが、私の網膜にはTVコマーシャルと全紙大のポスターで、にっこり微笑んでいる柏樹みささんの笑顔が焼きついている。

白髪をすっきりまとめて、さらりと着こなした着物姿は年輪を重ねた女性ならではの気品があった。「こんな美しい年のとり方をしたいものだ」と、惚れ惚れしたものだった。

昭和50年代から60年代半ばにかけて『山本海苔』『富士フィルム』『真綿布団』などのテレビCM、『敬老の日』のイメージポスターなどに登場していたから、記憶されている方もいるのではないだろうか…。

初めて柏樹さんの姿を目にしたのは、タウン紙の読者投稿欄へ送られてきた児島一江さんからのスナップ写真だった。八王子市いちょう祭り会場で児島さんと並んでいた羽織にもんぺ姿の粋なお婆ちゃんが柏樹さんだった。

      ◇ 超モダンな羽織ともんぺ姿 ◇
羽織の片袖が肩にかけたスカーフと共布で、実にモダンで新鮮だった!その時はモデルさんをしているとは露知らず、児島さんから紹介してもらって八王子市千人町の裏通りに住んでおられた柏樹さんを訪ねた。
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「まあまあ、私のようなお婆ちゃんに会いに来て下さって…」と、こちらが恐縮するように深々と頭を下げて迎えて下さった。きめ細かな肌は艶やかで頬がほんのりピンク色。写真で拝見したよりも一段と美しかったが、「生まれ持ったものを大切にしたいと思っているだけなんです」。柏樹さんは当時79歳で、紅やおしろい類は一切つけてないとのことだった。

目を丸くしてその美しさの秘訣を伺った。柏樹さんの肌のお手入れ方は朝晩、洗顔をした後、日本酒に輪切りにした柚子を漬け込んだ手作りの“化粧水”を顔と手にパタパタはたき込むだけ。「酒飲みの男性は色艶がいいのは、きっとお酒の成分が肌にいいのでは…」と、試してみたのがきっかけで十数年前から使い続けているとのこと。土台が元々いい上に所作や心の持ち方も柏樹さんを美しく輝かせていた。

16歳で富山の旧家の長男に嫁ぎ、舅姑、小姑たちに“おしん”のような苦労をさせられ、夜逃げ同然で千人町に移り住むまでの柏樹さんは、小説以上に波乱の半生だった。また、53歳で死別するまで昔気質の夫は、近所の人と立ち話をしても声を荒げる人だった。

「でも、くしゃくしゃした気持ちでいると、周囲の人まで不愉快にしてしまうでしょ。つとめていい顔をしていようと思って」と語る柏樹さんの和やかな表情には、そんな苦労の跡が微塵も感じられなかった。

      ◇ 夫に先立たれて“外さん”に ◇
53歳で表具職人だった夫を看取った後、柏樹さんは次女一家と同居したが、つとめて外へ出掛けることにした。「それまで40年近く、家から殆ど出たことがなかったので、外の空気を吸いたかった」と、奥さんから“外さん”に。入場料のかからないテレビやラジオの視聴者参加番組にもよく足を運んだ。顔見知りに誘われてドラマのエキストラにも応募してみた。

通行人の役などで出ているうちに、あるプロダクションから「モデルに登録しないか」と声をかけられた。小柄で上品な柏樹さんはお婆ちゃん役として、女優さんの後ろ姿の代役としてモデルの口も増えてきた。「自分でも役に立つのが嬉しい。どんな役でもやることが楽しい」と、柏樹さんは自分の居場所を見つけた。下手でも一生懸命さは伝わると思った。

柏樹さんのような素人モデルは、プロダクションから電話がかかるのを待つのが“仕事”。「今か今かと電話を待つのも楽しい」と、当時柏樹さんは79歳だったが、何時でも出掛かられるように身支度をして電話を待っていた。○○日、○○時、○○へと指示された時刻に現場へ。都内のスタジオから神奈川、埼玉などのロケ現場へも一人で駆けつけた。

      ◇ 働いて食べるお弁当は格別の味 ◇
往復の交通費とわずかなギャラと弁当しか出ないが、スタッフや出演者らと一緒に食べる弁当が美味しい。別にご馳走が入っている訳ではないが「自分で働いて頂くお弁当は格別の味がします」と、ささやかなことに喜びを見出していた。

    そんな柏樹さんの美しく老いるコツの幾つかを
◇ 言葉は音楽:「刀傷は治っても言葉で傷つけられた心は癒えない」といわれるが、
  柏樹さんは「言葉は音楽みたいに人を楽しませたり、慰めたり、喜ばせるためのも
  のでありたい」と。
◇ 胃袋はごみ溜めではない:普段から体調を整えておくために食べ過ぎに注意を。
◇ 親子でも慎みを:娘の家族と仲良く暮らしていくには若い人に口出しをしない。親が
  慎みを。求められれば教えたり応援してサラリと生きる。
◇ 安物を上手く着るのがお洒落:ブランドや高級さを競うのでは、お洒落をする楽しみ
  がない。古い物でも工夫して新しい使い方を。
◇ 心をときめかす:ささやかなことでも心をときめかすことを心がける。そうすればイヤ
  ことがちっぽけに思えてくる。
◇ 夕映えのように:太陽は西の空を美しく染めて沈んで行く。自分の晩年も夕陽のよ
  うに周りに明るさを振りまいて去りたいと、毎夕、夕陽に向かって手を合わせて願う。

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by love-letter-to | 2007-12-01 21:09 | レクイェム | Comments(10)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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