カテゴリ:人間万歳!( 34 )

           ◇ 精悍な72歳のアマゾン展 ◇
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4年後なんて遠い先のように思っていたが、地球は太陽の周りの軌道を休みなく回り、安井宇宙さんの二度目の個展もあっという間にやってきた。平成3年(1992)7月、再び立川駅ビル9階の朝日ギャラリーに姿を現せた宇宙さんは相変わらず精悍で、とても72歳には見えなかった。f0137096_949434.jpg

さすが“アマゾンのモンテクリスト伯たらん”と大河アマゾンを相手に60余年も暮らしてきた男だ!二度目の個展も一回目を上回る大ホームランだったが、宇宙さんは自分史を綴ることに大変こだわっていた。「アマゾン開拓などと言うと苦闘だとか苦難の歳月というワンパターンに受け止められるか、サクセスストーリーや自慢話で終わってしまいがちで、恥の上塗りをするような自分史を書く気になれなかった」という。

           ◇ ある日約100枚の原稿がド~ンと ◇
第2回『安井宇宙展』を終えて宇宙さんは元気にブラジルへの帰国の途についた。しかし、原稿は待てど暮らせど…。1~2年は瞬く間に過ぎ、私自身忘れかけていた1994年のゴールデンウィーク前後に宇宙さんから分厚い封書ド~ンと私の自宅に届いた。400字詰めの原稿用紙にびっしり几帳面な字で綴った手記は100枚近くあり、ガ~ン!「宇宙さんは本気で書き始めたんだ!」正直なところ焦った。
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日本高等拓殖学校(以下、高拓と略す)…そんな学校があるとはまったく知らなかった。昭和8年(1933)3月、千葉県立長生中学を卒業したが、行くところがなかった。生来、勉強というものに興味がなく、遊びほうけているうちに父親も口うるさく言わなくなり、中学を押し出されてしまった」という書き出しで、夏目漱石の『坊ちゃん』そこのけの痛快さとアマゾンの気候風土が漂ってくる宇宙さんの文章に、私は惚れ込んでしまった。
           ◇ アマゾンへ行ってやろう ◇
「高拓は南米アマゾンの開拓者リーダーを養成する学校で昭和6年に設立され、現地に養成所がある」と友人からの手紙で知り、二次募集に間に合うとのことで「よーし、アマゾンに行ってやろう!」と弾みで受験し、4期生に潜り込んだのが宇宙さんのアマゾン渡航のそもそもだった。父親は謹厳実直を絵に描いたような海軍軍人だった。7人兄弟妹の長子として生まれ育った宇宙さんは長男としての自負もあったが、敷かれたレールの上に乗っかるタイプではなかった。
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当時、日本は昭和恐慌のあおりで農村が疲弊し、その解決策として満州開拓を奨励し軍国主義の道をひた走り、100万人の移住計画で満州へ満州へ…と草木もなびく風潮に同調する気にはなれなかった。アマゾンには未知の魅力があった。

小田急線生田駅近くにあった高拓キャンパスで1年間ポルトガル語や学科と農業実習を積んだ後、昭和9年4月、いよいよアマゾン行きの移民船に乗り込んだ宇宙さん。当時、南米への移民船は香港、シンガポールを経てアフリカ最南端の喜望峰を回るルートでアマゾン河口まで2ヵ月あまりかかった。地球の果てに来たようだったという。
2年目はアマゾン中流域のパリンチンスに設けられていたビラアマゾニア実習地で、現地の地質気候にあった作物の試験栽培をすることになっていた。最も有望視されていたのはコーヒー豆の袋に使われるジュートだったが、1~3回生まで失敗に終わっていた。
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            ◇ アマゾン流域にジュートの緑の炎 ◇
ところが、3回生たちと入植した家族移民が栽培したジュートの種子を採取するのに成功した直後に、宇宙さんら4回生が入植。栽培者の名前を取って“尾山種”と名づけられたジュートは成育も早く優良な繊維が取れた。f0137096_19373451.jpg
その成功がアマゾン流域にジュートの緑の炎を萌え上がらせたと言っても過言ではない。宇宙さんもジュート栽培から足が抜けなくなり、アマゾンに永住することになってしまったが、時流に翻弄されアマゾンの自然の驚異にさらされ…どん底に突き落とされ這い上がる繰り返しだった。それでも宇宙さんは「日本に住むのもアマゾンに暮らすのも大した違いはない」と話していた。

           ◇ 宇宙さんの手記出版に向けて ◇
最初に100枚近くの原稿が届いて以来、2~3ヵ月に一度30枚、50枚…と宇宙さんから原稿が届くたびに私はアマゾンのめり込み、「声をかけた以上、何としても出版しなければ」と落ち着かなくなった。

宇宙さんの手記には最近の日本では使われないような難しい漢字や語句、耳慣れないポルトガル語や地名、人名が頻繁に登場するだけでなく、時の流れが前後することも多くて私自身が消化するのに時間もかかった。f0137096_1014783.jpg

原稿が599枚に達した時、私は宇宙さんの原稿の整理をする一方で、日本人のアマゾン移住史を書き加えながら、編集作業に取り掛かった。宇宙さんに出会ってから11年、その間に太平洋を越えて交わした手紙はそれぞれ100通を下らないと思う。

宇宙さんとじきじき顔を合わせた時間はわずかだが、手紙と原稿を通して親子のような親密な関係を築いてこられたのではないだろうか。忘れようにも忘れ得ない宇宙さんだ。

           ◇ 空振り三振の後に出版へ ◇
一年がかりで原稿は300枚程度に凝縮して本にできるところまでこぎつけ、出版してくれそうな出版社を打診しては空振りノーチップ。いよいよ三振凡退かと…自費出版を覚悟した頃に巡り会ったのが良質のノンフィクションで知られた『草思社』だった。

最終的に原稿と写真・マップなどを木谷東男編集長に手渡したのは、忘れもしない1997年12月24日クリスマスイブだった。原宿駅から吐き出されてくる若いカップルとすれ違いながら帰途に着いた。場違いな思いで見上げた表参道のクリスマスイルミネーションも目に焼きついている。f0137096_1024165.jpg

宇宙さんの『アマゾン開拓は夢のごとし』はそれから半年あまり後の1998年8月に出版され、朝日新聞の書評欄を初め日刊主要紙に取り上げられ、ブラジルでもサンパウロ新聞などにも大きく紹介されたそうだ。

宇宙さんはその後、心筋梗塞の後遺症で車椅子の生活を余儀なくされているが、信子夫人からの今春の賀状によると食欲も旺盛で、身の回りのことは自分ででき、卒寿の日々を平穏に送っておられるとのこと。

ブラジルでは大幅な通貨の切り下げで、一夜にして物価が50~100%も値上がりしたこともあり、日本では想像もできないアマゾンに大きな足跡を残した日本人移住者一世の生き証人として、一日でも長く…と祈っている。
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by love-letter-to | 2008-04-28 10:29 | 人間万歳! | Comments(4)
            ◇ 遙かなるアマゾン ◇
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4月も末を迎えると南米アマゾン流域では毎日水位が5センチ、6センチと下り、それまで水に没していた低地や島が次第に姿を現してくる。12月から5月は雨季、6月から11月は乾季で、雨季と乾季ではアマゾン川の水位は10メートルも上下する。

アンデス山脈標高5000メートル級の高地、ボリビア、ペルー、コロンビアなどの周辺諸国から流れ込んで来る1000を超える河川がブラジル国内に入って合流し、大西洋岸に注いでいるのがアマゾン川である。f0137096_0363352.jpg

全長約6400キロ、最大川幅は340キロに及んでおり、日本列島が丸ごと5~6個分も入ってしまう規模だ。クィーン・エリザベスⅡ号クラスの豪華客船が就航しているそうだから川というより海に近いだろう。6400キロの流域には堤防もなければ橋も一つとしてない。

◇ 16歳でアマゾン開拓に ◇
…と書くと、「エーッ!アマゾンにも行ったの?」と思われるかもしれないが、残念ながら何度かのチャンスを逸してしまった。しかし、アマゾン河口の都市ベレンに住む安井宇宙さんとは10年あまり文通を通して、宇宙さんのアマゾン開拓史『アマゾン開拓は夢のごとし=草思社刊』をまとめるお手伝いをした。

安井宇宙さんの宇宙は本名である。昭和9年(1934)16歳の時にアマゾン開拓に赴いて以来、アマゾン流域に70余年も暮らし続けている。“アマゾンのモンテクリスト伯たらん”と、かつてはジュートを手広く栽培し、広大なアマゾンを舞台に交易会社を経営していた安井宇宙さん。今年1月末で90歳を迎え、アマゾンにおける日本人開拓移民一世の恐らく最後の人であるまいか。

昭和初期に『日本高等拓殖学校』の学生を主として、広大無辺のアマゾン開拓に挑んだ日本人がいたことは歴史から忘れられている。宇宙さんは同校の4期生だった。

           ◇ 52年ぶりに帰国してひょっこり ◇
f0137096_039010.jpgその宇宙さんが、渡伯(ブラジルの当て字・伯剌西爾から伯国とも)以来52年ぶり二度目の帰国をした1987年の夏、知人の紹介で立川駅ビル9階の社をひょっこり訪れた。咄嗟に「アマゾンから来ました」と言われても…社内は???

たまたま居合わせた私が安井宇宙さんのアマゾン開拓移住史を聞くはめになった。全く出会いとは不思議なものですね。想像を絶する自然の驚異との過酷な闘いの半世紀を絵に描いており、それらの作品を出身地の多摩地区で開きたいというのが、宇宙さんの突然の訪問の要件であった。それも1年後に!

地球の反対側に住んでいる人と1年後の約束なんか…信じたくても信じられない気持ちであったが、宇宙さんは朝日ギャラリーの予約をして引き上げられた。その当時、宇宙さんは68歳。気が変わったら困る。身の上に何かあったらどうしよう。まだFAXもメールも普及前であったから、定期的に手紙で宇宙さんと連絡を取り合った。

           ◇ 安井宇宙展~アマゾン開拓半世紀 ◇
f0137096_0435819.jpgところが宇宙さんは約束通り、1年後の1988年7月に信子夫人と来日して『安井宇宙展~アマゾン開拓半世紀』が無事に開催された。アマゾンに半世紀以上暮らしても古武士の風貌通り、律儀な日本人気質を堅持していた。

16歳でアマゾンに向けて渡航する時に餞別として希望したのが油絵の具一式だったそうで、還暦を迎えた頃から絵筆を握るようになったとのこと。ベレンでは個展を毎年開催、パリの『サロン・ド・ドートンヌ展』にも出品している。

アマゾンに暮らす画家のアマゾンの絵”ということで宇宙さんの初個展は会期中に1000人近い人が訪れた。「やっと青少年時代の夢がかないました。昭和初期にアマゾン流域の開拓に挑み、胡椒やジュート栽培で産業らしい産業を成功させたのは日本人移住者です。その足跡を母国の人々に知って貰いたかった」と、宇宙さんは上気していた。

           ◇ 絵だけでなく文章でもアマゾン開拓を ◇
f0137096_0483797.jpg黄色いお汁粉のような泥水の荒波を漕ぎ進むボート、真っ赤に染まった空と流れに木の葉のように浮かんだ大型船、腰まで水につかりながら作業する半裸の男たち、暗雲の迫る大地を疾走する牛の大群、川とも陸地とも見境のつかない大自然…約40点の宇宙さんの作品はとにかく異色でスケールが大きかった。

連日、会場で作品に描かれている風景や働く人たちの解説をしている宇宙さんの話が面白くて、私は「アマゾンでの体験を文章でも綴ってみませんか」と声をかけた。その場でははっきりした返事はなかったが、「いずれ挑戦してみます」と言い残してアマゾン河口の町ベレンに帰って行った。4年後に2度目の個展を開催したいと会場も予約して…。

           ◇ ひたすら原稿待ち ◇
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宇宙さんがベレンに帰ってからも月に1~2回手紙を交わしていたが、アマゾン開拓史については触れられていなかった。日常はポルトガル語を使っているそうだから日本語で文章を綴るのは気が重いのかな…。淡い期待の半面で、文を綴ることの難しさを私自身毎日味わっているだけに、プレッシャーをかけないようにしていた。でも私自身が宇宙さんのアマゾン開拓に出かけた経緯や状況を知りたくて、心のどこかで手記が届くのを待っていた。

           ◇ 日本人ブラジル移住100年 ◇
明治41年(1908)に移民船笠戸丸に乗った初めての日系移民がブラジルに到着してから、2008年の今年で100周年を迎える。『日本人ブラジル移住100周年記念』として様々な式典イベントがサンパウロを中心とした各地で計画されているが、アマゾン開拓については殆ど知られてない。

同じブラジル国内とは言え、サンパウロを中心とした南伯(ブラジル南部地域)とアマゾン流域では、気候風土をはじめとして別の国といっても過言ではない。サンパウロからアマゾン河口の都市ベレンまで飛行機で6時間かかる。成田からシンガポールまでのフライト距離に等しい。南伯の日系人にすらアマゾン流域の日系人の存在は知られてないそうだから…。宇宙さんのアマゾン開拓のあらましは次回に。
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by love-letter-to | 2008-04-21 00:51 | 人間万歳! | Comments(4)

第三の男と大岡越前守

          ◇ 心の琴線に触れるツィターの音色 ◇
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古代ギリシャで奏でられ、天使が聖フランシスコのために演奏されたという古楽器ツィター。映画『第三の男』ので一躍有名になった弦楽器で、『第三の男』がツィターの代名詞にもなっている。その世界有数のツィター奏者・河野保人さんの演奏会が今春も国分寺市いずみホールで開かれる。練熟した技術で“心の琴線に触れる音色と響き”を奏でるのが河野さんのツィターの魅力である。

          ◇ 世界有数のツィター奏者との出会い ◇
f0137096_15283793.jpg世界有数のツィター奏者が国分寺市に住んでおられると耳にして、恐る恐る河野保人さんをお訪ねしてからも30年以上になる。飛び切りチャーミングな笑顔と温厚な話しぶりに初対面の緊張はたちまちほぐれ、愛用のツィターを持ち出して気さくに演奏もして下さった。ツィターが愛しくてたまらないように両手の指を走らせて奏でた姿と音色は私の脳裏に焼きついて離れない。指の動きの美しさの虜にもなった。

河野さんはその当時、イタリアンレストラン・銀座ジローで毎週ウィークエンドの夕方にフロアで演奏をしていた。その演奏の素晴しさが口コミで広がり、私の耳にも届いて来たのだった。

膝の上に乗るくらいの卓上楽器だが、メロディを弾く金属弦と伴奏弦を合わせて30~70本もあり、一台でハープとギターの性能を併せ持つという。弦と弦の間隔はわずか5ミリ、しかも音階がドレミファ…でなく複雑で“ビミョー”。同じツィターでも楽器によっても音階が異なるだけに演奏は難しく、本場ドイツ・オーストラリアでも演奏家は数少ない。

          ◇ 幻となりつつあるツィターの音色を何時までも ◇
f0137096_15294352.jpgツィターで演奏される曲は古典派以前のバロックや中世の音楽が多く、いわゆるクラシックファンにも馴染みが薄いかもしれないが、「ベートーヴェンやモーツアルトばかりでなく、それ以前の時代に街角やサロン、教会などで親しまれてきた音楽にも素晴しい曲があり、心を和ませ魂を癒してきた音楽があることを知ってほしい。本場でも幻となりつつある楽器としてのツィターを大事にしたい」というのが河野さんの願いでありポリシーでもある。

ツィターは金属弦から発する青空のように澄んだ音色に、ガット(羊腸)弦の柔らかい陽射しのような音色が降り注いで、全身マッサージを受けているような心地に誘ってくれると思う。巧みな指先からメロディと伴奏までやってのけるのもツィターならではだろう。

元々はヴァイオリン奏者として活動していた河野さんだが、ドイツのカッセルという町のオーケストラ奏者としての試験に合格。渡独して演奏生活の傍ら耳にしたツィターに“ひと目惚れ”。恋してしまったそうだ。演奏が難しいだけに面白くのめり込んでしまった。

耳で学び、演奏方法を手探りで求め深みにはまってしまったそうだ。「日本人でツィターを弾く奏者がいる」と、本場ドイツでも評判になりサロンコンサートで引っ張りだこだった。

            ◇ 後援会長の寛仁親王殿下に直接 ◇
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しかし、河野さんは日本でもツィターを広めたいと帰国を決意。直後はツィターを演奏する場が少なかったが、次第に口コミで河野さんの存在が広まり、現在は後援会の支部が全国に30ヵ所以上もできてファンから心待ちにされている。ファミリーに語りかけるようなトークを交えながらの演奏は、アットホームで他の演奏会では味わえないものがある。

その後援会長は三笠宮寛仁親王殿下で、毎年秋に行われる『河野保人ツィターコンサート・魅惑の名曲集』には後援会長として臨席。スピーチでは自らの癌闘病体験もあっけらかんと語りながら、河野さんの演奏活動に熱い声援を送る。
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寛仁親王殿下のような皇族が一演奏家の後援会長を引き受けられた経緯を、昨年の秋のコンサートの打ち上げ会で直接、伺ってみた。「僕はイギリス留学時代、スキーツアー先のスイスやオーストリアなどのホーリゲ(居酒屋)で、ツィターの生演奏に親しんで、雰囲気のいい音楽だな。くつろげる音色だなとファンになって帰国したんですよ」。
          
その後、寛仁親王殿下は身体障害者協会の会長に就任して、年大会を盛り上げようとボランティアの演奏家を呼びかけたら、河野保人さんが参加して、素晴しい演奏を聞かせてくれた。純粋な音楽家としての河野さんの姿勢にも打たれて後援会長を進んで引き受けられたとのこと。河野さん自身はそうした内輪話は口にしないので、思い切って殿下にアタックしてよかった。

           ◇ TVドラマ大岡越前守のテーマソング ◇
ツィターと言えば、かつてTVの人気連続ドラマ『大岡越前守』のクライマックスで流れてくるのは、河野さん演奏のツィターの音色である。大岡裁きとツィターはミスマッチのようでいて、演奏を聴くと意外や意外!加藤剛の顔が懐かしく浮かんでくる人も多いのでは…。

           ◇ 河野保人ツィターコンサートが4月18日に ◇
f0137096_1537797.jpg今年で18回目を迎える国分寺市での『河野保人ツィターコンサート』は、地元ファンたちの声に応えて市内の小学校の音楽室や体育館で始まり、『国分寺ツィターを愛する会』の主催で定期化して今日に。今春は4月18日(金)19:00から西国分寺駅南口のいずみホールで開かれる。長男の直人さんもツィター奏者としてデビューして15年以上になり、父と息子によるツィター・デュオは世界でも例のないコンサートだ。父子と言えども個性の違う二人による演奏は共演というより競演で、演奏の厚みと迫力も聴き応えがある。入場料は3,000円(自由席)。申し込みと問い合わせは042-322-0216河野保人後援会事務局か、042-322-2133…愛する会・三沢さんへ。
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by love-letter-to | 2008-04-06 15:44 | 人間万歳! | Comments(9)
          ◇ ユーカリの苗木の植樹地へ ◇
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いよいよ、私にとっては今回の旅の最大の目的だった『ブルーガムファミリー・ユーカリの植樹地』へ。本田三緒子獣医師ドライバーはカウラ市内の地理も知り尽くしているようで、日本庭園から約20分でラクラン川沿いの道へ。

レンタカーの車窓から目にする風景は、原野のあちこちにでっかい岩がゴロゴロ。ユーカリの大木は幹から樹皮がペロ~ンとはがれ、枝葉も垂れ下がり日本人捕虜の亡霊のようでもある。

ラクラン川が見えてきた。川幅は10メートルくらい。ラクラン川は市内中心部でほぼ直角にカーブしている。そのカーブの扇状地にユーカリの植樹地はあった。f0137096_10531630.jpg

「たしか、この辺りよ!」と本田ドラーバーが車を止めた。万事アバウトなオーストラリアゆえ境界柵などはなく、川べりの草地にネームプレートが覗いていたので、ユーカリの植樹地だと分る程度だ。

◇ コアラの楽園づくりが始まって3年余 ◇
オーストラリアではユーカリの木が年間に3万本以上伐採され、その6割以上が日本に輸出されて紙の原料となり大量消費されていた。心を痛めた有志たちによって、1990年の7月に『ブルーガムファミリー』が誕生。ユーカリの苗木寄贈者を呼びかけ、カウラ市内で手広く果樹園を営むオーナーやカウラ市民の協力も得て、“コアラの楽園づくり”をめざして3年あまり。
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1991年夏に植えた第1次植樹地では、高さ3メートル近くにも成長しているユーカリもあったが…。第2次植樹地では雑草と競走でかろうじて私の背丈ほどに伸びた苗木もあるが、見上げた枝の股に黒い塊が目についた。

            ◇ 苗木に無数の大敵!◇
何だろうと近づくと、その塊は動いている。「キャーッ!」思わず悲鳴を上げてしまった。無数の毛虫が絡み合ってゴニョゴニョしているではないか!鳥肌が立ち全身から血の気が引いていくのが分る。f0137096_10562634.jpg

毛虫の塊は大小があり、大きいのは大人のこぶし大はある。それらが一斉にユーカリの葉に食らいついてむさぼっている。すでに裸になっている苗木も多い。

ネームプレートしか残ってないエリアもあって、善意で寄贈した人たちのことを思うと、悲しいというより恐れていたことが現実になった!

本田獣医師五島龍子女史が植樹地の全域をほぼ見て回ったところ、850本の3分の1は生長の見込みがないという。1992年の夏に植えられたはずの私のネームプレートを探したが、残念ながら発見できなかった。旅の疲れがどっと押し寄せ、車の後部シートに倒れこんでしまった。

          ◇ コアラのサンクチュアリ建設は無惨にも ◇
ブルーガムファミリー』の当初の青写真では、70,000平方メートルの敷地の約半分は自然保護・コアラ観察エリアに。残り半分には花畑や果樹園、ゲストハウスやテニスコート、プールも備えた体験型リゾート施設が出来上がる予定だった。敷地所有者の果樹園オーナーもコアラのサンクチュアリづくりに乗り気で日豪共同経営を目指していたのだが…。
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現実は甘くなかった。数多くの苗木寄贈者を裏切ることになりそうだ。「果樹園の管理をしているモルガン夫妻が近くに住んでいるから、より確かな情報が得られるかもしれないので、行ってみましょう」と、本田獣医師は車をモルガン家へ走らせた。

          ◇ 管理人のモルガン夫妻の話では ◇
突然の訪問にも関わらず、グラハム氏とヘレン夫人は3人を歓迎してくれた。50~60代の温厚なシニア夫妻だ。本田さんと五島さんは当地での第1回の植樹祭に参加して以来、モルガン夫妻とは情報交換をしてきたという。「異常気象で大量に蛾が発生して、ユーカリの森が全国的にやられていると、今朝の新聞でも伝えられていたよ。ここカウラの苗木畑もかなり被害にあっている」とモルガン夫妻は顔を曇らせた。

スチール・ソーフライと言って、金属製ノコギリのように鋭い歯をした蛾の幼虫が大量発生しており、駆除する薬剤も人手も足りないそうだ。幼虫は日本では見たこともない大きく荒々しい毛虫で、繁殖力がもの凄く高さ20メートルものユーカリの大木が一日で丸坊主になり、枯死してしまうこともあるそうだ。

それよりも景気が悪くて果樹園のオーナーが土地を手放す噂もあるという。日本でもバブルがはじけて、大手企業や金融機関すらも多額の不良債権を抱えて倒産し始めていた時期であった。

「でも苗木畑だけは『ブルーガムファミリー』に所有権があり、2000年にはカウラ市にユーカリの木とともに寄贈する契約になっているはず…」と本田さん。モルガン夫妻も「その契約書には市長もサインしているから、果樹園のオーナーも売ることはないだろう」と、力づけてくれた。
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          ◇ 苗木寄贈者へのせめてもの慰め ◇
いずれにしても20世紀最後の年には、約3,000平方メートルのユーカリ植樹地はカウラ市に寄贈され、850本のうちのユーカリが何本かは生き残ってコアラの食糧となるかもしれない。“コアラの楽園づくり”の夢は小さく萎んでしまったが、苗木寄贈者にはせめてもの慰めだ。少し気を取り直して3人はモルガン家を後にした。

その後、『ブルーガムファミリー』の組織は息切れして、苗木の植樹運動はストップしてしまったが、植樹地はカウラ市に受け継がれたと聞いている。

          ◇ メルボルンでの夢のように快適な3泊4日 ◇
この1993年10月の女三人のレンターカードライブは、カウラからシドニーまで戻って、メルボルンへフライト。国立メルボルン・ボタニカルガーデンでも五島女史と本田獣医師は藍染めのワークショップを2日間開催した。
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メルボルンでは本田獣医師と五島女史が“メルボルンのお母さん”と呼ぶボニーさんのタウンハウスに3泊させてもらった。英国調の高級タウンハウスでの3泊4日は実に心地よく、海岸を散策したり、フィッシャーマンズ・ワーフでロブスターを食べたり、元羊毛工場の広大な建物を再利用したファクトリー・マーケットで買い物をしたり、骨董市もぶらついてプライベートツアーの醍醐味を満喫した。今思い出してもエキサイティングで夢のような旅だった。
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by love-letter-to | 2008-03-31 11:05 | 人間万歳! | Comments(6)
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            ◇ 成田からシドニーへ 季節は秋から春へ ◇
今回は知られているようで知られてない日豪親善の地、オーストラリア南西部の町カウラへ女三人レンタカードライブした記憶を…。片道約320キロのアップダウンドライブだ。
          
1993年10月15日午後8時30分カンタス航空QF60便は成田を離陸。窓際の席で3人並んでいたが、ベルト着用サインが消えるなり本田三緒子さんと五島龍子さんは空席を見つけて移動。旅慣れている二人の機転で3シートを独り占めできた私はファーストクラス気分で、一路南下。前夜は徹夜で原稿を仕上げてきたので、離陸して1時間もしないうちにぐっすり。赤道付近の乱気流で機内がガタガタ揺れた時も夢うつつだった。

ケアンズ経由シドニー空港に着いたのは翌朝の9時頃だった。日本とは地球の反対側のシドニーはまさに春春春で、ブーゲンビリアやジャカランダ、ボトルブラシが歓迎してくれた。日本との時差がないのも嬉しかったが、この日からサマータイムに切り替わったそうで、それは想定外だった。

             ◇ フォードのセダンの後部シートで ◇
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本田さんの手配したレンタカーは何とフォードの4WD!獣医師で英語にも強い本田さんは30代後半、高等職業訓練専門校の和裁指導員で染色家でもある五島さんは40代前半。10歳以上若い二人は頼もしい。最年長の私は後部シートで「命を預けたワ」と“お客さま”気分であった。

シドニー中心街のホリデイ・インに1泊した翌朝、本田さんの運転でカウラへ向かった。二人はカウラ市の『サクラサクラ祭り』で一昨年から続けている藍染めワークショップを今回も予定しており、ドライバーとナビゲーターの呼吸はぴったり。
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ところが、内陸部との境のブルーマウンテンズ付近に差し掛かると、空は暗くなり雲の動きが激しくなった。かなり急勾配でカーブも多い。現地人の対向車はスピードを落とさないでカーブから飛び出して来るから怖い。「女だからって舐めないでよね!」と本田獣医の口調も荒っぽくなる。

高度1500メートル地点ではついに大降りになった。「オーストラリアは一日に四季がある」と聞いていたが、まさにその通りで、気温も冷え込んできた。10メートル先が見えない。ブルーマウンテンの由来はユーカリの葉の色素で山全体が青く染まるからだとか。コアラの生息地でもある。
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          ◇ 山火事でコアラの森が消えて ◇
ノロノロ運転でバサーストの町まで下ると、嘘のように空は晴れ上がってやれやれ。かつては金鉱で栄えたバサーストだが過疎になり、広場でローンボールを転がしているのは高齢者ばかりだった。
にも関わらず昼下がりの中心街のピザハットは満席で、仕方なくテイクアウトにして路上に車を止めてランチタイムを。たまたまピザハットは誕生パーティで貸切りだったそうだ。
          
バサーストからアップダウンしながら眺める牛や羊の放牧地はダイナミックだ。何しろオーストラリアは日本の国土の21倍もある。それでいて人口は約2,000万人。行けども行けども放牧地だが、山火事で焼け爛れたユーカリの森に唖然とした。大気の乾燥で枝葉に油成分を多く含んでいるユーカリは自然発火、山火事が頻繁に起きるそうだ。「また、コアラの森が一つ消えたね」と三人。
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          ◇ ほぼ予定通りカウラ市の日本庭園へ ◇
午後4時、ほぼ予定通りカウラ市の日本庭園に到着。噴水池あり、枯れ山水あり、桃、桜、雪柳、海棠、ツツジ…一斉に開花して想像していたよりずっと日本庭園らしい。日比谷公園の4~5倍の広さがあり、年間5~6万人が訪れるが、ここまで足を伸ばす日本人観光客は少ないそうだ。
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ジャパンウィーク・サクラサクラ祭りの最中で、この庭園の東屋で明日、五島女史と本田獣医師による『藍染めワークショップ』を開催することになっている。その打ち合わせを済ませて元捕虜収容所と苗木の寄贈運動で建設中のさくら通りへ。

          ◇ 元捕虜収容所は看板を残すのみ ◇
元捕虜収容所は立て看板のみで跡形もなくなっていたが、凸凹した広大な草原の所々に険しい岩場が目立った。カウラは原住民アポリジニの言葉で石や岩がゴロゴロした不毛の地を意味するそうだ。捕虜の脱走を避けるためにこの地が選ばれたようで、旧日本兵の集団大脱走『カウラ事件』がむなしく言葉にならない。捕虜として生き恥をさらすよりも死を選んだ行為は誰の責任なのだろうか…。
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さくら通りの桜はまだ幼い苗木で心もとなかったが、1メートル余りの若木にも八重の花を精一杯咲かせていた。当時300本前後植わっていたが、最終目標の1988本に達する日が早く訪れますように!桜並木というとパッと咲いてパッと散る染井吉野の並木を想像していたが、現地では色華やかで花期の長い八重が好まれるという。

          ◇ 藍染めワークショップに大きな歓声 ◇
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翌10月17日午前9時半から日本庭園の東屋付近で開かれた『藍染めワークショップ』は、今回で3回目とあって五島・本田さんも手馴れた手つきで、ポリタンクに藍染め液を用意。スカーフやハンカチ布を浸し、液から取り出すと周囲から歓声が上がった。

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ジャパニーズブルーの藍はオーストラリアでは羨望の的らしい。熱狂的な愛好家もいて二人は質問攻めにあっていた。日豪親善グループによる生け花や茶道、俳句・短歌、折り紙・切り紙、墨絵など日本の伝統文化の展示やイベントも開かれ、いずれもびっくりするほど盛況で、遠く離れたカウラでそのシーンを目にして熱くなってしまった。
次回はブルーガムファミリーのユーカリ植樹地へ
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by love-letter-to | 2008-03-24 10:31 | 人間万歳! | Comments(6)
         ◇ コアラの楽園づくりの呼びかけ ◇
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「ユーカリの苗木を育てて、コアラの楽園づくりを!」と、オーストラリアでのユーカリの植樹運動が始まったのは1990年の夏だった。『ブルーガムファミリー』という市民グループによって、ユーカリの苗木代と植樹・その育成費を含めて1本5,000円で寄贈者を募った。その東京事務所代表が小平市内に住んでいたこともあって、多摩周辺から広がった。  

ブルーガムblue gumとは約600種もあるユーカリ属の中で、コアラが好んで食べる樹種の通称で、16~20種ぐらいしかないそうだ。笹の葉のように細く緑青色の葉をしている。

       ◇ 年間3万本以上のユーカリが伐採され ◇f0137096_21453477.jpg
当時、オーストラリアではユーカリが年間に3万本以上伐採され、その6割以上が日本に輸出されて紙の原料となり大量消費されていた。その総量は1年間に24万6000トンにもなり、コアラの住処を奪っていた。

「このままではコアラが絶滅してしまう!」オーストラリアを旅して、そうした深刻な自然破壊を耳や目にした人たちが、シドニーのコアラ・パークの指導を受けて、シドニー西方320キロのカウラ市に新たなコアラ保護区を作ろうと、『ブルーガムファミリー』を結成。

        ◇ ユーカリの苗木植樹運動 ◇
日本側のスタッフを呼びかけるとともに、ユーカリの苗木の寄贈者を呼びかけた。自然破壊や酸性雨の影響が問題化されていた時期でもあり、1年あまりでスタッフは30名近くになり、苗木寄贈者も約280名にも上った。カウラ市の土地所有者の協力で確保した約70,000平方メートルの土地に、寄贈されたユーカリ苗木280本と日本船舶協会からの150本も植樹された。
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植樹地はカウラ市内を蛇行するラクラン川沿いで、苗木にはネームプレートをつけ、その写真と感謝状がクリスマスには寄贈者に送られてきた。

ユーカリ属は元々成長の早く、それら植樹した苗木も1年で1.5~3メートルに成長しており、2年目の植樹祭ではカウラ市長コアラ・パーク園長らも出席して850本にも達したとグッドニュースが送られてきていた。
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         ◇ 苗木植樹地見学の誘い ◇
「一度、そのカウラ市のユーカリの植樹地を見に行きませんか」と、日本側スタッフの一人で獣医師の本田三緒子さんに誘われた。学生時代からオーストラリアにホームステイして、コアラ・パークのボランティア経験も豊富な女性だ。

「シドニーからレンタカーでブルーマウンテンの近くを横断するルートは、かなりスリリングですよ」。スピード・スリル・サスペンスには全く弱い私だが、「もちろん、行くわよ」と即答してしまった。私が寄贈した苗木に会いたかった。寄贈する前後に誕生した初孫が成人して、お祖母ちゃんの名前のプレートのついたユーカリを訪ねてほしいと、夢みたいなことも頭に描いていた。

しかし、日本から遠く離れたオーストラリアでユーカリの植樹活動が成功するのだろうか…不安も小さくはなかった。サハラ砂漠でもネパールや中国の奥地でも植樹に成功はしてもアフターケアが難しいと聞いていた。
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        ◇ 植樹地周辺には大戦の悲劇が ◇
人口1万人あまりのカウラ市には第2次大戦中の枢軸国捕虜収容所があり、そこで終戦1年前の1944年8月に収容されていた約1,000人の日本人捕虜が集団脱走して、231人が射殺されたという『カウラ事件』の悲劇の土地だ。“捕虜”の名を恥じて集団自殺を強行したとも伝えられている。

旧日本軍の戦陣訓“生きて捕虜の辱めを受けず”が悲しいまでに、日本兵には染み付いていた。
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実名を隠したまま死んで行った捕虜も多かった。遺族に連絡をとることもできないままカウラ市の心ある人たちによって手厚く葬られてきた日本人戦没者たちの墓地。その事実が明るみになったのは戦後も大分経ってからのことだった。

       ◇ 日本人墓地をきっかけに日豪友好の架け橋を ◇
この日本人戦没者の墓地がきっかけとなり、日豪関係の修復の機運が高まり、両国親善のシンボルとしてカウラ市内に『日本庭園と文化センター』の建設が計画され、竣工したのは昭和61年(1986)であった。人口1万人足らずの小さな街に『日本庭園と文化センター』を建設するのは、市民にとって大きな負担であったが、それだけカウラ市民の日豪友好にかける熱意は大きかったと言えよう。
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1988年の初夏には、カウラ市周辺在住の親日家や在留邦人の間で、「カウラ市に美しい桜並木を造ろう」という運動も始まり、日本人戦没者墓地のあるカウラ市営霊園と『日本庭園と文化センター』とをつなぐ約3.5キロの沿道に、桜の苗木の植樹が始まった。

その年1988年はオーストラリア建国200年に当たり、1988本の桜を植えるのが最終目標で、日豪の市民から苗木寄贈のキャンペーンを展開していた。

         ◇ 自分の目で植樹地をと… ◇
などなど、日本との関わりの深いカウラ市に『ブルーガムファミリー』もユーカリの植樹とコアラの楽園建設を目指したという。ぜひ私の目でもユーカリの植樹地桜並木カウラ事件の悲劇の地を訪ねたいと、大変欲張った旅行プランを立てて1993年10月15日成田を発った。
ブルーガムファミリー』スタッフの本田三緒子さんと五島龍子さんと私の3人でシドニー空港へ。次回は、それら日豪親善の道を開いてきたカウラ市へのレンタカードライブの思い出を…。
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by love-letter-to | 2008-03-16 22:07 | 人間万歳! | Comments(2)

設楽(したら)菩薩

       ◇ 陶芸展で出会った菩薩さま ◇
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設楽菩薩と言っても、由緒ある寺の菩薩像ではない。茶人であり陶芸家であり表装家でもある設楽道生さんの作品に描かれている弁天や如来、観音菩薩を、私が勝手にそう呼んでいるだけであるが、メチャ可愛い菩薩さまたちだ。

童顔で漫画チックではあるが、ほのぼのとして楽しい。

15年ほど前になるか、渋谷で初めて陶芸の作品展を開く設楽さんが主夫をしていると聞いて、半ば野次馬根性で、その主夫ぶりを取材に行った。その前後に育児休業法が施行されたこともあって、パパの子育てに関心が高まっていた。
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       ◇ 自分探しと称して主夫業に ◇
当時、ある男性保育士から「男だって家事も育児もできないはずがない。育児はやりがいがあり、母親と違うのは母乳が直接与えられないだけですよ」と聞かされていた。設楽さんも家事育児に積極的に関わりたくて主夫になったのかと思ったら…、「とんでもない!主夫業は嫌いで、カーッとなって子どもたちを叱るときもありますよ」。

そのセリフを聞いて、ホッとした。家事育児は女の仕事だと決め付けられ、家事育児に縛り付けられてきた女性の気持ちも分ってくれると思った。だって、男性から「家事育児は創造的で楽しい仕事だ」なんて言われたら、駄目主婦としては立場がない。そんなにやりがいのある仕事なら、夫族に家事育児もどーぞやって下さいと言いたくなるではないか。

しかし、設楽さんは口とは反対に主夫業を楽しんでしるようにも見えた。

昭和59年の冬、設楽さんは結婚6年目にして子どもが生まれることになったが、勤め先が倒産して失業中であった。通常なら家庭崩壊につながりかけない状況であったが、設楽さん夫妻は妻が金融関係の務めを続け、夫の道生さんは充電期間として学生時代からはまっていた古美術道楽や茶道、陶芸、表装などに“自分探し”をしていた。
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        ◇ 主夫業とパパの子育て ◇
しかし、子どもが生まれるとなると、現実問題として勤めを持ってない夫が育児に関わらなければならなくなった。妻の産休明けから授乳やおむつの取替え、離乳食、そして掃除洗濯…ちょっとサボるとキッチンは汚れた食器の山、洗濯物もたまるし…。

私が高尾山麓の設楽家を訪ねた当時、上の長女は小学5年、下の男児は保育園に通っていた。「夕方、保育園に迎えに行く時、今夜の夕食は何にしようかと考えるだけで頭が痛くなる。専業主婦はラクではないですね。孤独な作業が多く、毎日同じようなことの繰り返しで…」。

設楽さんの口から“専業主婦のような悲鳴”を聞いてしまったが、「我が子の寝顔を見ると、こんなに子どもって可愛いものか!」としみじみ眺めた日も多かった。子どもに育てられている自分を感じるとも話していた。
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「お父さんの作る料理はいつも焼き魚かハンバーグ…」と二人の子どもたちからはワンパターンだと不評だった設楽さんだが、茶室に入ると顔が引き締まり、背筋もピンとして別人になった姿にも驚いた。「主夫業だけではとっくに燃え尽きていたでしょうね」と、爽やかな手つきで一服点ててくれた。裏山から山椿を一枝切り取って茶花に、茶巾の餡も前日から小豆をコトコト煮て作ったとのこと。そのもてなしの心が茶道の真髄だとか。

  ◇ 茶道から陶芸への道 ◇
その当時、設楽さんは茶道から茶碗作りを始めてかれこれ10年、やっと人様に見て貰える作品ができるようになったとのこと。武者小路流派の老師が浮世離れした茶人で、大学時代に入門したその日に「茶人になるなら大工のような手になれ」と言われた。つまり、茶を点てる器や花挿しなどを自ら作れということであった。

本来、手が器用で陶芸も教室や陶房に入らず自己流で土をひねり、試行錯誤を繰り返しながら作陶を。「工房なんかで修業していたら、陶芸家にはならなかったでしょうね。土と格闘しながら身体で覚えていったのが、僕の波長に合った」と設楽さん。
主夫もやりながら自分探しの道草をして、気がつけば陶芸家になっていたという。f0137096_10252041.jpg

   ◇ メルヘンチックな菩薩さまは… ◇
初めての作品展では無手勝流の皿や壷に浮き出ている“設楽菩薩”に人気が集まり、私も愛くるしい薬師像を目にして一枚の絵皿に飛びついてしまった。無釉薬の冷たい地肌にメルヘンチックな菩薩さまが素朴で温かい。不思議な魅力がある。子育ての経験も下地になっているのではないだろうか。

子ども頃から好きだった版画で彫った菩薩像を陶芸でも試みてみたそうだ。工法について詳しくは知らないが、掻き落とし技法で菩薩像が浮き出てくるように仕上げてある。

その後、設楽さんは年々格調の高い作品に挑戦し、陶芸家として茶人として活躍している。今年の年賀状には夫婦揃って床の間で撮影した姿を届けてくれた。主夫は卒業、一家の長としての風格も備わって48歳を迎えたそうだ。それにしても年月の経つのは早い。年々早く感じる。
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by love-letter-to | 2008-03-10 10:30 | 人間万歳! | Comments(13)

ノコギリは歌う

       ◇ ノコギリから哀愁をおびた音色が!◇

大工道具のノコギリで『浜辺の歌』や『アメージンググレイス』などの美しいメロディを演奏するなんて、考えられますか?

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刃渡り15~20センチくらいある西洋ノコギリを“ミュージカル・ソー”と称して、腰掛けた両膝で柄をはさみ、ノコギリの刃をしならせながらチェロの弓を当てると…信じられないような妙なる音色が!

ヨーロッパの絵物語や映画で樵(きこり)が手にしている幅広のごついノコギリ。木工細工でピノキオの人形をこしらえたゼベット爺さんもあるいは使ったかもしれない。

       ◇ 独学で身につけたノコギリ演奏の草分け ◇
10年あまり前のことだった。西洋ノコギリで哀愁をおびた、心に染み入るように澄んだ音色の演奏を聴かせて下さったのは、元都立小平養護学校校長の加藤寛二さんだ。小平市学園西町の加藤先生の自宅で初めて、その演奏を耳にした時の驚きと感動も私の財産である。ビブラートを利かせた音色はフルートより甘く、ヴァイオリンよりせつなかった。
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国分寺駅前に本拠を置いていた富士福祉事業団が「愛の文明を築こう!」というスローガンを掲げて、1992年から毎年開催していた『福祉・ボランティア全国交流大会』のオープニングに加藤さんがノコギリ演奏をすると聞いて、信じられない面持ちで加藤家を訪ねたのだった。

ノコギリ演奏は1930年代のアメリカで始まり、その音色に心を打たれ、日本の草分けとされる故高島巌さんは1935年頃にミュージカル・ソーをアメリカから取り寄せ、独学で演奏を身につけた。

 ◇ 児童福祉とノコギリ音楽 ◇
児童福祉のパイオニアでもあった高島さんは、家庭に恵まれない子供たちの福祉施設の園長を務めていた。冷たい刃物のノコギリでさえ素敵な“歌を歌う”。虐待などでいじけたり、粗暴になっている施設の子供たちも本来の力を発揮して、きっと素晴しい“歌を歌う”日が来るに違いない。「そのように育てるのが大人の役割だ、愛の力だ」と、児童福祉とボランティアに78年の生涯を奉げた人である。ノコギリ演奏にも心を込めた。f0137096_238845.jpg

その高島さんの三女鞠子さんと結婚した加藤さんは、結婚式で岳父が演奏するノコギリ音楽を初めて耳にしてしびれた。そして高島さんから1丁のノコギリをプレゼントされた。当時、小学校の教員をしていた加藤さんも手探りでノコギリ演奏の練習を始めた。

その後、心身にハンデを持つ児童の養護教育に携わってきた加藤さんは、子供たちの前でヒュ~ンとノコギリ演奏を始めると、目が輝き、その集中力が手に取るように感じられた。ミュージカル・ソーの音色が心をときめかすらしい。つとめて演奏をするようになり、演奏にも磨きをかけたという。加藤さんのノコギリ演奏は数多くの児童生徒の目を輝かせたとも言えよう。
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      ◇ 10年ぶりに届いた招待状 ◇
その後、私は定年で職場を去り、加藤さんが小平養護学校校長を最後に定年を迎えた後も、生涯教育の場や各地の施設でボランティア演奏を続けておられることを風の便りで耳にすることはあっても、接する機会はなく月日過ぎて行った。ところが、2006年の7月半ばに加藤さんから突然、分厚い封書が我が家に届いた。

中には『高島巌没後30年と加藤寛二喜寿感謝記念コンサート』の招待状、その後の活動記録などが入っていた。8月2日に府中の森芸術劇場でコンサートが開催されるという。

10年近いブランクにも関わらず、かつて『ノコギリは歌う』と題して私の書いた記事の反響や加藤先生のノコギリ音楽に対するエッセーなども添えられていた。多摩地域の週刊新聞の一紙面が遠く宮崎県都城市の子ども療育センターの関係者たちの手に渡り、加藤先生のノコギリ演奏会も同市で開かれたそうだ。
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一地域紙の記事と言えども、地域に留まらないことに恐ろしく感じ入った。また、加藤先生がその記事のことを心に留めていて下さったことにも胸が熱くなった。

8月2日夕6時半から開かれたコンサートもメーンタイトルは『ノコギリは歌う』で、かつての記事の見出しが、すっかり“市民権”を得たようで嬉しかった。

この日、加藤先生の膝のノコギリは、次男・さんのピアノ伴奏で一段と艶をおびて『浜辺の歌』『この道』を“歌い”始めた。叙情歌の哀調に会場はたちまち虜に。実さんの力強いピアノのタッチと対照的なノコギリのビブラートで『アメージンググレイス』『枯れ葉』も素晴しかったけど、私は『津軽のふるさと』に一番感激した。

美空ひばりのレパートリーだった歌謡曲だが、あの熱唱をノコギリが歌うと、北国の厳しい風土が一層深く迫ってくるのだった。人の肉声のようでカウンターテナーで歌っているように聴こえた。f0137096_2321748.jpg

   ◇ 心に残る喜寿コンサート ◇
この日は養護学校や障害者施設、ボランティア団体の関係者も沢山参加して同窓会のようだった。車椅子での参加者も多かった。岳父と2代して児童福祉と障害児教育に尽くし、ノコギリ音楽で愛の心を育んできた加藤寛二さんに相応しい喜寿のコンサートだった。

さらに、20年近く寝たきり状態だった鞠子夫人が奇跡的に回復され、会場にも見えられたのも、ノコギリ音楽の力かもしれない。心に残るコンサートだった。
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by love-letter-to | 2008-03-02 23:24 | 人間万歳! | Comments(8)

全国津々浦々の鈴の音

       ◇ 3500種もの土鈴コレクション ◇
先日、友人を誘って御岳山神社参道入口まで出掛けた。赤鳥居のすぐ脇の坂上にある『自然野草園』の入口に、江戸時代に建てられたという古い土蔵が残っており、その中に北は北海道から南は沖縄まで全国津々浦々の土鈴ばかり約3500種もが展示されている。『御岳土鈴館 鈴蔵』だ。
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三方の壁面に取り付けられた棚に童姿や達磨、梵鐘、太鼓、三重の塔や五重の塔、屋根瓦、茶釜、鬼面、いわゆる鈴の形をした大小、馬や牛、鵜や鳩…などがぎっしり。「エッツ!土鈴がこんなに沢山あるの?」と、初めて訪れた人は目を鈴のように丸くするに違いない。
f0137096_11403375.jpg「ほら、みんな土で出来て鈴の形になっているんですよ」と、藤沼万治子さんが手に取って振るとコロコロ、チロチロ…と澄んだ可愛い音色がこぼれた。それぞれ色も姿も違い音色も違う。「鈴の音にはそれぞれの土地の人々の心や願いが託され、色や形からは伝統や文化も伝わってきます。鄙の声だと思うんです」。童心を取り戻し癒される鈴の音だ。


       ◇ 御岳 土鈴館『鈴蔵』に17年目の春 ◇
これら膨大な土鈴は藤沼さんの個人コレクションで、『鈴蔵』で展示を始めて丸16年迎えた。かつてご主人の転勤で奥多摩町に2年間住んだことがあったが、練馬区の自宅から片道2時間あまりかけて『鈴蔵』に通っている。冬期(12月6日~1月19日)と休館日の月曜を除いて、土鈴や来館者と過ごす一日を大事にしている。
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自宅には90歳を越す老父母もいて、御岳に引っ越せないそうで、そんなハードな長距離通勤は長続きしないのではないかと、危ぶんでいたが17年目のお雛様シーズンを迎えた。
この土地で代々林業を営んできたオーナーの好意で、江戸時代に建てられた土蔵を借りて開館して以来、毎年2月半ばから3月3日まで土鈴雛の展示即売会も開いている。全国から鈴の形をした土雛を取り寄せて並べた土鈴館の別棟の座敷には一足先に春が!

毎年とはいかないが、私もこのシーズンに土鈴雛に会いに出掛ける。先日もまだ残雪が北側斜面に残る御岳渓谷沿いの遊歩道を歩いて『鈴蔵』へ。みんな手に乗る大きさで、その鈴の音に童心を取り戻すと同時に、藤沼さんに会いたくて…。

       ◇ それぞれの土地の伝統や文化が土鈴に ◇
藤沼さんは中学の修学旅行で京都に行った記念に八坂神社などの土鈴を買って帰った。安くて手軽で色も形も様々なのが面白くて、その後も旅行の先々で求めているうちに、家族や友人たちも土鈴をお土産に買って来てくれるようになったそうだ。
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名の知られた土鈴や珍しいものなどの情報も自然に集まって来るようになり、それらを求めに旅を重ねるようになった。たとえば福島の『まさる』には弓に猿の姿をした土鈴がついており、“去年より勝る”“人より勝る”との願いが込められているという。

       ◇ 鄙の心を伝える語り部 ◇
岐阜の美江寺の『蚕鈴』は蚕が丈夫に育つようにと蚕小屋に飾られ、作物も鈴なりになるようにという意味も。福岡の英彦山(ひこさん)神社のは『英彦さんのガラガラ』と呼ばれ、細竹に古い形をした鈴が下がっている。飢饉のときに雨乞いをして奉納した故事に因んでいるとか。

…というように、藤沼さんが土鈴について、その謂れや思い入れを語り始めるとエンドレス。一晩二晩聞いても語り尽くせないに違いない。何しろ3500種もコレクションしているのだから。
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藤沼さんは奥多摩町で2年間住んでいた頃、古くからの土地の人の話が面白くて、子どもが通う氷川小PTA仲間と伝説や民話を聞き書きを始めて、『奥多摩の民話の会』のメンバーとしても活躍。聞き語りは得意中の得意だから土鈴にまつわる話は面白くて楽しい。土鈴の語り部だ。

        ◇ ちょっといい話 ◇
健忘症の進んだ私でも毎回一つ二つは、記憶に残る“ちょっといい話”を仕入れてくる。今回は、土鈴は“よく鳴る”がベターの意味の“よく成る”に通じることから、とても縁起がいいと買い求める人が多いそうだ。頭がよくなる。記憶力がよくなる。スタイルがよくなる。体調・病気がよくなる。収入・景気がよくなる。その他、よくなって欲しいことっていっぱいありますよね。
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で、私も子年の干支の土鈴と若返りしそうな可愛い鈴を買ってきました。“長寿雛”という土鈴雛もあって、数年前にはそれを大腸癌を克服した友人夫妻にプレゼントしました。

雛は鄙。鄙の人々の心が託され宿しているから素朴で温かいそうだが、地方によっては土鈴を作るベテランが高齢化したり、後継者が絶えて3500種の中には、もう手に入らないものも増えているそうだ。藤沼さんのコレクションは全国でも有数で貴重な存在でしょう。
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雛まつり展示即売は3月3日まで10:30分~16:30分で月曜定休。青梅市御岳2-275 電話:0428-78-9797鈴蔵
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by love-letter-to | 2008-02-22 11:51 | 人間万歳! | Comments(18)
       ◇ 利休鼠色の長暖簾 ◇
ぼろ隠しとしてマイルームに下げてある長暖簾は藍染研究家・若林都茂子さんの作品である。半間幅で丈は150センチあまり。床上がり30センチぐらいの暖簾だ。

絞りで菖蒲をあしらい藍色というよりは利休鼠に近い地色に染め上げてあり、渋い配色が気に入っている。
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30年以上にわたる若林さんの藍染め人生の最後の個展で、この長暖簾を買い求めて5年ほどになる。今年1月2日に86歳の誕生日を迎えた若林都茂子さんとも、そろそろ30年近いお付き合いだ。

       ◇ 藍染め講習会での出会い ◇
1980年頃だったか、小平団地の集会場で藍染め講習会が開かれると聞いて、訪ねたのが若林さんとの初対面だった。当時、本藍を使った藍染め講習会は珍しく参加者も多かったが、若林さんの意気込みもなかなかだった。
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「藍は建てるというくらい手間隙がかかるの。藍の生葉を細かく切って乾燥させ、適当な水分を補いながら攪拌・発酵させてスクモに仕上げるまでに3ヵ月以上もかかるのよ。本藍で染める教室なんか何処にもないから…」。

機関銃のようにポンポン飛び出す言葉は荒っぽいが、気性はスパッとしておおらかだ。受講者一人一人に目が行き届き、肝っ玉母さんだ!というのが第一印象で、今でも変わらない。


       ◇ 雨ニモ夏の暑さにも冬の寒さにもマケズ繊維博物館へ ◇
その後3年ほどして、「東京農工大工学部繊維博物館の特別研修生として、藍染サークルの指導もすることになり、藍甕の置き場所も確保できたの。それが一番嬉しい!」と、若林さんから弾んだ声で電話がかかってきた。

直径も深さも70~80センチ以上もある大きな藍甕の保管場所に頭を悩ませていたから、朗報には違いないが、還暦を迎えた若林さんが東小金井駅近くの繊維博物館まで毎日、小平団地から自転車で往復するのは大変だろうなあ…と、私は内心危ぶんでいた。

ところが、若林さんは宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ・・・」さながら、藍染めの研究指導と藍甕の“お守り”に日参した。
「毎日通っているんですか?」「そうよ、夫と母と私のお弁当を作って毎朝8時には家を出るの…」と涼しい顔をして、“藍に会いに”往復した若林さんのパワーには、圧倒されっぱなしだった。
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       ◇ 藍は愛の色 可愛い生き物 ◇
藍甕は一日に何度も攪拌し、温度管理も難しい全く手の焼ける生き物である。「藍は愛の色」というのが若林さんの口癖で、本当に藍に惚れ込んでいた肝っ玉母さんだ。

猛暑や厳冬にもゴム長履いて、大きなエプロン姿で爪も手も真っ青にして「洗ったって落ちやしないの。ブルーのマニュキアしてるつもりよ」と笑っていた。藍は可愛い生き物だそうだ。

たまたまデパートで藍染の実演を目にして、震えるほど感動したのがきっかけだそうで、その年月日も昭和54年10月19日とハッキリ記憶している若林さんである。

図書館に日参して染色の本をしらみつぶしに調べたが、当時、藍に関する文献は見当たらなくて、その2年前、繊維博物館から研修に行った八王子の藍染工房に通って手ほどきを受けた。藍染のような伝統工芸は教わったからできるという生易しいものではない。
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主婦業のかたわら失敗を繰り返しながら身体で覚えたが、藍を何度腐らせてしまったことか。その研究心が実って日本染色教育一級講師にも合格した若林さんは、地元をはじめ各地で個展を20回以上も開催してきた。藍染に手を染めたお陰で人間国宝級の染織家からも教えを受けることができたという。

       ◇ 傘寿を迎えて 藍とのお別れ会 ◇
そんな若林さんが傘寿を迎えた2003年の3月、「これで本当に藍染とはお別れすることにして、最後の展示会を開きます」と案内状が届いた。その10年前、農工大繊維博物館の講師を去る時にも「藍染めから身を引く」と、お別れ会まで開いていたので信じ難かったが、今回は同居している実母の早苗さんも百歳を超して、老々介護に向き合わねばならないとのこと。f0137096_23471215.jpg
小平市のシルバー人材センターでも10年あまり藍染め教室開いてきたが、それも教え子にバトンタッチしたそうだ。
母親の介護について愚痴らしきことを一度も耳にしたことがなかっただけに、返す言葉がなかった。「また新しい出発ね!」と、傘寿の餞に譲って頂いた長暖簾は肝っ玉母さんのパワーがみなぎっているようで、私を背後から見守ってくれている。

その後、実母の早苗さんは特養ホームに入所でき今年の二月、108歳の茶寿を迎えるそうで、「施設の皆さんに感謝の日々よ」と若林さん。その感謝を込めてボランティアで団地集会所で月に2回ほど染色教室を開き「八十路越え 染めの山路は 未だ遙か」の日々だそうです。
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by love-letter-to | 2008-01-19 23:54 | 人間万歳! | Comments(7)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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