忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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ヒップアイロン

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ヒップエレキバンならぬヒップアイロン…お尻の下に敷いて、その重力で野草などを
押し花にして旅先から持ち帰る。このグッドアイデアを教えてくれたのは室井光子さ
んだ。もう25年以上も前になるだろうか。

朝日カルチャーセンター立川の随筆講座の作品集で、『砂漠の花』と題した室井さん
の旅行記に惹き付けられた。当時、室井さんは還暦に近かった。
昨今なら60~70代、いや80代でも中近東やアフリカを旅する人は少なくないだろうが、
18世紀のイギリスの探検家マンゴ・パークに発見されるまで未知の川だったニジェール
川4,200キロを遡行しながら、サハラ砂漠の奥地を訪ねる旅に2度も行ってきたという。

気の利いた宿泊施設はないから寝袋を担いで、トイレも人の目をさけて用を足す
“自然浸透式”。女性にとっては最も苦手な難業の旅である。

お会いした室井さんは中肉中背というより小柄で、体育会系には見えなかった。
知的で品のいいシルバー世代。当時40代に差し掛かったばかりの私にはそう見えた。
元は小学校の教師をしていたが、職場の先輩と結婚、出産後は長く箱入り主婦だった
そうだ。

ところが教育に情熱を注いでいた7歳年上のご主人に肺癌で先立たれてしまった。
室井さんは40歳、まだ二人の娘は小学生と中学生であった。周囲のはからいで杉並
区の教育委員会に非常勤で勤めることになり、 仕事柄、海外視察研修にも参加して
視野が開けると同時に旅にはまってしまった。

いわゆる旅行社のパックツアーでなく、世界の秘境を旅してみたいと。そのきっかけが
元朝日新聞編集委員の森本哲郎さんが同行するパキスタン・アフガニスタンの旅
(1976年)であった。
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ヒップアイロンという私にとって耳新しい言葉は、このパキスタン・アフガニスタンの
旅の記録の次のような一節から仕入れた。
「旅行好きな私にとっての楽しみは、旅のアルバム作りと花ノート作りである。美しい
花、珍しい花に出会うと一つ二つ摘み取り、ただちに新聞紙に挟んで、ヒップアイロン(乗り物に乗っている間中お尻の下に敷いておく)をかけては、大切に持ち帰り、
花ノートを作る」。

写真では撮れない質感、その場の雰囲気を伴って、旅の懐かしさを呼び覚まして
くれると、室井さんも書いてあったが、私自身もギリシャの旅ではパルテノン神殿の
傍に咲いていたヒナゲシの透き通った真紅の花弁、スパルタへの山道に咲き枝垂れ
ていたエニシダなどをティッシュにくるんでガイドブックに挟み、ヒップアイロンを大い
に活用した。
薄い花びらなら旅先の空港を離陸するまでに完全にドライになってくれ、鮮やかな
色も保って私自身へのお土産になってくれた。

古代ギリシャのスパルタ教育で知られるスパルタの語源は、エニシダのギリシャ名
スパルヂュからきていることも押し花のお陰で知ることができた。黄色の蝶型のやさ
しい花がスパルタの語源だとは、意外や意外であった。

室井さんは文部省(当時)で実施した海外研修・視察などの参加者で組織した 国際婦人教育振興会の事務局長(1983~1992年)も務め、一時体調を崩しておられたが85歳の今日まで40回以上、50~60カ国以上を旅して、旅の記録集『寝袋の旅ふたたび』にまとめている。旅上手は人との付き合い方も上手で、知的好奇心を絶やさない素晴しい女性だ。

*ニジェール川は、全長約4200キロメートル、西アフリカのフータ・ジャロン高原に発し
、マリ、ニジェール、ナイジェリアを流れてギニア湾に注いでいる。
        《 室井さんの旅のアルバムから 》
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by love-letter-to | 2007-03-28 11:32 | 人間万歳! | Comments(1)

遊々亭迷々丸さん

今は亡き人々への追想が続いたので、今回は旬の人の思い出のひとコマを。

遊々亭迷々丸と言ってもご存知ないだろうが、落語ファンなら林屋たい平
といえば名前を聞いたことがあるに違いない。日本テレビで日曜の夕方放映している
長寿演芸番組『笑点』にも昨年2006年5月からレギュラー出演している咄家だ。
現在最も売れっ子の一人で、旬の落語家だろう。

たい平さんが武蔵野美術大学の俗に“落研”時代、遊々亭迷々丸と称して
いた頃に会ったことがある。玉川上水を題材にした新作落語を語っていると聞いて、
何度も電話をかけたが呼び出し音が繰り返されるばかり。
まだケイタイのない20年ほど前のことでした。

仕方なくアパートの郵便受けにメモを入れて、彼からの連絡を待つことにした。締め切り
まで1週間。ボツかな…と殆ど諦めかけていた5日目の夜、
「たじかですけど…」と、イキのいい電話が入った。

「えっー!?たじか?」 「ムサビのたじかですが、メモが…」。そこまで聞いて、
相手が遊々亭迷々丸さんだと分かった!本名は田鹿明さんで、ムサビ(武蔵美)
の視覚伝達デザイン学科の4年生。卒業制作の仕上げに埼玉の染色工房に泊り込ん
でいたという。

用件を伝えると、ムサビの落研の部室で『玉川上水』の落語を語ってくれることに
なった。「もの凄く汚い部屋ですよ」 「まあ想像はつくわ」

…ということで、日時を打ち合わせて落研の部室に向かった。驚いたことに、部室で
待っていた遊々亭迷々丸さんは黒紋付の羽織袴姿だった。
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その格好で学園西町のアパートから自転車を飛ばして来たという。「授業よりも落研で
落語やってる時間の方が長かったかな」と、頭を掻きながらも真剣な表情で、
「えー、町が発展してきますと、人間が増えてきます。増えてくると必要なのは出すこ
と。つまりはオシッコ、ウンチ、出さないと死んでしまったり…。さらに必要なのは元素で
ございます。酸素、水素、窒素、炭素、質素、簡素、味噌、醤油…やっぱり肝心なのは
H2O、難しく申しましたが水でございます(以下略)」。

笑顔を絶やさない達者な語り口で、台本のセリフに酸素や窒素に続いて質素や簡素の
ボキャブラリーが登場するあたりは、現在売れっ子の咄家たい平さんの
片鱗が窺えるが、当時、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科卒のデザイナーなら引く
手あまた。アーチストとしても有望かもしれないのに、落語家に弟子入りしたいと話して
いた。

「大学を卒業して、また一から落語家の修業をするのは勿体無いじゃないの?」と、
老婆心が口をついて出てしまった。「だけど、言葉で人の心をデザインできるような
仕事
をしたいんですよ」。

その言葉通り、林屋こん平さんに弟子入り。平成10年頃からNHK総合テレビ
『ふるさと愉快亭 小朝が参りました』にレギュラー出演するようになった時は、
本当に嬉しかった。平成12年(2000)に真打に昇進。最近は少し太めになって画才や
文才も発揮して活躍している。
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by love-letter-to | 2007-03-25 10:28 | 人間万歳! | Comments(2)

医者 記者 芸者

まだ地域新聞記者の卵だった時代、昭和47~48年当時の小平市役所は旧庁舎(現在の中央公民館の建物)で、その2階の東南の角にあった市長室・応接室を何度か訪ねたことがあった。

当時の大島宇一市長(2代目小平市長)は、人あしらいが上手でコチコチに緊張している記者の卵が名刺を差し出すなり、「あつこさんの敦の字の意味を知っていますか」と言って、敦の字の語源の講釈を始めたのには面食らった。

元々は『叩く』とか『打つ』を意味する文字で、転じて「人の心を打つ」「胸を打つ」という意味が込められているということだった。

しかし、敦の字は音で読むと『敦煌』のとん、あるいは『倫敦』のどんで、“とん”は豚のトンのイメージにつながり、“どん”は泥臭いとかのろまを称して関西弁では“どん臭い”というから、子供の頃から自分の名前が好きになれなかった。また、“あつかましい子”と勝手に解釈して、めげていた。

ところが、大島市長は「とてもいい字を使った名前です。どなたが付けられたのか、付けた方は漢学の素養がおありだったのでしょう。うちの娘も実は敦子です」と、苦笑された時の目尻の皺が印象的だった。

それから数年後、再び大島市長を訪ねた時、私の差し出した名刺を一瞥するなり、
「あなたの名刺は以前に頂いておりますから」と制されて、その記憶力の凄さに恐れ
入った。一介の記者の名前を数年経っても記憶しているとは!

政治手腕は老獪だと評されていた大島市長が高名な言語学者で、諸橋轍次
(もろはし てつじ)編集・大修館書店刊『大漢和辞典』『中國語大辞典』の編纂に
学生時代から関わり、漢和標準辞典の編者であったことは後々になって知ったこと
である。

大島市長にはもう一つ教わったことがある。小平市役所にも当時は記者クラブがあり、
年に1~2回、市長主催の懇談会と称した宴席が設けられた。

日刊紙の男性記者の中に紅一点と言えば聞こえはいいが、地域新聞のしかも週刊新
聞の記者の卵にまでお声がかかり、辞退する勇気もなく恐る恐る末席に座った。
ところが、大島市長がお燗を持って末席にも回ってきた。酒席の作法も知らず丸っきり
下戸の私が困惑していると、「医者、記者、芸者と言ってね、者がつく職業は
ぶってちゃ仕事にならんですよ。さあ少しでも口をおつけなさい」とニヤニヤ。

ともすれば医者も記者も専門職だと思い、思い上がりがちだが、芸者さん同様に
サービス精神が大事であると、大島市長にズバリ指摘され“目から鱗”だった。
事あるごとに『医者、記者、芸者』を呪文のように唱えているが、まだまだ修行は
足りてない。

昭和42年5月~昭和58年4月、4期務めた大島市長は市政から退いた。前後して
小平市役所は新庁舎に移転したように記憶している。
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by love-letter-to | 2007-03-24 00:35 | レクイェム | Comments(5)

マロニエの木陰の人

情熱的なピアノのイントロから始まる『マロニエの木陰』。マロニエの木陰』と言えば
松島詩子松島詩子といえば『マロニエの木陰』と言われるくらい、往年のファンは
魅了され、忘れがたい名曲である。

リズムの感のあるピアノ伴奏も詩子さん自身が弾いており、歌謡界で“弾き語り”で
歌ったのはこの『マロニエの木陰』がそもそもではないかと。
昭和11年頃レコード吹き込みしたが、それまで3年間もレコード会社のディレクターの
机の引き出しで眠っていた。
音域が広く難しい曲で歌える歌手が見つからなかったそうである。

戦時下の浅草公会堂で出征家族の慰安会でも歌うことになっていたが、
相次ぐ空襲警報でバンドマンたちが到着しなかったことがある。
「松島さん、元音楽教師だからピアノが弾けるだろ。弾いて歌ってよ」。
痺れを切らした関係者や客席の声に急かされてダダダーン!

両手の5本指でキーを叩きつけるようにして始まる『マロニエの木陰』の有名な
イントロに続いて、「空はくれて丘の涯(はて)に…」と歌う松島さんの心に染み入る
歌唱力に会場は酔った。以来、松島さんの十八番になり、コンサートで欠かせなくなった。

松島詩子さんに直接お会いしたのは、昭和53年(1978)勲四等瑞宝章を授章された
直後であった。まだ小平が村時代の昭和16年に建てた住まいの愛用のグランド
ピアノの前で。

「勲章なんか頂いたら、年がばれちゃったわよ」と、美人歌手でならしてきた
容姿に似合わずざっくばらんで、気配りの行き届いた女性だった。

女学校の音楽教師に飽きたらなくて、周囲の反対を押して歌手デビューを果たした
当時から、レコード会社の社命で5つ6つサバよんできたそうだ。
とにかく歌うことが命で、練習の鬼。歌手生活半世紀近いベテランにもかかわらず
毎日発声練習を欠かさず、ボイストレーニングにも通っていた。

松島詩子の芸名はかの有名な作曲家山田耕筰がつけてくれた。
レッスンをする時間がとれない代わりに「名前をつけて上げるよ」と。
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親子ほど年が離れ別世界に住むような松島さんだが、この日のインタビュー以来、
親しくお付き合いをさせてもらった。
昭和60年(1985)に開かれた『傘寿の祝い歌』コンサートの前後だったか、
「孫にね、バーバが元気で歌えるのは“マロニエのお陰”だねと、言われたの」と
嬉しそうに語った松島詩子さん。
平成8年(1996)11月91歳で他界される直前まで、『マロニエの木陰』のピアノの
タッチは乱れることがなかった。誰にも真似のできない味だった。

マロニエの木陰:坂口淳作詞 細川潤一作曲
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by love-letter-to | 2007-03-21 14:38 | レクイェム | Comments(7)

麦藁帽子の少女

 『おせっかいな手紙=武蔵野書房刊』の見本刷りが刷り上るなり、
 筆者中込重春さん(立川のたい焼き屋)の未亡人演子さんと
 井伏鱒二さんにご挨拶と報告に伺うことになった。
 1990年の秋口で太陽はまだ夏の盛りのようにギラギラしていた。

 荻窪駅から歩いて10分ほどの閑静な住宅街にある井伏家。通された応接間は
 10畳ほどの和洋折衷で、入口の壁に見覚えのある少女の絵が架かっていた。
 何処かで見た気がした。記憶を呼び戻そうとしている私の視線を感じたのか、
 井伏さんは「あ、あのセザンヌは僕のお気に入りなんですよ」。

 さすが井伏家だ。セザンヌの作品を所蔵しているなんて・・・と、驚愕と羨望の眼を
 向けると、中央のテーブルの前に達磨さんのように座っていた井伏さんは、
 「あれはね、上野でセザンヌ展が開かれた時のポスターなんですよ。初めて
 ここに来た人たちはセザンヌの『麦藁帽子の少女』の実物だと思って
 腰を抜かすらしいがね」と言って、してやったりとばかりにクククッと口をすぼめ
 て笑った。

 その井伏さんの口元は小鳥の嘴のように可愛らしく、20年近くなる今でも瞼に
 焼きついている。

 しかし、ポスターでも額に納めて井伏家に飾られていると、本物に見えてしまう
 から不思議である。来客は私のようなちっぽけな凡人ばかりではない。文学や
 美術、出版界などの錚々たる人が出入りしている。来客たちは井伏さんに
 試されていたに違いない。

 “人を食うのが作家商売”でもある。90歳を超えても現役でおられた井伏さんの
 底知れなさと『駅前旅館』や『珍品堂主人』など軽妙な作品の作家の両面を見た
 ように思う。
 若い頃は短躯で太めの決して美男タイプではなかった井伏さんだが、美しく歳を
 重ねられているのも、この日の驚きだった。透き通るように色白で渋い濃紺の
 和服の襟元に小紋柄の襦袢の襟を覗かせて座っておられる姿は、惚れ惚れする
 ほど粋だった。

 当時91歳。『小栗上野介』に関する資料を手にしながら、「僕はあと3年は生き
 ます」と、繰り返し口にされた。その度にエッ!という感じだったが、3年後の1993年
 6月24日、94歳で肺炎で亡くなられた。
 
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 『麦藁帽子の少女』は清春白樺美術館蔵 油彩・キャンバス 81×65㎝ 1902年
 頃の未完成作品。
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by love-letter-to | 2007-03-19 16:30 | レクイェム | Comments(0)

おせっかいな手紙の差出し人

 『おせっかいな手紙』と題した本には思い出がいっぱい詰まっている。
 国分寺市内の小出版社『武蔵野書房』から1990年6月に刊行された。
 1,500部ほど出版されたが、私の手元には1冊しか残っていない。
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 サブタイトルは『拝啓 井伏鱒二様』とあるように、ある人が作家の
 井伏鱒二氏に宛てた手紙を中心にまとめた本である。

 ある人とは…立川市錦町の路地の一角で昭和30年代から、たい焼き屋で老夫婦
 の生計を立てていた中込重春さんである。たい焼き屋といっても、ちっぽけな借家
 の土間の半畳ほどのスペースで、ガス台にこて型のたい焼き器を5丁並べて
 手焼きしていた。「独房より狭いや」と苦笑しながらも、独自の非能率的なスタイルを
 崩さない頑固なたい焼き屋だった。

 おまけに梅雨明けから秋分の日前後までは“釣り休み”。夫婦して釣りキチだった。
 その釣りを通して当時の文学界の御大である井伏鱒二さんと文通が始まった。

 そもそもは釣り雑誌に掲載された井伏さんの玉稿にいちゃもんつけたのが、文通の
 きっかけだそうだ。中込さんは元々文学青年で物書きになりたかったらしいが、
 人一倍恥ずかしがり屋が災いしてか、横道にそれたタイプであった。

 いちゃもんをつけた手紙に思いがけず井伏さんから返事が来た。以来、中込さんは
 井伏さんに“たい焼き屋の親爺”として自嘲気味に、たい焼き商売の日常などを、
 推敲に推敲を重ねて書き送るようになった。

 その手紙の書き出しは決まって「拝啓 井伏鱒二様」であった。
 井伏鱒二自選集にも 収録されている『中込君の雀』は、二人の往復書簡
 から誕生した短編だ。
 他にも『中込君の釣り』『岩殿山』などが井伏作品として発表されている。

 昭和50年頃に『泳げたい焼きくん』の歌が大ヒットした直後から、中込さんの
 たい焼き屋も、連日長い長い列ができるようになった。当時、1個30円で売っている
 店が多かったが、中込さんの店は1個10円を頑固に守り続けていた。
 あんこも皮も自家製にこだわり、1個1個焼き上げる。
 「10円のたい焼き屋」としてマスコミにも取り上げられ、長い列はさらに長くなった。
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朝9時過ぎに開店してから売り切れまで、飲まず食わず、小用も足せず…。 「鎖に繋がれた犬みたいだよ」と、お得意の駄洒落を飛ばしながら、たい焼きを 焼いていた中込さんだが、昭和60年頃から体調を崩して入退院を繰り返し、63年11月にこの世から旅立った。

 4畳半一間の住まいには、コツコツと書き溜めた原稿や大学ノートに几帳面に 綴った釣り日記などが本箱にぎっしり残されていた。それらの中から抜粋して 本にまとめたのが『おせっかいな手紙』である。

 本にまとめるお節介役をした私にとって、中込さんは永遠の恋人のようでもある。

 
 
 

 
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by love-letter-to | 2007-03-17 17:55 | レクイェム | Comments(1)

サギソウのサンタさん


立春を迎えても、「暦の上では春を…」とか「春は名のみの…」が例年で、
三寒四温を繰り返しながら春に近づくのを待ちわびるのだが、
今年は立春を待たずして梅や木瓜が咲き始めてしまった。

でも、私には3月は冬の延長線に感じてしまうことが多い。
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3月の半ばに入ると思い出すのは…サギソウの球根の植え替え作業に
勤しんでいた宮奈利喜さんのひび割れた指先だ。

前年の春に植え付けたサギソウの鉢をひっくり返して、半ば凍りついたミズゴケ
の苗床をほぐし、指先でまさぐるとムカゴ大に育った球根が潜んでいた。
直径20センチくらいの鉢だと十数個ぐらい、ミズゴケの寝床から現れる。

「もう、こんなに芽が伸びてきている!」と、宮奈さんはサギソウの球根を愛おしそうに
指先でつまみ上げて、膝元に用意したバケツにそっと移してやる。
その指先は連日の作業で深くひび割れ、血がにじんでいた。

軒先で見ているだけで震え上がった。日当たりのいい軒先でも、しゃがんで
2~3時間も鉢替え作業を続けていると、四肢が硬直してくるそうだ。

世田谷の縁日で開花したサギソウにひと目惚れしてしまい、1鉢1,000円
で買ったのが、宮奈さんとサギソウとの出会いだった。
「本当に白鷺が舞うような姿をして、繊細な美しさにしびれました」。

その1鉢の球根から殖やし続けて十年あまりで、5,000球前後にも達していた。
上手く育てると1個の球根が翌年には3~4個に殖えるそうだが、その植え替え
作業に1ヵ月以上もかかっていた。
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お孫さんの通っていた小平第三小の通学路の清掃や雪掻きも一人でコツコツ
続けていた宮奈さん。一度だけ5円玉を拾ったことがあるそうで「何かのご縁で
はないかと有難く頂いておきました」と、クシャクシャにした笑顔も忘れ得ない。

5,000球を超えた頃から、自宅前の玉川上水堤を往来する人たちや地域新聞
を通して希望者に無料で球根を配布。8月半ばの開花時期には自宅を開放して
サギソウの見学会も開き、毎年1週間で1,000人以上もの人が訪れたとか。

昭和記念公園のサギソウ園も宮奈さんが寄贈した球根から育ったもので、
知る人ぞ知る。
サギソウのサンタさんのような宮奈さんが逝って、近く4年になる。
        (円内は在りし日の宮奈利喜さん)
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モグラ通信
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by love-letter-to | 2007-03-16 22:14 | レクイェム | Comments(0)