忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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ミスターシルバー野球

単にミスターで通るのは、背番号3、ON砲で読売ジャイアンツのV9達成、プロ
野球の黄金時代をリードした長嶋茂雄さんだろう。メークドラマを初め数々の
名(迷?)セリフも伝説となっているが…。

私にとって“永久に不滅”なのはミスターはミスターでも、かつてミスターシルバー
野球
と言われた桜井義明さんである。初めてお会いした昭和60年(1985)当時
75歳だったが、東久留米市の熟年野球チーム『オールドスターズ』のピッチャー
兼監督として活躍。渋い二枚目俳優だった山村聡をしのぐダンディで、ユニフォー
ム姿も長嶋に引けをとらなかった。

川上の赤バット、大下の青バットに憧れ、寝ても覚めてもバッティングフォームが
頭から離れない少年時代を過ごして来た世代が中高年になって結成した草野球
チームだ。還暦を越したメンバーが多かったが「止っているボールを打つゴルフ
なんて、スポーツじゃないよ」と意気盛んで、桜井さんはその先頭に立っていた。

「とにかく野球が好きで好きでたまんない還暦世代がいて、老いてますます盛ん
なチームを見学してほしい」と、桜井さんから声がかかった。
「ストライクとボールぐらいしか野球用語も知らないですよ」「その方がチームに
とって好都合ですよ。教えたくってしょうがない連中ばかりだから」。

…ということで、近隣3チームの三つ巴戦をルポすることになってしまった。昭和
60年(1985)11月3日文化の日。定説通り天高く晴れ上がった清瀬市内のグラ
ウンドに駆けつけた。
午後1時練習開始というのに、正午前から桜井さん率いる『オールドスターズ
と東村山市の還暦球団『ライパーズ』、保谷市(当時)の還暦野球チーム『さざんか
は全員集合して、ピッチング練習やバッティング練習に燃えていた。

ユニフォームを着て野球帽をかぶっていると、お世辞でなく若々しいのに驚いた。
「そうだろう?ユニフォームを着ると青春に戻っちゃうんだ。ゲートボールやゴルフだけ
がシルバーのスポーツではないですよ」と桜井さん。

さすがにピッチャーズマウンドは正規より1メートル短くしてあったが、ベンチからスタ
スタとマウンドに向かう桜井さんの後ろ姿はかっこいい!
「いよ~ミスターシルバー野球!」対戦チームからも声援が飛んだ。
「しびれるだろう桜井さんには。あの人はノンプロで活躍して投げてよし、打ってよしの
オールラウンドプレーヤーなんですよ」「戦地でもチーム作って投げてたそうだよ。今
の1球はスライダーだね」。ベンチから記者席にナインが代わる代わるやって来て解
説をしてくれる。

しかし、ストライクが2球も続くと「バッテリーだけで楽しむな!」と野次が飛んだ。
よろよろのゴロでも打たせて、その球を追いかけるのが楽しい。ヨイショッ!とバットを
振り、ど真ん中に来た打球でもトンネルしてしまうが、「ドンマイ ドンマイ」。
たまにクリーンヒットを飛ばすと、すかさず「無理すんなよ」と沸く。とにかく守るも攻め
るも全員で楽しむのが熟年・還暦野球のモットーで、勝つと一層ビールが旨いという。

旨いビールが飲みたくて“野球少年”をやっているんだよ。80代、90代の選手もいる
から還暦なんて洟垂れ小僧ですよ。年をとれば取るほど野球が面白くなる」と、シル
バー野球の楽しみ方を見せてくれた桜井さん。
「好きな野球を楽しみ、野球で人生を楽しみたい」と輝かせていた桜井さんの日焼けし
た顔は、私のバックスクリーンに焼きついている。

当時、シルバー球団の泣き所はグラウンドを定期的に確保できないことだった。青少
年チームや社会人チームに優先され、熟年・還暦チームは遠慮がちにグラウンドを
使用していた。老いても楽しめる野球を追求し、熟年・還暦チームの存在を都や市町
村に働きかけて、老いても楽しめるスポーツであることをアピールしたいと話していた。
その桜井さんらの悲願が実って、翌年(1986)に東京都熟年軟式野球連盟が発足した。

その報告にわざわざ来社されたブレザー姿の桜井さんも「ミスターシルバー野球!」
と声をかけたくなるほどカッコよかった。
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by love-letter-to | 2007-04-27 11:19 | レクイェム | Comments(8)

ザ・武蔵野インディアン

筍のもだえ焼き”で忘れようにも忘れられないのは、その絶妙なネーミングの主の
砂川昌平さんである。初めてお会いしたのは立川市の教育長の後、監査役も退い
た1980年代半ばで、「公職とはおさらばしたからサバサバしてるんだ」と言いなが
らも差し出された名刺の裏には、納まりきれないほど肩書きが印刷されていた。

「筍はサ、やっぱり『檀流クッキング』の竹林焼きが一番だナ。朝掘りのケツから酒
を飲ませてアルミホイルにくるんで、焚き火で…」と舌なめずりをしながら、蒸し焼き
された筍がもだえるように昌平さんは身を揺すって、その旨さを自慢した。
「そんなに美味しい話ばっかりでなく、食べさせて下さいよ」ということで、毎年4月
末に行われていた『竹の子会』に顔を出すようになったのがそもそも。
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昭和59(1984)年8月、玉川上水に“清流が復活”した機会に、アサヒタウンズで
『玉川上水』の長期連載に取り組むことになった私は、砂川分水と砂川新田につい
開拓者直系子孫からじきじき話を聞こうと出かけた。

ところが、「古文書の類も水車一式もすべて立川市に寄贈しちまったから、市の歴
史民俗資料館に行った方がいいよ」。ぶっきらぼうな返事に、これが小耳にはさん
でいたショッペイさんか…と。教育長や監査役の立場上、言いにくいことも言っての
けてきたらしく、昌平をもじってショッペイと煙たがる人も。

出鼻をくじかれ、話の接ぎ穂を探して旧家の鴨居や柱を見回していたら、「子供の
頃はさ、春先の風の強い日には読んでる本の次のページをめくるまでに、砂埃が
たまって…こうやって砂を払ったもんだよ」と、傍らの本を手にひっくり返してパタ
パタ振る手つきをした。

「エッツ!砂川さんちのような豪邸でも、目に見えるくらい砂埃が部屋に入ってき
たんですか?」「そうさ、砂川では神棚に牛蒡の種を蒔きゃ、芽が出るってサ。こ
の辺りの土は元々関東ロームと言って富士山の火山灰でできてるから、軽くて
春先の季節風に飛ばされちまって、空が灰色に濁り、赤っ風とか黄塵と呼ばれ
てサ、武蔵野の名物だと言われてきたもんですよ」。

次第に昌平さんの舌は滑らかになり、「我々土地のもんは武州多摩郡(ぶしゅうた
まごおり)の百姓です。茅や芒の生い茂る原野を開墾してきた武蔵野インディアン
ですよ。昭和の時代になっても米軍の基地拡張に身体を張って闘争してきたんだよ」。
開拓者子孫で広大は土地を受け継いでいる身を自嘲しながらも、土地バブルに走
る当時の風潮をいささか苦々しく思っている口ぶりだった。
この日の別れ際に、“武蔵野インディアン”は「古文書なんかめくって玉川上水の
歴史をなぞったってつまらん。自分の足で歩き、目で見て、土地の人の話を聞いて
書くべきだよ」と、背中を押されてしまった。今になって思うと凄い慧眼で有難い忠
告であった。

ところで、昭和50年代に発表された三浦朱門の連作『武蔵野インディアン=河出
書房新社刊』の題名も、砂川昌平さんが仲間に語っていたのを小説のタイトルに
したそうだ。朱門さんと昌平さんは東京府立二中(現都立立川高校)のクラスメートで
あった。

ある日、「十勝の大豆を薪釜でコトコト煮てサ、沖縄の天然塩を使って味噌を作っ
てんだ。手前味噌のようだけど、へへへ…これがうめぇんだ」。またも舌なめずり
しながら、味噌作りの話を持ち込んできたことがあった。

立川市の『障害者の働く場を作る会』で、3~4年前から作業所建設資金作りに、
味噌作りに取り組んでいるという。たしか昭和60年の2月11日、昌平さんの誕
生日から仕込みに入った砂川家の味噌蔵に駆けつけた。

会長の昌平さん自ら枯れ木を燃やしたり、煮え立ってきた大豆をつまんで「こう
やって手間隙かけてんだから、まずいわけがねぇよ」と、手前味噌自慢は留まら
なかった。1年寝かせた味噌を3キロずつ100人に頒布する予定が、申し込みが
殺到して1キロずつになってしまった。それでもあぶれた希望者には翌年に回っ
てもらったそうだ。

秋になると、新ソバの旨い話をしにやって来た。「新ソバだと、ソバ粉100%でも
切れねぇんだと。その打ち立てを2斗釜で茹でると手打ち蕎麦専門店の主自身が、
店ではこの味が出せないと言ってんだ」と、昌平さんは鼻の下を伸ばした。その
三日月型の横顔は写楽の浮世絵のサムライに似ていると言われていた。

秋も深まった頃、立川市栄町の手打ち蕎麦『拮更』の店主・酒井登志英さんが道
具一式車に積んで砂川家にやって来た。庭先で新ソバを打ち、窯係りが薪をボン
ボン燃やして煮えたぎらせた2斗釜の中に放り込んだ。一回転したところを掬い
上げ、井戸水で揉み洗いしたソバをツルツルっと頂く趣向だ。20人余りの手が
一斉に伸び、「うまい!」と嘆息したきり、後はソバをすする音だけが屋敷林にこ
だました。

かつて朝日新聞社と全日本写真連盟主催で年2回公募されていた『多摩の素顔
写真展』の提案者で、審査員も務めてきた昌平さん初の写真展『シルクロードの
旅=1992年4月29日~5月5日』の時も、真っ先に口から飛び出してきたのは
「西域はメロンや西瓜、野菜がうめぇんだ」と目を細め、もっぱら食い物の話だった。
青少年時代からライカを手にし、還暦を迎えた時から写真専門学校に通い、小久
保善吉氏らの薫陶を受けて暗室まで設ける本格派だった。
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そのシルクロードの旅で、昌平さんは近くに止っていた現地の人のトラックの荷台
に飛び乗って撮影していたら、突然発車してしまった。「あれっ!お代官さま(昌平
さんのこと)がいない!」と仲間が大騒ぎしていたら、大草原のはるか向こうに昌平
さんがポツンと立っていた。「あやうく草原孤児になるところだったよ」とニヤリ。

トラックは途中で現地人仲間を拾うために停車したので、あやうく草原孤児になるの
を逃れることができたそうだ。“直言居士”、を昌平流にもじって草原孤児とは…!
ピンチに遭遇しても咄嗟に草原孤児なる名言を吐いた元祖武蔵野インディアン
含羞という表現がぴったりするシャイな文化人であった。
平成7年(1995)4月、69歳の若さで旅立ったあの世でも、筍のもだえ焼きや西
域の西瓜の話をしているに違いない。
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by love-letter-to | 2007-04-21 16:34 | レクイェム | Comments(2)

私バカよね

「私ってバカみたい!何てバカなんだろう!」と呆れたり、自分で自分がイヤになって
しまうことが、毎日起きる。今に始まったことではないが…。

今朝も冷蔵庫の扉を開けたものの、何を取り出そうとしたのか浮かんでこなかった。
パタンと閉めた途端に、「そうだ、とろけるチーズだった」とまた、扉を開ける始末。
これが“老人力”のなせる業か…と、落ち込みながらも決まって内耳の奥からエコー
してくるのが、「あなたバカよね」と、酔っ払い声で陽気に騒いでいたビンさんの歌声だ。

竹薮から筍の先っぽが地面を割って覗くシーズンになると、『竹の子会』と称して江戸
初期に砂川新田の開拓を手がけた砂川家の敷地内で、新筍を肴に飲む会が十数年
前まで開かれていた。

掘ったばかりの筍のお尻をくり抜いて地酒をたっぷり“飲ませ”、アルミホイルで密閉し
て焚き火の中に埋めてやる。アルミホイルにくるまれた筍はやがて、もだえるようにし
てホクホク焼きあがる。蒸し焼き状態で焼きあがった筍の味は…そこらの料亭では味
わえない野趣とそこはかとした甘みが胃袋を魅了して、参加者は“筍のもだえ焼き”の
虜にさせられてしまった。

筍のもだえ焼き”は文壇屈指の料理人だった檀一雄の『檀流クッキング』の竹林焼きが“本家”だが、その絶妙の名付け親は、当時の砂川家の当主・昌平さんだった。

青竹を切って当座用の徳利やお猪口をこしらえて飲む風流さも『竹の子会』ならでは
だった。宴たけなわになると、喉自慢がそれぞれの十八番を競ったが、一番受けたの
ビンさんの「あなたバカよね」だった。

細川たかしのデビュー曲『心のこり』の出だしは、「私バカよね、おバカさんよね・・・」
だが、ビンさんは気やすい飲み仲間に目線を向けて「あなたバカよね、おバカさんよ
ね・・・」と、酔っ払い声を張り上げる。
目線を飛ばされた相手は「何で俺がバカなんだよ!」と息まいたり、「どうせ俺はバカ
ですよ!しかし君の瞳はたったの1ボルト!」と応酬して、どつき漫才が始まり、座は
ますます盛り上がった。

竹の子会』のエンタテイナー・ナンバーワンで替え歌の名手ビンさんだったが、本業
は何と“お硬い”石の彫刻家だ。東京芸大出身で国立駅南口の時計塔や鎌倉の海
100周年記念碑『波動』をはじめ、日野の渡し碑、国立・谷保天満宮境内の『座牛』
『山口瞳文学碑』ほか数多くの作品を制作している彫刻家の関敏さんである。

「また二日酔いだよ」と、チャップリンのような足取りで現われたり、「この間は多摩川
の河川敷で新参のホームレスと間違えられて、縄張りの先輩格から菓子パンをもら
っちゃったよ」と、頭を掻き掻き駆けつけてくることもあった。

硬い石で波や風の揺らぎ、心の襞を表現したいと数トンもある石を相手に鑿をふるっ
ていた姿も見せてもらったことがある。アトリエというよりは工事現場のようであった。
四角い原石に鑿の痕が点になり、線になり、出っ張ったり窪んだりして次第に表情を
つけてくる。

石の声に耳を傾け、石を刻む単純な音の響きの中に自分の世界を刻みたいと、
ビンさんは自著『石に聴く 石を彫る:里文出版』の中に書いてある。
記念碑のような大型作品は、最後にサンドペーパーで磨きをかけて搬出する時には、
ジャッキやクレーンを使う。

そんなハードな仕事から想像できないビンさんのひょうきんさは『竹の子会』の
アイドルであった。その仲間はビンさんを中心にした東京芸大の彫刻家・画家
たちや全日本写真連盟のトップクラスの写真家たち、新聞社関係の人たちと幅広く、
気の張らない交流の場になっていた。

ビンさんの「あなたバカよね」を何度も耳にしたメンメンには、なかにし礼作詞で昭和
50年のレコード大賞最優秀新人賞にもなった元歌の題名が『あなたバカよね』であり、
歌詞も「あなたバカよね・・・」で始まると刷り込まれているのではないだろうか。そのくら
いピッタリはまる名調子だった。

こんな馬鹿げたことはしっかり記憶しているのに、置き忘れ、物わすれで時間を浪費し、
ドッキリ、ガッカリしながら暮らしている私って本当にバカですよね!
認知症の兆しかと恐れつつ、渡辺淳一の最近のベストセラー『鈍感力』を読んでみたい
と思っている。
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by love-letter-to | 2007-04-15 08:23 | 人間万歳! | Comments(3)

老春のハイデルベルク

       ◇ ヨロー社長の助け舟 ◇
「きみ~ぃ、どうすんだ!800通以上もの応募葉書をどうやって始末をつけるんだ!」
社内中に響き渡るような大きな声だったが、温かさと励ましのこもった声をかけて
くれたのは、元の職場アサヒタウンズ(朝日新聞の姉妹社)の高木四郎社長だった。

我が家で採れた一握りのフウセンカズラの種の配布を紙面で呼びかけたところ、翌日
から申し込み葉書が続々。1週間で860通を上回って困惑してまった。
その応募葉書の山を見て高木社長は反響の大きさに驚くと同時に、「もしかしたらフウ
センカズラの種の提供者が現れるかもしれないから、紙面で呼びかけてごらん」と助け
船を出してくれ、『編集室から』のコラムでも軽妙な筆致で応援してくれた。
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本名は高木四郎(しろう)だが“ヨローさん”の愛称で呼ばれることがもっぱら。名前の
字面からであろうが、「よろめきのヨローなんだ」と、高木社長の旧友から若かりし頃
の艶っぽい武勇伝を、面白おかしく聞かされたこともある。元朝日新聞東京本社の社
会部長というより、文化人という方がぴったりくる教養のある名文家であった。

       ◇ ポケットマネーでハーゲンダッツを ◇
昭和47年(1972)9月、十数年ブランクの後、私が潜りこんだ職場の社長が高木さん
でなかったら・・・。創刊・入社式の社長挨拶も「これまでにない自由で家族的な雰囲
気の職場にしたい」と、社長も編集長も、“さん”付けで呼び、朝10時出勤すると、まず
ドリップコーヒーを飲んでから、仕事にかかるのが日課であった。
社長がポケットマネーでハーゲンダッツをどっさり買って、冷凍庫は満杯になることも。
夕刻ともなるとアルコールの入ったグラスが回って来る職場であった。

ヨロー社長から直接、文章のイロハを教わることはなかったが、記者の卵が書いた記
事に「面白い話があるんだなあ」「人物が上手く書けてるよ」とエールを送ってくれた。
“豚でもおだてりゃ木に登る”で、おだてられて育てられ、木に登りっぱなしで今日まで
きたような気がしている。
社長はいうなれば船長さん。ヨロー船長の船に同船できた幸せをかみしめている。

       ◇ 65歳でドイツ留学 ◇
さて、そのヨロー社長は65歳で引退するなり、ドイツ語の勉強を始め68歳でドイツに留学をして、戦争で絶たれた大学時代の夢を実現させた。

その留学先がマイヤー・フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』の舞台となった
由緒あるハイデルベルク大学で、ネッカー川のほとりの美しい大学都市に単身移り住
むという。戯曲のように某国の若き皇太子ではないから、投宿先のメッチェンと恋に落
ちることもないだろうが、古希近くなっても学習意欲と情熱を燃やすヨロー元社長の顔
は輝いていた。f0137096_21524292.jpg
まずは車の国際免許を取り、ドイツ学を学ぶ一方でアウディの中古車を買ってアウト
バーンを走るんだと。

平成4年(1993)3月上梓された5年間の留学体験を綴った『老春のハイデルベルク』を、今読み返して見ると、当時のヨロー元社長の年齢に近づいたせいか、情熱さえあればこれからでも新しいことに挑戦できるんだ!と意を強くする。心は老いないと実感もできる。

       ◇ ドイツ語が上手くなる秘訣は練習あるのみ ◇
68歳の学生は最高齢かと思っていたら、ハイデルベルク大学には何と19世紀生まれ
の学生が在学していてギャッフン!60~70代の学生も珍しくなく特別扱いされなかった。
しかし、入学当初は日本で5年近く学んだドイツ語が役に立たなくてチンプンカンプン。
で、留学生相手の語学校にも通ったが、担当の教師は「ドイツ語が上手くなる秘訣は
練習あるのみ」と。

ドイツの大学は入るにやさしく出るに難しく、日本のようにレジャやーランド化した大学で
はなく、学生はよく勉強し、大学のステータスは健在であった。
学割の恩恵も多々あったそうだ。ドイツにある250校の大学は殆どが国立で授業料は
無料。入学試験に合格さえすれば、留学生もタダで年限なし、しかも転校も自由だった。

さすがヤジウマ留学生は、大学生活だけでなく“老春”を謳歌して、オートキャンプを
体験したり、暇があれば森や林を歩いた。世界各国からの留学生との出会いや文化
比較論は、面白く読ませられる。読むたびに「きみ~ぃ、どうすんだ!」と発した大声
を思い出す。
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昨平成18年は南極観測50周年の年であったが、ヨローさんはその第一回観測隊
同行した二人の記者の一人で、もう一人は田英夫・参議院議員(元共同通信記者)で
あった。
その時のヨローさんの談話も語り草になっている。「僕は外国語がからきし駄目で、
初の海外取材ですが、南極にはペンギンとアザラシしかいないから外国語がしゃべ
れなくても大丈夫でしょう」。抜群のユーモアのセンスの持ち主であった。

そのヨロー元社長は平成16年9月にドイツよりも南極よりも遠い地へ旅立ってしまった。「ちょっと行って来るよ」と言わんばかりの旅立ちであった。
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by love-letter-to | 2007-04-08 23:09 | レクイェム | Comments(4)

25点主義でエイジレス賞

「あなた、何点ぐらいだったら自分に及第点つける?」「さあ、60点なら及第点かしら」。
会う早々こんな質問をしてきたのは武田満佐子さんだ。

東京厚生年金会館の年金相談室長を最後に、約40年の公務員生活にピリオドを打つ
なり、岡山県立備前陶芸センターで3年。さらに竹久夢二の生家の近くの窯元で3年の
修業を終えて、桧原村数馬に窯を築くために転居したばかりの武田さんを訪ねたことが
ある。

江戸時代は法螺貝の巻き止りといわれた地で、元は奥多摩有料道路建設
事務所だったプレハブを借りて引越をした1週間後に、「荷物が片付いたから取材がて
ら泊まりにお出でよ」と、電話がかかった。

今から21年前の初夏のこと。
「狸やヤモリが毎晩遊びに来るから寂しくないよ。アッハハハ」。当時、武田さんは66歳、独り暮らしを貫いていた。「惚れた男も、言い寄る男もいたけどね」。

ここで引き下がったら、備前での修業時代から文通し、「窯を築いたら真っ先に取材に
行きます」などと、殊勝なことを書き送ってきたのが嘘になってしまう。

武蔵五日市駅から数馬行きバスで1時間、終点から歩いて10分ほど。緑が萌える山
襞から谷川のせせらぎが聞こえてハイキングなら絶好の場所だが、こんな所で寝起き
するなんて!いやはや…と息を切らせて辿り着いた夜のこと。

陶芸の取材に入ろうとした矢先に、武田さんが趣味と称して数え上げたのは陶芸の他
にガラス工芸、薩摩琵琶、紙芝居、写経、和裁、洋裁、習字、短歌、俳句、ダンス、日
本料理、フランス料理、中華料理、一輪車・・・と延々。習い事をしてきたのは50を下ら
ない。

絶句してしまうと、「私はね、25点主義なの。何でも25点取れれば及第だと思うことにしているの。そうすると、チャレンジすることが楽しい。毎日が楽しい。年を取るのも楽しい」。
毎日チャレンジ精神で楽しんでいると、病気の方でも避けて通るのか元気印の武田さんだった。

元飯場の殺風景な部屋での寝起きは、さすがの武田さんも心細かったのだろう。
薩摩琵琶や紙芝居弁士用のド派手な衣装をありったけ、壁や窓際にぶら下げて
古着屋の店内のようだった。「インテリア代わりよ。虫干しにもなるし」とケロリ。

骨董屋で見つけた薩摩琵琶も5~6丁ほど立てかけてあり、私のリクエストに応えて、
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり…」と平家物語の冒頭を弾き語りしてくれた。

肝心の陶芸もプロの陶芸家になったら楽しめない。好きなお酒を飲みたい一心
徳利作りに執着していた。プロと趣味の兼ね合いが難しいと口にしながらも、その後、
備前の焼き〆徳利2点は国際陶芸展に入賞。三軌展と新構造展にも入賞して、
1989年にスターとした第一回エイジレス賞(総務庁)に選ばれた。高齢者が
年齢にこだわらず楽しく充実したエイジレス・ライフを送っているモデルとして。

この道一筋…という方にも多く出会って、言葉では言い表わせないほど感動をもらっ
てきたが、武田さんの25点主義に救われていることも多い。
このブログも「まあ、25点ぐらいで及第点かな」と。

しかし、数馬の元飯場での一夜は怖かった。おどろおどろしい平家琵琶を聞いた後
で、妖怪が纏っているような着物がぶら下がっている部屋。トイレには蜘蛛の巣、鳥
だか獣の蠢く音…まだ耳にこびりついている。
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築200年兜造り茅葺屋根の旅館『兜屋』の上に武田さんの住まいがあった。
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by love-letter-to | 2007-04-01 22:28 | 人間万歳! | Comments(2)