忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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メリーさんの羊

乳牛、山羊に続いて羊の話を。動物は苦手な私だが、どういうわけか動物には縁
があって…でも、今回の羊はちょっと…。

「メリーさんの羊、めえめえ羊、メリーさんの羊、真っ白ね…」という童謡を口ずさん
だことがありませんか。その『メリーさんの羊』はアメリカ民謡だそうで、
原題はMary Had a Little Lamb
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マザーグース(ナーサリー・ライム)としても知られ、作詞者は子供向け
雑誌の編集者であったセイラー・J・ヘイル夫人であることは知る人ぞ知るで、
発明王エジソンが蓄音機を発明して初めてレコードに自ら吹き込んだのは、
当時アメリカで誰もが知っている『メリーさんの羊』だったと、訳詩者の
高田三九三(さくぞう)さんからお聞きしたことがある。

高田さんにお会いしたのも約20年前、当時86歳の高齢だったが、ダンディな
老紳士だった。小平市で長く句会を主宰していた廣瀬泣麻呂(本名:一郎)さん
と一緒に『日本の秀句・江戸時代句集』の英語訳を出版して間もなくだった。

その頃既に俳句はHAIKUとして世界各国で人気が高まっていたが、「俳句を真似
た短詩に過ぎないHAIKUばかりだ。五七五の韻をちゃんと踏まえた日本の俳句の
伝統をきちんと海外に紹介してないからではないか…。日本人として怠慢だよ!」と、
高田さんが俳句仲間の広瀬さんに鬱憤をもらしたのがそもそもで、二人は日本の秀句を英語に翻訳するという“冒険”に近い作業に取り掛かったそうである。

日本語と英語は全く異質な言語で、相容れない言葉や表現、わびさび、季節感など
考えただけでも土台無理な話だと思ってしまうが…、「誰もやらんからやった」という
二人。泣麻呂さんが江戸の俳人の句集から選句して、高田さんが英訳をしたそうだ。日本人の心を伝えようと。

浅草生まれの江戸っ子・高田さんは明治39年に生まれた三男だから“三九三”と
名づけられたそうで、東京外国語学校(現東京外語大学)の仏文科を卒業。大使館勤めでフランス語のほか英語も身につけ、母国語のように駆使するだけでなく、マンドローネというマンドリンの兄貴分みたいな楽器の奏者としても活躍してきたそうだ。世界の国歌の訳詩もしている。

世の中には多彩な人もいるもんだと、クラクラしてしまったが、高田さんは至って
控えめで、「外国語圏で生活していれば、いやでも身につきますよ。その国の言葉を
話さなきゃパン一個買えないんですから。でも母国語をしっかり身につけてなければ翻
訳は…」とのことだった。

で、『メリーさんの羊』は戦後、日本交通公社に勤務のかたわら、童謡の作
詞作曲・訳詩も趣味で手がけた数多い中の一曲だそうだ。「軽快なメロディと単純な歌
詞の中にストーリーがあるから、子供たちに親しみやすかったのかなあ」と高田さん。

高田さんの日本語訳によると、メリーさんが飼っていた羊が学校にまでついて行っ
て、生徒たちは大喜びしたが、先生はカンカンに怒ってしまい、メリーさんが困って
泣き出したという漫画チックなストーリーだ。

日本の秀句・江戸時代句集』英語訳の取材に行って、
メリーさんの羊』に出会うとは!

高田さんとは一期一会であったが、子供心に懐かしい『メリーさんの羊』の訳詩者に裏話までお聞きしたことは忘れがたい。

今回、因みにネットで検索したらセイラー・J・ヘイル夫人原作の詩は下記のアドレ
スで知ることが出来る。ネットの利便さを改めて感じた次第。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~torisan/mglist-m.html


また、有名な蕪村の「痩蛙まけるな 一茶これにあり」の句の高田さんの英訳は
 Hey you, skinny frog
 Never be defeated, as
 Issa cheers you here
Hey youと蛙に呼びかけるなんてユニークな発想が高田さんの持ち味で、面白い
翻訳だと思った。これなら中学一年生程度の英語力でも何とか…。

何しろタバコ一本吸い終わる間に、一句を英訳し仏訳もお茶の子さいさい。軽くやっ
てのけるという才人には恐れ入ってしまった。
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『日本の秀句・江戸時代句集』は知人に貸したり、戻してもらったりしているうちに、
行方不明になってしまったので、高田さんの英仏訳つき句集『丙午』を掲載。
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by love-letter-to | 2007-05-27 22:26 | レクイェム | Comments(4)

山羊のスミレちゃん

前回紹介した『磯沼ミルクファーム』で飼っていた3匹の山羊にそれぞれ双子が誕
生して、子山羊の里親探しを頼まれたことがある。1990年の春のことだった。乳牛
の飼育に追われて6匹の赤ちゃん山羊まで手が回らないという。

23区内に比べて自然は残っているとはいえ、子山羊を養育してくれる家庭が多摩
地区にあるだろうか…?お先真っ暗だったが、アサヒタウンズ紙面で呼びかけたと
ころ、6匹とも里親が見つかった!

その中の1匹スミレちゃんの里親になったのは動物好きな都守ファミリーだ。両親
と当時小5の郊介くん、小3の美世ちゃん一家だった。近くに多摩川の川原があり、
子山羊の運動にも草にも困らないそうで、一家揃って『磯沼ミルクファーム』へ生後
1ヵ月あまりの子山羊を迎えに行った日の郊介くんの日記を抜粋してみると…。
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牧場は広かった。八王子にもこんな環境の場所があったかと思うほど広かった。
「どれがいいかな。これなんかいいんじゃない。美顔だしね」。牧場のおじさんは、
お母さん山羊に寄り添って離れない一匹を抱いて、僕らに渡した。白すぎるほど白く、
サワサワした毛並み、ピーンとはった耳、目もあどけない感じである。
                                      (1990年6月8日)
              ◇
その子山羊がスミレちゃんだった。牧場ではミヤコちゃんと名づけられていたが、
郊介くんの妹の美世ちゃんと呼び名が紛らわしいので、家族で話し合った結果、
スミレちゃんと呼ぶことにしたそうだ。
              ◇
17日、父の日。トコトントン…金槌の音が響く。お父さん、またやってるな。お父さん
のふんばりには、感心せざるを得ない。今では、スミレちゃんにお母さんと思われて、
つきまとわれているお父さんだけれども、毎日汗ダラダラ流して小屋づくりをしている。
夜は暗くなるまでやっている。ちゃんと仕事もしてくれているのかなあ。
                                     (1990年6月17日)
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…と、郊介くんを心配させるくらいスミレちゃんの小屋づくりに一生懸命だった郊介く
んのパパ。「スミレちゃんの目は長四角だね」と観察が鋭く妹のようにスミレを可愛
がっている美世ちゃん。「そんなに大声を出したらスミレが驚くわよ」と、いつも一家の
行動に気を配っている美人ママ。郊介くんは仕事で帰宅が遅くなるパパとのコミュニ
ケーションのために日記を書くのが習慣となったそうだ。

そんなファミリーを訪ねる度に、「スミレちゃんは幸せだね」と胸が熱くなり、仲睦まじ
い家庭に感動した。当時から児童青少年による家庭内暴力や不登校、親の子育て
放棄など暗いニュースが毎日のように報じられていたから。

スミレちゃんも成長するにつれ活発になり、「今日は異常に暴れていた。僕が庭に
出るなり後ろから前脚で蹴ってくる。いたずらもすごい。庭のテーブルの上に乗っか
って僕のグローブのひもをくわえて落としたり…」と、郊介くんを困らせることも多く
なった。

でも、夏休みの家族旅行で家を留守にする1週間、磯沼牧場にスミレを里帰りさせ、
迎えに行った時、美世ちゃんは「スミレちゃんは私たちの顔を覚えているかなあ」。
「お父さんのことは覚えているだろうけど…」と、郊介くんも自信がなかったが、「スミ
ちゃん!」と呼びかけると、メエエエエ~と久しぶりに甘えた声を聞かせてくれた。
嬉しかった!

とにかく毎日毎日スミレちゃんに一喜一憂しながら付き合って1年半、スミレちゃんも
お年頃になり、牧場に返すことになった。妊娠・出産して家畜としての山羊の“オツト
メ”をさせる時期を迎えたのだ。その別れの日、ファミリーはスミレちゃんと近くの公
園に行った。誰もいなかった。静かだった。

スミレの背に代わる代わるまたがって記念撮影をした。映画の最後のシーンのよう
で、別れをしみじみ感じたという郊介くん。スミレをバンに乗せて一家で牧場まで送
り届けた。「ガッチリしてねぇ。いやあ立派ですよ~。大きい大きい!」と、牧場主の
磯沼正徳さんも感激したそうだ。

他の山羊に交じって頭つきをしているスミレに、「お母さんになったら、また会いに
来るからナ。その時はオッパイを絞らせてくれよ。スミレ、一年半ありがとナ」と別れ
を告げた郊介くんの日記は、今、読んでもジ~ンとしてしまう。
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その後も、郊介くんファミリーは時々スミレに会いに牧場へ出かけていたが、1992
年の春、スミレは小笠原の母島へ縁あって貰われて行った。東京から船で28時間
あまりかかる父島から、さらに2時間半も離れた母島へ。

郊介くんが中学1年、美世ちゃんが小5に夏休みに、一家は母親になったスミレ
一目合いたくて、はるばる訪ねていくのだが、この続きは又の機会に…。

小笠原の旅も綴った郊介くんの日記は、その後、パパさんがワープロで打って自家
製本して私にもプレゼントしてくれた。時折、ベッドで読んで、思いのまま綴った瑞々
しい感性に元気を貰っている。

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by love-letter-to | 2007-05-20 21:53 | 人間万歳! | Comments(3)

母さん牛の贈り物

数年前のゴールデンウィーク前に、「モモちゃんの二世が誕生したんです。ジャージー
種の赤ちゃんは小鹿のバンビみたいに可愛いですよ。是非会いに来ませんか」と、
磯沼正徳さんから電話がかかってきた。

平成元年から『磯沼ミルクファーム』と称して、八王子・北野街道沿いで消費者と直結した酪農を中心に、ヨーグルトやフローズンヨーグルトの製造・販売も手がけ、“世界一小さなヨーグルト工場”として親しまれている牧場のオーナーだ。

とくに乳脂肪が高く美味しいミルクを出すジャージー牛の飼育に力を入れており、「これ
サンディ母さん牛からの贈り物で~す」などと、メッセージカードをつけたヨー
グルトを中元や歳末シーズンに届けてくれる。サンデイの他にもマロンアニーとか磯沼牧場の乳牛たち約80頭にはタレントみたいな名前がつけられており、家族の一員だ。

もちろん乳量の多い白黒のホルスタイン種が多いが、ラクダ色のジャージー種、ブラウ
ンスイス種、ノルマンディー種など7色の乳牛を飼うのが磯沼さんの夢だそうである。山
羊、羊、犬、猫も飼っているほかタヌキやキツネなどの珍客も訪れるので、ちょっとした
小動物公園みたいなミルクファームでもある。

京王線山田駅に近い南斜面にある『磯沼ミルクファーム』では、この日、乳牛とのふれ
あい交流会が開かれており、十数組の親子が集まって乳搾りやカッテージチーズ作り
にもチャレンジした。

生まれて1週間のモモちゃん2世はもうピョンピョンと飛び跳ねながら、参加したチビッ子
たちの後をついて来る。「目が大きくて、ほんとバンビみたいだね」「アッ、お母さん牛に
甘えてる!」と、初めて赤ちゃん牛を見た子供たち。

牛乳は本来、母親になった牛が赤ちゃん牛のために出すオッパイを、私たち人間が“横
取り”して、栄養源や乳加工製品として利用し、その恩恵に与っているのだが…。

「人間と乳牛の関係はメソポタミア文明以来6000年もの長い歴史があるんですよ」と、
会うたびに熱っぽく語って市街地での酪農経営の夢を次々に実現させている磯沼
正徳
さん。

人がミルクを飲んだり、肉を食べたり、皮革やウール製品がなければ…と家畜から受
けている恩恵の大きさを改めて感じた1日だった。
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トレードマークの“山羊髭”に白いものが混じる年頃になった磯沼さんと初めて会ったの
は、35年も前、彼が東京農大の在学中か卒業したばかりの頃だった。『八王子市農業
後継者の会』を立ち上げて、近郊に畑や牧場があることで地場の新鮮な野菜や牛乳が
消費者の口に早く届けられ、緑の保全にも役立つと、その頃、八王子市内のあちこちで
持ち上がっていた道路計画の見直しも訴えていた。

地球温暖化地産地消食育などが叫ばれる遥か以前のことだったが、磯沼青年たちは今日的な課題を先取りして真剣に取り組んでいた。ことに酪農・畜産は3Kと言われ後継者不足も深刻な問題であったが、磯沼青年は365日ツナギを着て朝夕の乳搾りを生き甲斐にしていた。1回とてさぼれない過酷な作業だが本当に楽しそうにやっていた。

「ほら、この乳牛のオッパイは見事でしょ!」と、磯沼青年がホルスタインの下腹部のデカパイを揉み揉み搾乳にかかり、手をしごくたびに、白い液体がシュッシュッと勢いよく銀色のバケツに飛び込んでいった。乳を搾られている牛も気持ちよさそうだった。

しかし、牛の“彼女”ばかりを相手に30代半ばを迎えても、人間の彼女が現れない磯沼
青年
が気がかりであった。ところが、ある夜、受話器を耳に当てるなり「結婚式に出席し
てくれませんか」と磯沼青年にいきなり切り出されて、「エッツ誰の?」「いやだなァ、僕
が結婚するんです」。「よく見つかったわね」「ええ、まあ…」。

友人に誘われて演劇を見にいった打ち上げパーティで、知り合ったという彼女は、
『沈黙』などの話題作で知られる遠藤周作が主宰していた劇団『樹座』の劇団員だった
茂代子さんで、ケーキやクッキーの店でアルバイトもしているという。

「ワア~!ツーナッシングに追い込まれていきなり弾丸ホームランみたいじゃない!」
「ええ、まあ…」。乳牛のオッパイに関しては雄弁な磯沼青年がしどろもどろに照れて
いた。

八王子市内で開かれた結婚式の当日、ウェディングドレスに身を包んだ茂代子さんは
バンビのように目のクリクリッとしたチャーミングな女性だった。

ミルクプラントという全自動の搾乳機を導入したのも都内の牧場で初めて。フリーストー
ルという開放型の乳牛の飼い方をして、牛の健康に気を配り、近隣への糞尿の臭い公
害にも気を使って、コーヒーの抽出滓やカカオの豆殻を牛舎の寝藁に混ぜたり、牧場
体験教室も開くアイデアマンの牧場経営者である。

彼が「オッパイ、オッパイ」と牛のオッパイを自慢する度に、「乳牛でなくてよかった!私はボインじゃないし、子供も一人しか産めなかったし。肉にされてもこの貧弱なボディでは買い手がないよね」などと、馬鹿げたことを口にして呆れられてしまったが、磯沼青年から乳牛を通して家族を、街を、社会を、世界を見る目が育てられたような気がしている。
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by love-letter-to | 2007-05-14 23:09 | 人間万歳! | Comments(3)

アカシア記念日

毎度古い話で恐縮だが、20年ほど前の5月半ばのこと、仕事で遅くなり、国分寺駅
からタクシーで帰宅した。途中、あかしあ通りに差し掛かった時、運転手から「この
通りのアカシアは花が咲くんですか。もう何年も毎日走っているけど、花を見たこと
がないなア」と、聞かれた。

そう言えば、私も小平団地に住んでいた時代から、あかしあ通り両サイドに植え
られているアカシアの花を見た記憶がなかった。

その前日、福生の熊川付近でアカシアが白い花房をたわわにつけていたから、開
花シーズンに違いない。何となく気になり、気になりだしたら落ち着かない“ご苦労
な性分”の私である。

植物図鑑によると、日本で一般にアカシアと呼ばれているのはニセアカシア(別名
ハリエンジュ)。明治時代に輸入されたニセアカシアを当時アカシアと称していたこ
とから現在でも混同されることが多い。気に食わない名称だがあかしあ通りに植えら
れているのもニセアカシアである。

で、翌日、喜平橋から小平駅南口まで、あかしあ通りの両サイドに植えられている
アカシア、正確にはニセアカシア並木を見て歩くと同時に、通り沿いの商店街の店
主や従業員に、「お店の前のアカシアに花が咲いたのを見たことがありますか」と、
訊ねて歩いた。西田佐知子の『アカシアの雨が止むとき』の歌声を懐かしみながら…。

いずれも首を横に振るだけであったが、「刈り込み過ぎでないの?」「花は咲かない
くせして、根はうちの敷地内まで伸びて来てヒコバエが殖えてしょうがないんだよ」と、
恨めしそうにアカシアの木を見上げる人もいた。

確かに、私の歩幅で12~13歩ごとに植わっているニセアカシアは図鑑で見る樹形
とは全く違って、切り詰められた枝先でわずかな葉がプルプル震えていた。

小平市役所の道路課(当時)の話では、あかしあ通りが開通したのは昭和46年(1971)。
沿道に植える樹種選定には市内在住の園芸家・柳宗民さんにも相談をして、
葉の緑が優しく美しく、花も楽しめる落葉樹のニセアカシアを選んだとのこと。

しかし、市内のメインロードの一本で交通量も多く、枝葉が伸びると信号が見えない
という苦情が多い上に、商店街からも落ち葉の掃除に追われるという声が多く、交通
安全の立場上、年一回業者に剪定を頼んでいるという。折角、花も楽しめるニセアカ
シア
を並木に植えながら、現実は花より道路事情優先になってしまうのも致し方がな
いのか…NHK教育テレビ『趣味の園芸』の講師としてもお馴染みだった柳宗民さん
にもご意見を聞きに伺った。

東京街道沿いの泉蔵院の裏手に住んでおられた宗民さんの草深い平屋を訪ねて
びっくり。言っちゃあ悪いだけど、掘っ立て小屋みたいで、犬や猫、山羊や鶏も同居し
ており、カラスまで羽をバタバタさせて歓迎してくれ、のけぞってしまった。

よれよれの作業着姿の宗民さんはクシャクシャの人懐こい笑顔を浮かべながら、「実
は私もあかしあ通りのアカシアは刈り込み過ぎだと言っているのですが、苦情の電話
が多くては担当者も切らざるを得ないのでしょう。もう少し枝葉を伸ばしてやったら
景観もよくなるのに…」と、顔をさらにクシャクシャにした。

現在、ルネこだいら付近から小平駅前ロータリーにかけて植えられている葉が黄緑
色のキバニセアカシアの並木は全国でも珍しいので、大切に維持管理するように
要望しているとのことだった。

「我が家もこんな草茫々にして…と周囲からよく思われてないようですが、一木一草
に命ありで、それぞれ精一杯生きている。雑草が私の先生なんです」と、宗民さんは
戸口のカラスムギやオニタビラコに愛おしそうな目を注いだ。

それから20年、今月4日のこと。玉川上水の野草観察から引き揚げる時、喜平橋
から北に50メートルほどの所で、一本のニセアカシアが白い花房をたわわに付け
ているのに気がついた。「まさか夢でないでしょうね!」何度も目を凝らして確認した。
間違いなく花房だ!やったぜ!ニセアカシア!
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あかしあ通りの並木には花が咲かないものだと決め込んで、見上げることもなく過
ごしてきたが、2007年5月4日、『国民の休日』から改称されて初めての『みどりの
日』に、ニセアカシアの花が咲いているのを確認した。

さらに小平駅までのあかしあ通りの両側の並木の一本一本を確認して歩いたところ、
相変わらず貧相な樹形が殆どだが、小平団地付近で4~5本が花を咲かせていた。
青梅街道からルネこだいらまでには10本ぐらいが花房をつけていた。

柳宗民さんは残念ながら昨2006年2月に他界されてしまったが、一言お伝えした
かった。「今日、あかしあ通りのアカシアに花が咲いているのを見たから、アカシア
記念日
にしました」と。俵真知子さん風に。
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by love-letter-to | 2007-05-08 11:15 | レクイェム | Comments(16)

ハルジオンの蕾

道端や空き地に咲いているハルジオンを見るたびに思い出す少女がいる。
ごくありふれた野草だが、蕾の頃はうな垂れてピンクの花びらをチラリと覗かせ愛らしい。
そのうな垂れた蕾にダブってくるのは、庄司紗矢香ちゃんがヴァイオリンを演奏する細い首筋だ。
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11年前の春、私が彼女に初めてあった時は中学1年生だったから、紗矢香ちゃんでいいだ
ろう.その時既にウィーンのシェーンブルン劇場で行われた第8回モーツァルト・ジュニアコンクールで,モーツァルト大賞を受賞して未来に羽ばたこうとしていた。
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府中街道に近い路地裏に軒を連ねていた国分寺市内の小さな住まいで、通された部屋もアップライトピアノに占領されていて、「ここで練習しているの?」と手狭な部屋に目を丸くすると、コックンと頷いた紗矢香ちゃん。当時、身長は135センチ。中学1年生にしても小柄で腕も小枝ツィギーのように細かった。1960年代に彗星のように登場して“ミニの女王”ともてはやされたスーパーモデル・ツィギーを連想して、その名前を持ち出しても紗矢香ちゃんが生まれる遥か昔のことで、小首を傾げるばかりだった。そのtwiggy(小枝)のような紗矢香ちゃんは母親の益美さんによると、中世の町並みを残す古都イタリアのシェナで幼年時代を過ごし、テレビやラジオから音楽が流れてくると割り箸を持ち出して来て、ヴァイオリンを弾く真似をして飽かずに遊んでいたという。割り箸がお気に入りの遊び道具だった。

父親も母親も全く音楽には無縁の家庭だったが、キジアーナ音楽院のコンサートでヴァイオ
リン演奏を見たことがきっかけとなり紗矢香ちゃんの希望で5歳からヴァイオリンを習い始めた。
なのに3~4年は家ではお稽古をすることもなく、両親はちょっとがっかり。特に期待もしなかったが、小学5年生の時に原田幸一郎・桐朋学園音楽科教授に師事してから、ぐいぐいとヴァイオリンにのめり込み天性を覗かせるようになった。

「本を読むのが好きで、物語の世界と音楽がダブって想像が膨らんでくるようになったんです」。おずおずとだが、言葉を選びながら自分の意思はハッキリと伝える紗矢香ちゃん。「どんな本を本でいるの?」と聞いたら、「最近読んで心に残っているのは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』とか『シッダルータ』かな。同じ年頃の悩みを持つ主人公が身近に感じられるんです」。悩みなんかなさそうに見えた紗矢香ちゃんだったが、奥深いところを見つめている少女に、ギクッとするほど恐るべきものを感じた。

私のリクェストに応えて、レッスン中だというバッハの『無伴奏パルティータ』を弾いてくれることになった。ヴァイオリンを下顎に構えて弦に弓を当てると、か細いうなじや腕からは信じられないほど力強く豊潤な音色が私の耳だけでなく、鳩尾まで染み渡って全身が耳になったような気がした。
音楽には全く疎いが、再び恐るべきものを感じた。その数年前にサントリーホールで聴いた五嶋みどりの迫力のある演奏姿と重なり、「あなたは世界的なヴァイオリニストになるわ!私は何も取り柄がないけど予感だけは何故か当たるの!」。無責任のようだが確信に近かった。
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それから3年半後の1999年10月、紗矢香ちゃんは第46回パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで史上最年少、かつ日本人として初めて優勝した。16歳で世界最高峰のヴァイオリンコンクールのグランプリを射止めたのだ!その後の活躍は目も眩むばかりで、五嶋みどりを一躍有名にした世界的な指揮者ズービン・メーターも、紗矢香ちゃんの超絶技巧を難なくこなすテクニック、豊かで甘い音色を絶賛しているという。1999年度都民文化栄誉章にも輝いている。

中3の時、奨学金を得てドイツに留学する前に、西国分寺駅前のカフェ『はるじょおん』で、紗矢香ちゃんのミニミニコンサートが開かれたことがある。20人も座れば身動きできないフロアだが、国分寺市いずみホールに近いせいか音楽愛好家がよく集まる店だった。

常連たちのたっての願いで地元の小さなヴァイオリニスト庄司紗矢香ちゃんの演奏を聴く会が開かれた。ひたむきにヴァイオリンを演奏したその時の紗矢香ちゃんのほっそりした首筋を、ハルジオンの蕾に出会うたびに思い出すが、今や世界的なヴァイオリニストとして活躍している彼女は東洋蘭の逸品と言った方が相応しい。「心を込めて弾けば、ヴァイオリンが応えてくれるの」と話していた。
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現在はパリを拠点に演奏活動をしているが、来る5月11日、東京芸術劇場で開かれる読売日響との共演で
久しぶりに紗矢香ちゃんのヴァイオリンが聴けるのを心待ちにしている。GW中、東京国際フォーラムで開催される『熱狂の日音楽祭』の目玉とされた彼女のヴァイオリン公演チケットは即完売で残念だったが…。



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by love-letter-to | 2007-05-03 10:05 | 人間万歳! | Comments(12)