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モンキーウォッティング

久しぶりに蒼い空の下で玉川上水堤を歩いてきた。シラカシやクヌギなどの実が順
調に膨らんでいるのを見て、今秋は山にも木の実がたくさん生りますように願いつつ、
秋川流域で野生の猿を追いかけた日を思い出した。

             誘惑の電話

「桧原で野生の猿のケツばかり追っかけている奴がいるんですよ。一度付き合ってく
れませんか」と、『磯沼ミルクファーム』の磯沼正徳さんから電話がかかって来たこと
がある。

「やだぁ猿なんか」と気が進まなかったが、しぶしぶ引き合わされたのは井口基さん。
「こいつ 猿みたいな奴で…」と紹介された井口青年は、真っ黒に日焼けしているが
オタクっぽい好青年だった。

(財)日本モンキーセンターの飼育技術員を経て、東京都多摩動物公園で飼育係を
していた井口さんは、休日の度に桧原村、奥多摩町、秋川市(現在あきる野市)をフ
ィールドにモンキーウォッチングを続けていた。

「動物園の飼育係として毎日サルを見てきましたが、飼い馴らしているようでいて不
可解な行動もするし、サル山のボスの存在にしてもイマイチ分からない。で、野性
のサルの行動を観察してみよう」と、モンキーウォッチングを始めたら、面白くて
はまっちゃったという。

「シカやカモシカ、ツキノワグマといった本州に生息する陸生ほ乳動物のほとんど
(16科42種)がこの東京都内に生息しているんです。凄いと思いませんか?
新宿副都心から2時間足らずの所にですよ」。二の足を踏んでいた私への殺し文
句だった。

しかし、その頃、桧原村周辺では“猿害”つまりサルによって畑の作物や果樹が
食い荒らされ、対策に頭を痛めていた。

サルを初め鹿、猪などによる獣害は年々深刻になり、耕作しなくなった畑は荒れ、
うまい味を知った動物たちは作物求めてさらに被害を及ぼす悪循環で、山村の
過疎化に追い討ちをかけている。観光客が面白半分に投げ与える食べ物も猿害
を助長していた。

モンキーウォッチングは野生動物と人との共存を考えるのも狙いだという。丁度、
アカシアの花が咲く頃、南秋川沿い柏木野、南郷、人里(へんぼり)付近や矢沢
林道にサルの群れが好物のアカシアを求めて現れるそうで、是非にと口説かれ
モンキーウォッチングに同行することになってしまった。

             猿の群れ追跡にドキドキ

朝9時、武蔵五日市駅集合。20人前後の一行に加わって最初は矢沢林道を分
け入ったが、サルは去った後のようで、来た林道を戻り上川乗集落へとテクテク
移動した。

上川乗集落のある農家で、「今朝もジャガイモを食われてしまった」とお年寄りが
嘆いていた。その時だった。「アッ居た、サルだ!」井口さんが叫んだ。南斜面の
畑に動くものがあった。

私にはサルだと分からなかったが、一行は井口さんの後について背後の山の中
へ。何処をどう歩いたのか全く分からなかったが、息は切れ心臓はパクパク。でも
見失ってしまった。

仕方なく谷筋のザレ場でお弁当を広げていた時、見失っていたサルが数匹ひょっ
こりと現れた。井口さんによると10数匹はいるという。「でっかい群れだ!」

食べかけの弁当を慌ててザックに放り込んで、サルの群れをヒーヒーハーハー
追いかけた。「そんなに急がなくても大丈夫。こちらがゆっくりだと、彼らもゆっくり
進みますから」。井口さんのその言葉が妙に頭にこびりついている私だ。

そうか、サルも人間の行動を監視しながら行動しているのだ。その年は春のお彼
岸過ぎに大雪が降り、水っぽい雪の重さで根こそぎ倒れている杉や檜が目につい
た。横倒しになっている杉をまたごうとしたら、枝先についていた緑白色の花粉が
もうもうと舞い上がった。

花粉の噴煙で目はクシャクシャ、クシャミが立て続けに出るが構ってなんかいら
れない。ふと見上げたらボスらしきサルが張り出した木の枝に置物のように座った。
そのボスらしき猿と目が合ってしまった。

彼らは私たちをどう思って見ているのだろうか…。作物を食い逃げした猿たちだが、
単純に憎めなかった。獣害が報道される度に、猿の赤いお尻追いかけたモンキー
ウォッチング
が思い出されてならない。

昨2006年の秋は全国的に木の実の不作で、各地で熊が人間を襲うなど獣害
デカデカと報道された。記録的な暖冬で熊が冬眠しないとも伝えられた。人間より
も野生動物の方が気象の変化や自然の衰退に敏感で影響をもろに受ける。元々
は人間が開発と称して野生動物の餌場を奪ってしまったことが獣害を引き起こし
ているので、彼らにも言い分があるに違いないが…。

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by love-letter-to | 2007-07-26 11:51 | 人間万歳! | Comments(6)

巨樹巡礼

      NHK総合テレビで放映
「前略 この度、7月22日午前10:05~10:50分、NHK総合 『いよっ 日本一!』で
東京の巨樹・巨木が取り上げられ、私のライフワークや『巨樹の会』活動も放映される
ことになりました…」と、奥多摩町日原在住の平岡忠夫さんから手紙を頂いた。

この番組は月に1回、都道府県にある日本一のデータの一つを取り上げ、それがなぜ
日本一になったかという背景、その地域の魅力やそこに暮らす人々との関わりを紹介
するそうで、今回で三回目。東京都の日本一では巨樹・巨木が紹介されることになり、
「バラエティ番組でも巨樹・巨木を取り上げ、目が向けられるようになって嬉しい」と
平岡さん。

たびたび新聞テレビでも巨樹を描く画家として、また巨樹の調査・保護活動のトップリ
ーダーとして紹介されているので、名前をご存知の方もいるだろう。
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平岡さんは現在78歳。3,000枚の巨樹の絵を描くことを目標に、全国の巨樹を巡礼
している。現在、2,370枚にも達成している。車が入っていけないような山道を10キ
ロ以上もある画材を背負って。宮崎県の椎葉村では林道へ向かう途中の車が横転
して、危うく命を落とすところだった。

環境庁では目通りの幹回りが3メートルぐらい以上、大人が三人両手を広げて囲められる太さの樹木を巨樹と定義しているが、平岡さんは幹囲6.5メートル以上を“巨樹”としている。

そんな枝葉を広げ、見上げるような貫禄の巨樹と対峙しながら墨と水彩絵の具で描き
上げる。「巨樹に畏敬の念を抱き、パワーを貰いながら描くんです」という。
巡礼と言うに相応しい。

1983年56歳で東京都水道局の上水部長を勇退して間もなく、「巨樹ばかりの絵画
展を開催することになったから」と、平岡さんが知人の紹介で私を訪ねて来られた。
「何でまた巨樹ばかりを?」と、目を丸くしたのが昨日のことのようだ。

その20年ほど前に平岡さんは東海道自然歩道をたどる旅で、山梨県上九一色村の
精進の大杉』に出会って、その神々しさに全身が痺れるほど感動してしまった
という。

二十歳頃から全国を歩き、山に這い登り、ようやく探し当てた風景、その自然を絵に描
いてきたが、『精進の大スギ』に出会って以来、巨樹の発する“気”に惹かれてその姿
形を描くようになった。

そして、1982年55歳の時、大月市鳥沢の福知八幡神社の杉の森が中央高速自動
車道ができたため湧水が枯れ、杉の大木の3分の1が枯死してしまった現場を見て、
「うかうかしてたら巨樹が失われてしまう。救わなければ!」と、危機感を募らせて
上水部長の要職を退く覚悟を。仕事を整理して巨樹を守るキャンペーンのために勇
退されたそうだ。

そのキャンペーンの先駆けとなった奥多摩の巨樹巡りや倉沢のヒノキも平岡さんと訪ねたことがある。
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日原街道の倉沢バス停から細い急斜面を20分ほど登った坂の途中に、そのヒノキは
仁王立ちしていた。3.5メートルほど空に向かって伸びたてっぺんを見上げると、目が
クラクラして足を踏み外しそうになった。

目通りの幹回りは6.3メートル、樹齢推定1000年以上。よくぞこんな足場の狭い斜面 
で生き延びてきたもんだ!風雪に耐えた年月を樹肌が物語って、厳粛な気分になっ
たことは忘れ得ない。

平岡さんはこの倉沢のヒノキを何度も描いているが、ある日、激しい雷雨に襲われ、
近くに落雷してヒヤリ!「土地の人々は1000年も生き延びてきたのだから…と言うが、
明日、落雷して倒れるかもしれない」と、奥多摩町や東京都に訴えた。

地球温暖化によるヒートアイランド現象で、都市部に落雷が多発し、寺社の古木銘木
が失われるケースが増えていた。立川市内で開かれた平岡さんの初めての『巨樹絵
画展』で、キャンペーン用絵はがきの売り上げ50万円をそっくり寄付をして、全国で初 
めて巨樹に避雷針が取り付けられ大ニュースとなった。

この倉沢のヒノキへの避雷針がきっかけとなり、奥多摩町は全国でも有数の巨樹の
多い町であることが分かり、“巨樹の里”構想へと発展した。
1994年10月、『日原森林館』も開設された。3年後、その地続きにアトリエと住ま
いを設けて平岡先生も小金井市から移住された。

「巨樹がボクを呼んでいる。恋人に会いに行くみたいにワクワクする」と、全国の巨樹
を巡り歩き、描いて2,370枚にも達した平岡さんは偉丈夫に見えて実は病身である。
前立腺癌、くも膜下出血の大病と後遺症など爆弾を抱えている身だが、「このまま萎
れてしまうわけにはいかない」と、3,000枚を目指して巨樹巡礼を続けている。

もし、お時間があれば22日(日)午前10:05分からNHK総合テレビ『いよっ 日本一』
を見て下さい。意外なことに皇居付近など東京都心部にも巨樹が多いそうです。
「巨樹の棲家はよき住処」であり「巨樹は環境のバロメーター」であることも分かるでし
ょう。
〈追記〉このブログがきっかけで、ブログ仲間の皆んと倉沢のヒノキを2度も訪ねました。都内最大のヒノキで目通りの幹囲約6.3メートル。樹齢1000~1200年、東京都の天然記念物に指定されています。
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 一度目は5人で8月8日に。平岡先生の巨樹ギャラリーも訪ねました。
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二度目は14人で10月24日に。皆さん平岡先生の巨樹に対する熱弁に圧倒されたようです。平岡先生有難うございました!
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by love-letter-to | 2007-07-19 14:32 | 人間万歳! | Comments(11)

高尾山麓の小林先生

毎年、小正月前後に必ずお訪ねしている小林清子先生は現在97歳
高尾山麓の北側の2000坪もある広大な屋敷で一人暮らしをしている元女医さんで、
95歳まで『裏高尾診療所』の看板を掲げて、古くから近隣に住む人たちのホームドク
ターを続けていた。

今春頂いた新年状に「頭は呆け、畳の上でも杖をついてヨロヨロ歩いている哀れな老
婆になり果てました」と書かれていたので、伺ってはご迷惑かと差し控えていたところ、
5月に『ありがとうございました』という意味深なタイトルの新著が突然届いてびっくり!

恐る恐るお礼の電話をかけてみると、以前と変わらないテンポで話し、呆けているど
ころか「最近の政治家も役人も企業も悪いことばっかりして腹が立ってしょうがないの。
親がわが子を殺したり、子が親を殺す事件が続いて暗い話ばっかり…」と、政治の貧
困と世の中の乱れに憤懣やるかたない口ぶりに恐れ入った。

「な~んだ、相変わらず頭は冴えて、お元気じゃないですか。呆けてヨロヨロしている
なんて嘘みたい。置き忘れ、字の忘れ、人の名前が浮かんで来ないのは私だって重
症ですよ。それにしても97歳で新著を出版されたのはギネスブック候補では!」。

…という成り行きで6月初めに小林邸を訪ねた。きれいに刈り込まれたツツジが赤く萌
え、瓢箪型の池にはモリアオガエルのお玉じゃくしがウヨウヨと尻尾を振っていた。
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通用口の踏み石の上に立つと、自動的にチャイムがキンコーン!しばらくすると廊下
に杖を突く音がコツコツ。小林先生が現れた。「情けないけど背丈も5センチ縮まって
ね」と。

表敬訪問という名目で単なるおしゃべり相手をしてくるだけだが、小林先生とのお付き
合いも25年になる。
朝日カルチャーセンター随筆講座の最高齢の受講生が作品集を出版したと聞いて
お訪ねしたのがそもそもで、小林先生は72歳。私は43歳。その随筆集『駒木野』で
最も刺激を受けたのは好奇心旺盛で観察眼の確かなことと、博士号を持つ“女医さ
ん”のお堅いイメージが全くないことであった。
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森鴎外や斉藤茂吉をはじめ医師には文筆家も多いが、小林先生の随筆には家庭人
として女性らしい家族への気配りがあり、家事にも勤しみ、世間とのずれがない。鋭
い批評眼と無駄のない感性に富んだ文章に感銘を受けるとともに、年齢差を越えて
共感できることが多かった。

続いて上梓された第二随筆集『相模野』を読んだ時、屋敷内にある噴水池で巣作り
をしていたカルガモ一家への愛情あふれる観察記に感動して、そのカルガモの親子
たちに会いに出かけた。

「カルガモちゃんたち出ておいで!」と、草深い池の周りで小林先生と待ち受けてい
ると、7~8羽の小鴨を引き連れた母さん鴨がツツツ…と視界を過ぎった。一瞬のこ
とだったが、池の対岸の茂みに隠れてしまう瞬間の写真を数枚ゲット!やった~!
とホッとした。

ワンチャンスの上に草樹や土石が保護色になって、全くカメラ泣かせのカルガモ
家であったことも忘れがたい。7~8羽のうち3羽は野良猫に襲われてしまったが、
残りは無事に巣立ったとのことだった。玄関先の瓢箪池に棲みついているモリアオ
ガエルの観察記も井伏鱒二さんの『山椒魚』クラスの名作だと思う。
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小林先生で特筆すべきは90代の大台に乗って今日まで、3冊もの随筆集と1冊の
句集『花吹雪』を本にされた意欲とパワーであろう。
92歳の時に『いつ死ぬか分からないから』、94歳の時には『安心して死ぬこともで
きない
』を。そして97歳の今春『ありがとうございました』を出版された。

出版のたびに「これが今生の最後か…」との覚悟をされるそうだが、自分の老いを
冷静に見つめ、ありのままに綴るだけでなく、新聞を丹念に読んで首相の靖国神社
参拝問題や自動回転ドアやエレベーターでの青少年の死亡事件など、小林先生
りに診断を下して率直に提言している。

「こんな呆け婆さんが天下国家を憂えても、ごまめの歯軋りにもならないけど、黙っ
ちゃいられないのよ」と。それが小気味よくて読むのが楽しい。

呆けた呆けたと口にしながら、一日3食は自分で料理し、後片付けもきっちり。それ
が頭と身体の運動になると。こういう老いへの知恵も、子供のころからの躾けと学校
教育のお陰だという。そういう意味で家庭教育学校教育の大切さを力説している。
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           ☆ ご希望があればお貸しします。
〈追伸〉
小林清子先生の生まれ故郷・倉敷市種松山から寄せられたコメントを、小林先生に
ハガキでお伝えしたところ、9月21日の消印で下のような達者な字でお返事が届き
ましたので、掲載しておきます。9月28日記
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by love-letter-to | 2007-07-12 10:12 | 人間万歳! | Comments(19)

モーニングコール

「ああ、また余計なことを言っちゃった!」と、鳩尾あたりがキリキリするたびに、谷口
政江
さんのモーニングコールが懐かしくなる。

毎朝のように9時少し前になると、「もしもしぃ谷口ですけど…、金治さんがねぇ、」と
彼女から甘えたような口調で電話がかかってきた当時のこと。

出勤前の1分2分を争う時の電話にいささか閉口していたが、政江さんは「昨日、
さんたら散歩で近くの精神障害者のグループと出会って、同じ方向へ歩いていたら、
施設指導員から“きちんと列に並びなさい”と注意されたんですって!ありうるでしょ。
フフフ・・・」。

金治さんというのは政江さんの連れ合いのことで、長年連れ添ってきた熟年夫婦に
は珍しく、彼女は夫を“金治さん”と名前で呼んでいた。

二人は京王・井の頭線明大前で室内装飾の店を営んでいたが、金治さんが子供
の頃からの夢を捨てきれず55歳の時に店をたたんで画家への道を歩み始めた。
絵描きで食べていけるかどうか…。
無謀にも政江さんは金治さんの夢の航海に二つ返事で乗船してしまった。

相当な度胸というか、日本人離れしたスケールの絵を描く夫の画の最大のファンで
あり、名プロデューサーであった。二言目には“金治さん” “金治さん”と、妬けるほ
ど仲のいい夫婦で、夫婦漫才みたいな二人三脚に苦笑させられることがしばしばだ
った。f0137096_1291529.jpg

リリ~ンリリ~ン、呼び出しベルでスカートをはきかけたまま受話器を取ると、「金治さんの絵が美山工業団地に展示されることが本決まりになったの!食堂や企業のロビーにも80点ぐらい展示されるって!」

「ギャラリーのある工業団地か…、それってビッグニュースじゃない!」と、私は飛び上がった。「だからサ…取材に来てくれない?」

政江さんからの待ったなしの電話で、スカートのジッパーを上げないまま一橋学園駅ホームで電車に飛び乗り、後ろの女性から注意されて、恥ずかしい思いをしたことが2度もあった。

ある日、何時ものように政江さんからモーニングコールがかかり、「やっぱり胸の痛みは悪性、左のオッパイは削除しなければいけないみたい…ステージⅢの終わり
かⅣだって」。

その1~2ヵ月前から胸の痛みを訴えており、懇意なホームドクターに診てもらって
いるとのことだったが、筋肉痛との診断だった。

「そうね、癌は痛みがないそうだから…」と、私も無責任な相槌を打ってきただけに、
いきなり乳癌と知らされて返す言葉がなかった。もっと口うるさく検査を勧めるべき
だった。悔やんで悔やんで…まだ悔やみきれない。

1997年1月半ば、4時間半に及ぶ手術が終わるまで、金治さんと二人の娘夫妻と
病室の前で私も不安な時をすごした。数日後、再び、病室を訪ねたら、「ねぇ、私に
も文章が書けるかしら。オッパイが一つになった気持ちは失った女でないと分から
ないでしょ。だから書いてみたいの」。

左の乳房を失って心の傷口も癒えるまで約半年間に、政江さんが綴った手記は
それまで彼女の口から語られたことのない出生時からの自分史だった。生まれて
即、育ての親に預けられた政江さんの半生が語りかけるようなタッチで綴られて
いた。

前向きで決して人を悪く言わないのは、複雑な生い立ちで産みの親も育ての親も
傷つけたくない思いやりから身につけたものらしい。テレサ・テンに似た笑顔で
葉美人
でもあった。

八王子市の高台にあった彼女たちの住まいからの夜景は、香港や小樽の夜景に
匹敵するくらい素晴しかった。そのダイアモンド夜景を楽しめるパーティやミニコン
サート、金治さんの作品展などを政江さんが企画して、よくお手伝いをした。

毎週原稿の締め切りに追われてイライラしていた私の息抜きの場だった。
その政江さんが再三再四入退院を繰り返し洗礼名クララとなって神の元へ旅立っ
てから来春でもう10年にもなる。年月の経つのは非情にも早い!

そして、電話が鳴るたびに政江さんからではないか…と、一瞬胸が高鳴って
しまう。

政江さんの手記は彼女の3周忌に『幸せのバランス』と題して上梓された。金治
んが詠んだ追悼句集と一冊になって。政江さんに会いたくなると、その『幸せのバランス』を読み返すのが、私の精神安定剤になっている。

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by love-letter-to | 2007-07-05 23:04 | レクイェム | Comments(10)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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