忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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続々ヒロノさん:大車の御者と義弟妹たち

       ◇ 赤ん坊同然の私と母親みたいなヒロノさん ◇
10月も末に近い中国東北地方・旧満州は日が暮れるのが早い。16:00ハルビン発
特急373号は真っ暗闇に向かってまっしぐら。何処をどう走っているのか…このまま
地獄へ向かって走っていても私にはどうする術もない。

寝返りを打つたびに上の寝台に寝ているヒロノさんが「喉が渇いてない?お腹は空い
てない?」と、まるで母親のように私に声をかけてくれる。中国の土を踏んで以来、私
ヒロノさんの立場は見事に逆転してしまった。

日本にいる時は私が三歳年上のせいもあり、彼女を妹のように思っていたのに。西
も東も分からない。中国語も你好(ニイハオ)と謝々(シェシェ)しかしゃべれない私は
確かに赤ん坊同然であった。

旅程表によると、10月23日午前零時過ぎに訥河駅に着く予定である。ハルビンから
は8時間。1000キロ近いだろうか。「少しでもいいから眠りなさい」「分かった 分かっ
た。そうする」と、ヒロノ母さんに従うしかない。

トロトロッと寝入りかけた頃「そろそろ下りる準備をして」と、ヒロノさんに揺り動かせら
れた。とうとう来てしまった!中国でも最北端に近い訥河へ!
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     ◇ とうとう来てしまった訥河 ◇
午前零時過ぎだというのに、列車からは黒山の人が吐き出され、いずれも山のような
荷物を背負ったり抱えて猛スピードで、改札口に突進している。「何でこんな深夜に急
ぐ必要があるの?」。

人ごみに跳ね飛ばされそうになりながら不可解で仕方がなかった。とにかく中国の人
々は大きな声で喧嘩腰にしゃべる。電車やバスの乗り降りも“われ先に”で、山水画や
胡弓の哀調を帯びた音色とは程遠かった。しかし、3日もすれば、日本のように「済み
ません」などと言っていられないことが分かってきた。

駅前広場といっても、低い外灯が侘しい光をともしているだけ。その裸電球の外灯の下
に、日本でも戦中戦後、街中をバタバタと走り回っていた懐かしいオート三輪の姿が!

列車を下りた人々は争うように、そのオート三輪めがけて走っていた。1台去り、2台去
りして10数台のオート三輪も闇に消えてしまった。取り残されてしまった私とヒロノさん。

      ◇ 大車(ダーチョ)の荷台で夜半の街を ◇
外灯の下にはロバに引かせた大車(ダーチョ)という荷車がたった一台きり。「まさか、
あの大車に乗るんじゃないでしょうね」。遠目にも御者は頭も顔もすっぽり覆って、重々
しい外套姿が盗賊みたいで空恐ろしい。

「おかしいなあ。迎えが来るはずなんだけど。荷物から手を離しちゃ駄目よ」と、ヒロノさんは私に荷物の番をさせて駅舎の端から端まで駆け回っている。やがて大車
近寄り、交渉しているみたいだ。交渉が成立したのか手を振っている。やれやれ。
しかし、この暗闇で朝が明けるのを待つのも恐怖そのものだ。

よっこらしょと這い上がった荷台は滑り台のように傾斜している上に、つかまる所がな
い。四肢を踏ん張って滑り落ちないようにするだけで、気が遠くなりそうだった。ハルビ
ン郊外で行き交わした大車の荷台に乗った人々は、脚をブラブラさせて気楽そうに見
えたのに、いざ自分が乗って見るとおっかなくて身体が硬直してしまった。

全身を張り詰めているせいか寒さはそれほど気にならなかったが、バシッ、バシッツと
御者がロバの背に鞭をくれるたびに、私の心臓は縮み上がった。夜半の街は電灯の
明かりすらもない。いびつな月が鈍い光を放っているだけの漆黒の空をにらんで耐え
ていた。

ここで御者の男が変な気を起こしたら、私たち小柄な女性二人は…考えるだけで失神
しそうになる。生きて帰れるのだろうか。40年も前、よくヒロノさんはこの土地で生き伸
びてきたものだと、背筋が痺れそうになる。

一時間にも二時間にも感じたが、実際は30分あまりで、ヒロノさんの養父母の家近く
に着いたのではないだろうか。「ちょっと待っててね」と、ヒロノさんが路地奥に入って行
った。御者の男と二人になった数分間。若いのか年とっているのかも分からなかった
が、タバコを吸い始めた仕草を見ると、それほど悪い輩でもなさそうで私にもタバコを
差出し「吸わないか」と奨めてくれた。丁重にお断りしたが、それが挨拶のようだった。

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     ◇ オンドルと迎えてくれた家族の温かさ ◇
ヒロノさんが家人らしき2~3人と連れ立って戻り、「私たちの着く日を一日間違えてい
たみたい」と。深夜というのに義弟妹たちは起き出して、私を末弟夫婦の寝ていたオン
ドル
の上に招いて、手をさすってくれた。妻の方は臨月のお腹をしているのに、嫌な顔
ひとつしないで。

きっと「寒かったでしょう」と言っていたのだろう。10畳くらいの土間の片隅に2畳くらい
のベッドがあるきりのワンルーム。そのベッドの下がオンドルで温められるようになって
いた。この辺りの標準的な住まいで、2~3世帯が棟割長屋のようになっていた。ヒロノ
さんの育った開拓団の家も同じような造りだったようである。

しばらくヒロノさんは義弟妹たちと歓談していたが、やがて彼らは「ゆっくり休みなさい」
と私に言い残して姿を消してしまった。何処へ消えたのか、もう私には気を回す余力は
残っていなかった。

オンドルの上はポカポカ心地よく、一人で手足を伸ばした。明け方までに数回、人の出
入りする足音がしたが、私は眠ったフリをしていた。朝になって、オンドルの窯口に石炭
をくべに通って来てくれていたのが分かった。言葉では伝えられなかったが、彼らの温
かさが泣きたいくらい有難かった。

それ以上にヒロノさん、中国名・高秀芝(こう・しゅうず)に対する養父母一家の遇し方が
感じ取れた。何と4人の弟妹たちのオムツを取り替え離乳食を与え、子守り洗濯を一手
に背負ってきたそうだ。

地主階級だった養父母は文化大革命前から始まった弾圧思想統制で家屋敷を取り
上げられ、養父は酒びたりに。養母の性格が変わり賭け事に狂ってしまった顛末に
は、日本人のヒロノさんを養女にしていたことも少なからず、彼等の人生の歯車を狂
わせていたようである。

日本の国家政策で開拓に移住した大陸の地で生まれ育ち、何の罪もないヒロノさん
が「シャオ・リーベン・クーィズ!(小日本人鬼子)」と罵られ、その養父母まで犠牲に
なったとは!

残念なことに養父は1週間前に他界しており、今回の訪親に間に合わなかったが、
ヒロノさんは初七日に当たるこの日、墓参ができることを心から喜んでいた。かつて
は鬼婆のようだった養母も枯れ木のように細い静かな老女になっており、私にベッド
の下を指差した。

何かしらと覗いて見ると、隅っこに鶏が数羽いてびっくり!その内の1羽で今夜のご
馳走を作ってくれると言う。いやはや大変なことになった。

しかし、私とヒロノさんが訥河にやってきたことが、どのようにして伝わったのか、夜
が明けるやいなや、近隣の人々が集まってきた。

入れ代わり立ち代りやって来て、人形のように押し黙っている私を珍獣のように見物。
仕方なく微笑むと、「笑った 笑った」と口にしているようだ。中には私の手や頬を触っ
て、お餅のように柔らかいと、彼等の頬をすり寄せてきた。

乾燥の激しい酷寒の地の人々の皮膚は二十歳過ぎると皺が深く刻まれ、ひび割れ
でガサガサになってしまう。そのような大地に100万戸の移住計画を立てて送り出し、
その忠実で働き者の開拓団の人々を防護壁として利用し、放り出してしまったのが、
残留婦人と残留孤児を生み出した背景である。その後遺症はまだ続いている。

      ◇ 開拓団跡地は当時も元の姿で ◇
ヒロノさんの生まれ育った下学田開拓団跡地へも足を運んだ。訥河から車で1時間
あまり、未舗装の道路を車で走ると、砂塵がもうもうと舞い上がり、たちまち頭髪は真
っ白になってしまった。

当時戦後40年あまり経っていたが、開拓団の軒の低い土壁の住居も学校も殆どそ
のまま使われており、青酸カリを飲んで集団自決した井戸も…。さすがに井戸は蓋を
されていたが、余りにも生々しい。悲し過ぎる歴史の痕跡だった。

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「開拓団に入植した人々は牛や馬のように働いて、自分たちの畑を開墾したのよ。武
器弾薬に費やすお金があったら、山に木を植え、耕作機械を買って荒地を畑にしたら、
世界の貧しい人々が飢えなくてお腹いっぱい食べられる。貧困から戦争が起きるんだ
から」とヒロノさん。ポロッと漏らしたその言葉が今でも耳にこびりついている私。

私は訥河県を訪ねた戦後2番目の日本人だったそうです。
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by love-letter-to | 2007-08-30 21:34 | 人間万歳! | Comments(4)

続ヒロノさん:王さんと馬さんと赤い夕陽

         ◇ 口にした一言から旧満州へ
「ねえ、満州の開拓団のあった所は冬は寒いんでしょう?」「寒い?寒いなんてもん
じゃないですよ。外は零下30度以下になって、一瞬にして吐く息が凍り、絞った手
拭は氷の棒になるんですから」。

「よく、そんな土地で3歳から孤児になって生き延びてこられたね」「母が暴漢に殺
された後、5歳年上の姉と3歳の私、1歳になったばかりの妹の3人はカリカリに凍
った芋や大根をかじって飢えをしのいでいたの。妹にも凍った芋をしゃぶらせて」。

中国残留孤児ヒロノさんの体験を聞き書きしながらも、零下30度の極寒の満州大
地、本当の飢えを体験したことのない私は、しばしば立ち往生した。自分の想像力
の貧困さに苛立つことも多かった。

それでも仕事の合間をぬって週に2~3時間をひねり出し、ヒロノさんの聞き書きを
3ヵ月ぐらい続けただろうか。

延べ50時間に及ぶ聞き書きを400字詰め原稿用紙50枚あまりにまとめる作業も
苦しかった。「やっぱり自分の目で開拓団の土地を見ないで原稿にする自信がな
いわ」と、何度も投げ出しかけた。

原稿の最終段階に差し掛かった頃、「養父がもう危ないらしい。義弟妹から知らせが
来たの」と、ヒロノさんから告げられた。義弟妹はヒロノさんが養父母に引き取られて
数年後に相次いで誕生した。それまで長年子供に恵まれなかった養父母に。

良家の出だった養母は実子に恵まれたのに賭け事に狂ってしまい、小学学齢期に
達したばかりのヒロノさんが家事一切、義弟妹3人のオムツを替え、離乳食も与え
て育てたという。養父は穏やかな性格だったが、見て見ないふりをしていたそうだ。

そんなひどい仕打ちをされても「養父母に引き取られなかったら今の私はない。中
国の食べ物で私は育ったのは事実。私の身体の半分は中国人」と、しばしば口に
したヒロノさん。

中国と日本の狭間で揺れ動くヒロノさんの気持ちにも翻弄され続ける私だった。
「ねえ、この機会に養父のお見舞いに訥河(のうほう)県へ里帰りしたらどうかしら。
私も友人か肉親ということで同行するワ!二人の旅行費用ぐらい何とかするわ
よ!」と、とんでもないことを口にしてしまった私。小心なくせして時折り空中サー
カスみたいなことをやってしまう。

        ◇ 北京での取材から高飛び
ラッキーなことにその年昭和61年10月20日に北京服装協会の招待を受けて、
民間女性のためのファッションショーを取材することになり、北京から先の個人旅
行も許可された。

昭和61年当時の中国は鄧小平・中央委員最高実力者の改革開放政策の元に、
人民服が強制されなくなったものの、特に女性は「何をどう着ていいか分からない」
という時代で、カルダンなどブランドのファッションショーも開催されたが、一般の
女性には高嶺の花だった。

で、普段着やリフォームなど“普通のおばさん”のためのショーが開かれることに
なって、そのショーの取材さえ終わればフリーになった私はヒロノさんと10月21日
の午前9時半、北京空港から黒竜江省の省都ハルビン空港へ。
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約1時間半のフライトといっても日本列島の北端から南端の距離である。その日の午
後、ハルビンの公安局でハルビンからチチハルを経て訥河県への通行許可証を申請
することになっていた。空港からの道路は秋の収穫を終えた作物を運ぶ荷馬車が連
なっていた。まだ荷馬車が主要な運搬手段だった。牧歌的といえば牧歌的ではある
が、日本との時代差を感じさせられた。

当時、チチハルから先は未開放地区で、外国人である私は立ち入ることができな
かった。空港で待機してくれていたハルビン国際旅行社の通訳ガイドの(まー)さ
んは、「残留孤児のヒロノさんの養父母訪問という正当な理由があるから、簡単に
許可されますよ」と、軽く請合ってくれ、一緒に昼食を済ませた。

午後1時にハルビン公安局窓口へ。2時になっても3時になっても許可書はもらえ
ない。ハルビンからの特急は午後4時発車である。イライラと不安が最高潮に達し
た時、ヒロノさんの日本への帰国に力を貸してくれたというハルビン政府高官の
さんが心配して来てくれた。「こんなことだろうと思って」と、その紳士的な態度に中
国人を見直した。

3時半、さんは「後は私が責任を持つから駅へ急いで!」と背中を押してくれた。
さんの車でハルビン駅のホームに着いたのは発車5分前。長い長いホームをヒ
ロノさんと私は旅行ケースを引っ張りながら走った走った。軟臥車という一等寝台
車のコンパートメントに旅行ケースともども倒れ込んだ。

さんとさんとはそれっきりの慌しい別れになってしまったが、二人とも本当に
親身になって手を尽くしてくれた。二人との熱い握手が忘れられない。
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        ◇ 寝台車でのバトル
その感傷を破って、コンパートメントにもう一組の青い目の外国人と通訳の小柄な
中国人たちがなだれ込んで来た。家財道具一切詰め込んだようなダンボールの山
にジャンボなスーツケースが4~5個も。当然、彼らの上下の寝台シートも通路も
荷物でふさがって、私たちのベッドの下にもダンボールを潜り込ませようとした。

頭に来たヒロノさんは中国語で、私は日本語で「私たちの断わりなしにベッドの下に
荷物を入れるのは失礼よ!女二人だと思って甘く見ないで!」と、ギャンギャン。

その剣幕に相手二人も自分たちの横暴さに気付いたようだが、物理的に彼らの荷
物はコンパートメントに納まりそうもない。結局、私たちのベッドの下は彼らに譲って
上げたら、さすがに青い目は微笑してダンケシェーン!

中国人男性の通訳を介してヒロノさんが聞いたところによると、ハンブルグから大豆
油脂を絞る工場に派遣されたエンジニアとのこと。それからは中国語と日本語とドイ
ツ語に、時々は簡単な英語も交えてチャンポンでお互いの情報を交換した。
ヒロノさんと通訳者は意気投合したのか甲高い中国語会話が果てしなく続いて…疲れ果てていた私の耳には騒音に近く、眠りにつけなかった。

この引越し荷物騒動のお陰で、列車が松花江を渡る夕陽のシーンを撮り逃してしま
った。引揚者や残留孤児が異口同音に語る「赤い赤い満州の夕陽」を、私も期待し
ていたのに。
ことに松花江に落ちる夕陽は、空も川面も赤く染めてそれぞれの胸に焼付けられて
しまうそうだ。 以下は次回に
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by love-letter-to | 2007-08-22 22:11 | 人間万歳! | Comments(6)

ヒロノさん

8月15日。正午前、残暑見舞いを投函に行こうと玄関ドアを開けたら、熱気に押し戻さ
れそうになった。燃え盛る太陽の勢いたるや!火傷しそうに熱い!

62年前の8月15日もジリジリと太陽が照りつけ、四国の田舎町はうだるような暑さだっ
た。6歳だった私は父の生家の縁側で、疎開してきた従姉妹たちとままごと遊びに熱中
していた。

マツバボタンの葉っぱをキュウリに見立てて刻もうとしたら、1歳年下の弟に小刀を横取
りされて大きな声を上げた途端に、「静かにしなさい!」と叔母たちに怖い顔をされた。
座敷のラジオの前で祖父と叔母3人に母も神妙な顔をしていた。

あの時ラジオから流れていたのが玉音放送だった。「戦争が終わった!」と言われても
ぴんと来なかったが、大人たちの姿は空気の抜けた風船のようだった。

それから40年後、私は中国残留孤児鈴木ヒロノさんの過酷な体験を代筆することにな
った。彼女は母親のお腹にいた時、両親は旧満州(中国東北地方)の開拓団に移住し、
旧ソビエトとの国境に近い訥河(のうほう)県北学田開拓団で生まれた。

満州の広野で生まれたのでヒロノと名づけられたそうだ。彼女が3歳の誕生日を迎えて
間もなく迎えた昭和20年8月9日。この日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、旧ソ
ビエトは太平洋戦争に参戦。たちまちソビエト軍が北学田開拓団にもどっと侵入して、
略奪や無謀な行為を繰り返し開拓団は恐怖に陥った。

当時、ヒロノさんの父親も強制動員されて行方知れずで、開拓団の住まいには母親と
5歳年上の姉とヒロノさん、1歳になったばかりの妹が取り残されていた。
数日後の朝早く、母親が土間で洗濯の湯を沸かせていた時、ソビエト兵が押し入って
きた。金目のものを物色した挙句に現金を要求しているらしい。

言葉は話せないがジェスチャーで、「必ず用意しますから」と母親が約束をして、その
場はどうにか切り抜けたが、翌朝、そのソビエト兵は重いドアを蹴り破って侵入するな
り、母親に大声を浴びせて銃剣で襲い掛かった。

姉の気転で、ヒロノさんと妹は薄べりの下に隠れることができた。「その時のドアのギ
ィーッと鳴る不気味な音、薄べりの下から覗き見した男の皮のブーツは生涯忘れられ
ない」と、語って身を震わせたヒロノさん。

男が立ち去った後、土間に倒れて動かなくなった母親に恐る恐る近寄った。頭と口か
ら流れ出る鮮血、もの言わなくなった母親に3歳のヒロノさんは「早く、起きてよ」と声を
かけ続けたという。まだ母親の死を理解できなかった。

その後、姉と妹と子供だけ3人になったヒロノさん一家は、開拓団の引き揚げからも
取り残されて、妹は衰弱死してしまった。中国人の養父母に貰われた先で、母代わり
を務めていた気丈な姉も脳腫瘍で失って天涯孤独に…。

どういう運命の巡り合わせか、養父母はまだ幼いヒロノさんを“女中”代わりにこき使っ
て、10歳前後の年頃で一家の掃除洗濯子守までやらされたという。もちろん学校に
も行かせて貰えなかった。


それでもヒロノさんは「いつかは日本へ帰る。私は日本人だから」と心に言い聞かせ
て、帰国の夢を捨てなかった。養父母の一家を経済的に支えるために他家へ子守り
にも出た。子守りに追われながらも、足し算引き算を練習し、中国語の読み書きも覚
えたそうだ。

そして、日中国交が回復する以前、19歳の時に全く自力で帰国の夢を果たしたの
だが、帰国してからも日本語ができないヒロノさんの苦闘は語り尽くせず、受け止め
切れない重い問題ばかりだった。
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同じ敗戦の日にままごとをして遊んでいた私と、血まみれになった母親に声をかけ
続けていたヒロノさん。同じ日本人に生まれながらも…彼女の生い立ちのすさまじさ
に出来ることはして上げたいと、日本語の覚束ない彼女に代わって手記をまとめる
お手伝いをした。

その手記は『平和祈りて』というタイトルで、20人の戦争体験をまとめて昭和61年
7月に出版された。当時小平市に住んでいた故藤原敏子さんの呼びかけで、20人
が戦争体験を綴り、お金を出し合って出版にこぎつけた。
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このささやかな共同出版の『平和祈りて』に関わったことから、私はヒロノさんの生まれ育った北学田開拓団の跡地と彼女の養父母を訪ねる旅にも同行することになった。昭和61年10月末に訪ねた旧満州への冒険に近い旅は次回に。
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by love-letter-to | 2007-08-15 21:37 | 人間万歳! | Comments(8)

小さな引揚者

たしか昭和62年(1987)の3月初めでした。立川駅ビル9階の朝日ギャラリーで『小さ
な引揚者
』写真展を開催した初日、オープン前から見学者の列ができ、異例のこと
でびっくり。

たちまち会場は人で埋まってしまい、奉天(現瀋陽)の孤児収容所で起き上がる元気
もなく寝そべっている幼児、骨と皮になり皮膚も爛れている幼子、自分と同じくらいの
荷物を背負って懸命に列に並んでいる少女など…写真の前で立ち止まって動かない
人、周囲をはばからず泣く声が隣室のアサヒタウンズ編集室まで伝わってきました。

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当時、小平市に住んでおられた写真家・飯山達雄さんが敗戦から約一年後、かつて
満州と呼ばれた中国東北地方や朝鮮に放置されている人々の惨状をGHQや日本政
府に訴えるべく決死の覚悟で、渡航して撮影してきた写真のうち約30点を展示した写
真展でした。

「満蒙開拓民に応募すれば10反歩の自営農民になれる!」と喧伝された国策で、満
州や内蒙古に送り出された開拓団の人々。第二次大戦終結時には、約60万人の民
間人が大陸に取り残されていました。

大戦末期には軍関係者はいち早く引き揚げ、働き盛りの男性は根こそぎ動員されシベ
リアに抑留され、開拓団に取り残されたのは老人と女性と幼い子供が殆どだったそう
です。

飯山さんも朝鮮から引揚者でしたが、その窮状を見かねて衛生兵になりすまし、引き
揚げ船に潜り込んで大陸に再渡航したそうです。敗戦国の日本人が敵地の中国に渡
るのですから、見つかればまず生きては帰れません。

そのような飯山達雄さんが命がけで撮影してきた写真に、私が出会ったのは、『小さな
引揚者』写真展の2ヵ月ほど前でした。「戦後間もない小平の暮らしを写真に撮ってい
た写真家がいる」と聞いて、当時の小平の写真を見せてもらいに訪ねました。

ところが、飯山さんは「そんな写真よりも…」と、数枚の写真を取り出してきました。骨
箱を首から提げた少年、うつろな瞳で柱にもたれ掛かって幼児、引き揚げを待つ長い
列に鉄砲を構える中国兵…写真を手にしたまま私は動けなくなってしまいました。

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本当に膝がガクガクして震えが止らないほどショックを受けました。骨箱を抱えていた
のは少年でなく、強姦されないために坊主刈りにした少女だったのです。

終戦当時6歳だった私よりも幼い子供が、敵国になった異国の地で飢えと恐怖に怯え
ながらも懸命に生きている。その姿は言葉では言い表わせないほど私の胸に迫ってき
ました。

アサヒタウンズ社はその前年の10月に立川駅ビルに移転したばかりで、併設したギ
ャラリーはまだ利用者が少なく、空きが目立っていました。飯山さんを訪ねたのも、戦
後の小平の写真をお借りするつもりでした。

「これらの写真を貸して下さい」と、私は小さな引揚者たちの写真を収めた箱を飯山さ
んから奪い取り、逃げるようにしてタクシーに飛び乗りました。

写真展の説明などクドクド話していると、飯山さんの気が変わってしまいそうで…。
実を言うと、額装にしなければ貸さないとか、少しでも傷をつけたら弁償をと後から注
文がきましたが、なんとかクリアしてオープンにこぎつけました。

でも、その当時すでに戦後42年も経って、戦争体験は風化しつつありました。ですか
ら、引揚者の写真展など、あまり反響がないのでは…と、編集長からも同僚記者から
も軽く見られていました。

ところが、連日1000人近い参観者が訪れて、一週間の会期を三週間にも延長しまし
た。飯山さんも会期中にしばしば会場を訪れて「あなたは魔女だよ。大男の俺と鉛筆
一本で勝負に挑んだ魔女だよ」と。180センチ近い長身のスケールのでかい“冒険野
郎”でした。

大陸に置き去られた人々の撮影に使ったカメラはローライ・コードとベビー・イコンダで、
衛生兵の白衣の胸に穴を開け、そこから隠し撮りしたそうです。フィルムは戦後の闇
市で仕入れたものをカメラに合わせてサイズ加工。かなり光を被っているので、飯山
さんしか焼付けができないそうでした。

飯山さんは1904年横浜に生まれ、6歳の時に家族と朝鮮に渡り、少年時代から写真
と登山に熱中して、朝鮮の未踏峰の山を次々に登った後、中国大陸からニューギニア
を踏破した青春時代の話は、『青春バガボンド』という痛快な本になっています。


引揚者の写真をGHQに突きつけ、「ジュネーブ条約に違反する人道問題だ」と抗議し
た後、小平でしばらく隠遁。その後、ブラジル、アルゼンチンに渡り原住民と生活しなが
ら、その生活を紹介して『未知の裸族ラピチ』『秘境パタゴニア』など出版。明治生まれの先駆的な写真家でした。
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とにかく80歳を超しても膨大なライフワークを抱えてパワフルな日々を送られ、91歳
で他界されたと聞いております。
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by love-letter-to | 2007-08-09 22:57 | レクイェム | Comments(7)

うどん博士のうどん学

       花のアトリエで手打ちうどんを
先日、玉川上水堤で毎日のように絵を描いている鈴木忠司さんに出会った。小松橋
付近でヤブマオを描いていた。猛々しく茂っているヤブマオだが、鈴木さんの画には
花穂をつけたヤブマオがたおやかにに描かれ、まだ未完成だったが幽玄の情が感じ
られた。
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「エッ、ヤブマオって、こんなに美しかったっけ?」「深い緑の葉の色と青磁色の花穂
の取り合わせは、見れば見るほど魅せられますよ」

そう言われて目の前のヤブマオの花穂を見ると、細かい花が無数に群がって淡い陽
炎が立ち上っているようだった。

その一ヵ月ほど前に鈴木さんのアトリエで手打ちうどんをご馳走になった。いずれ劣
らぬ玉川上水ファンの集まりで、鈴木さんの打ち立てのうどんに明日葉のてんぷら、
上水堤で摘んだスカンポ(スイバ)の若い芽もマヨネーズをつけて糧(かて:副食)に。

鈴木さんの手打ちうどんは母親譲りだそうだが、『武蔵野手打ちうどん保存普及会
のメンバーでもある。その創立者で“うどん博士”として名高かった故加藤有次先生
に手打ちうどんをご馳走になった日を思い出してしまった。

         うどん博士が襷がけで

指折り数えてみると、もう20年以上も前になる。当時国学院の教授で同大学考古学
資料館の館長を務めておられた。新築した屋敷には『有山庵』と称したうどん作り専用
の別棟も設けて、背広姿から渋い和服に着替え、手早く襷をかけると「ハイ、うどん屋
の親爺に早代わりです」と。襷がけ姿もキマッていた。

「何でまた博物館学博士がうどん作りに興味を持たれたのですか」
「かつて武蔵野を開拓してきた農家では、うどんが冠婚葬祭や“もの日”といわれる行
事、人寄せのご馳走でした。そんな特別の日に母親が打ってくれたうどんの味が懐か
しくて、あの味を…」と、加藤先生は30年かけてやっと納得できるうどんが打てるように
なったそうだ。

水田ができない武蔵野一帯は陸稲に麦や稗、粟が常食で、母親が打ってくれたうどん
は加藤さんにも鈴木さんにも格別の思い入れがある。

加藤先生の専門の博物館学は考古学や民族学、郷土史を土台にして昔の人々の暮
らしを調べ、現在と未来の生き方を追求する学問だそうで、武蔵野の歴史風土から生
まれた手打ちうどん作りも研究の一環で、うどんは立派な文化だと話しておられた。

うどん屋の親爺さんになった加藤先生は、『有山庵』の土間中央にしつらえた広い調理
台で、作業にかかった。地場産の小麦1キロに水380~400cc、伯方産の塩を55グラ
ム加えて、小麦粉が水となじむよう両手指でかき寄せまとめていく手つきの見事なこと!

お供え餅みたいに丸めた生地を厚手のビニールにしっかり包んで、その上に先生が乗
っかって足踏みをしながら、踵を軸に小刻みにゆっくり360度回転。こうやると小麦粉の
グルテンの作用でコシが強くなる。

やがて、生地は直径40センチくらいの円座布団みたいになった。その生地を押入れ
の布団の間にはさんで理想的には数時間寝かせるそうだ。

「エーッツ!」食べるまでにそんなに待たされるのか…と、腕時計を見た私に、うどん博
士は「大丈夫、今朝仕込んでおいた生地が食べ頃になっておりますから」とニヤリ。

発酵した生地は、滑らかで色艶が一段とよくなっており、麺棒で中心部から端へ向かっ
て約5ミリ平均になるまで丹念に伸ばしていく。それをツヅラ折りにたたんで包丁でリズ
ミカル切っていく。さすが!定規を当てたように切り口も揃っていた。

土間の大釜で茹で上がったうどんは、未ざらしの麻紐のようでツヤツヤ。鰹味の効いた
特製のお出しにホーレンソウや茸類を茹でた糧とともに放り込んで、ひと口。喉越しは
滑らかでシコシコ。その美味しさったら!囲炉裏を切った板張りの間で、一人贅沢を味
わったことは20年後の今でも忘れられない。
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加藤先生は1988年に『武蔵野手打ちうどん保存普及会』を立ち上げ、講習会や試食
会などを通して武蔵野うどん文化を花開かせたが、2000年11月、71歳の若さで旅立
たれてしまって惜しまれてならない。
後継者たちが『小平ふるさと村』で土日と祭日に『小平糧うどん』の店を営業している。
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by love-letter-to | 2007-08-02 20:46 | レクイェム | Comments(7)