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ポリタンクドラマー

     ◇ ナイロビ世界女性会議のNGOフォーラムで ◇
太鼓や鉦の音を耳にすると、決まって呼び戻される少年の姿がある。やはり20年
以上も過去のことになってしまうが、初めての海外旅行なのに無謀にも赤道直下
ケニア・タンザニアへ。
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その年1985年7月、ケニアの首都ナイロビで開催された『国連婦人の十年世界会議』と平行して開かれたNGOフォーラムに参加した。といっても、世界の民間女性団体のお祭りみたいなもので、各国の女性グループのイベントや交流会を見学してきただけである。

しかし、ナイロビ大学キャンパスでは北側先進国女性グループの『男女平等問題』をめぐる討論会に、南側途上国の女性たちが多数押しかけ「男女間の格差問題よりも、一握りの先進国が世界の資源の8割以上を独占している方が大きな格差問題だ!」と、口々に叫んで会場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。

私をはじめ日本女性グループも先進国の一員として、途上国の抱える問題の大き
さと南北間の激しい対立に出鼻をくじかれてしまった。そのシーンを見ただけでも
NGOフォーラムに参加した意味があったと思う。日本の経済発展はもろい土壌の
上に立っていることをイヤというほど知らされた。

      ◇ バスに揺られて山間のキクユ族の村へ ◇
NGOフォーラムの一環でケニアの小さな村を訪ねるツアーにも参加した。ナイロビか
ら北へバスで飛ばして2時間ぐらい。対向車が少ないせいか全速力で飛ばすバスは、
座席の取っ手にしがみついていても、しばしば頭がバスの天井にくっつきそうになる。
途中から未舗装のアップダウンの激しい道に入り、震動で全身マッサージをされてい
るみたいになった。

土煙で顔も衣服も真っ白になってたどり着いたのは、ムグモイニというキクユ族の集
落であった。キクユ族はケニアで一番多くを占めている部族で、遊牧民のマサイ族と
比較すると顔立ちも丸く温厚な部族だという。

クリスチャン系NGOの支援で設立した村の診療所や小中学校を見学した。小学校の
方は土壁レンガの平屋で窓が極端に小さいのは、強烈な直射日光を防ぐためのよう
だが、室内に入った直後は真っ暗な無人の洞窟に放り込まれたみたいになった!

しばらくして目が慣れてくると、児童たちの大きな瞳だけが浮き上がってキラキラ。水
晶体が青白く透き通っているので大粒の瞳が際立ち、50~60人の眼球の集中砲火
を浴びたようだった。
こんな暗い教室でよく教科書の字が読めるもんだと驚く一方で、児童たちの澄んだ瞳
に吸い込まれた。
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授業参観の後、校庭で村人と児童たちが歓迎のパーティを開いてくれた。校舎から
蜘蛛の子を散らしたように児童たちが飛び出して来て、コンガやボンゴのリズムに乗
って踊り始めた。やっと歩けるようになった幼児まで手足で巧妙にリズムを取り、腰
をくねらせている。太鼓の音を聞くと自然に身体が動きだすようだ。

      ◇ ポリタンクでアフリカンビートを刻む少年 ◇
民族楽器を演奏する一団の中で、一人の少年がポリタンクを棒で叩いていた。その
手さばきたるや、精霊が乗り移ってトランス状態に見えた。小学4~5年生だろうが、
鍋でも釜でも叩けば音の出るものは楽器にしてしまうようで、全身でアフリカンビート
を刻む少年に一行は釘付けになってしまった。

「こんな幼い時代からリズムに反応する民族には、かないっこないよね」と、民族性の
違いも体感した。名前も年齢も知らないままに終わったが、
今日まで忘れ得ぬ少年になった。

山間の乏水地帯にあるムグモイニ村ではポリタンクは児童たちの必需品で、学校へ
はポリタンクやペットボトル、空き瓶などに水を入れて通学することになっていた。ポリ
タンクを持参できる児童はまだ恵まれた家庭だそうで、そのポリタンクを楽器にも使っ
ていたムグモイニ村の少年は、その後どうしているだろうか?

家庭では屋根に貯まった雨水を利用したり、村はずれの川まで水を汲みに往復する
のが日課で、女子供の仕事だという。村の中心地の集会施設では川から運んだ水を
砂や砂利でろ過する共同タンクが設置されていたが、蛇口をひねってもチョロチョロし
か出てこなかった。

      ◇ 顔に深く刻まれた皺だけでは年齢が… ◇
「お孫さんのお守りをしているのですか」と赤ん坊を背負った年老いた女性に声をか
けたところ、「私の子供です」と言われてびっくりしたこともあった。歳を尋ねてみたと
ころ40歳。顔に深く刻まれた皺からすると老年に見えたが、当時の私よりも5歳も若
いことに驚いた上に、40歳で8人目の子供を産んで家事育児をしながら、夫ととも
に畑仕事もしているという。皺が深くなるのも当然だろう。
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途上国はいずれも子沢山で、ケニアも女性の一人当たり出産数は7~8人。現在も
あまり変わらないようだ。ムグモイニ村の当時の人口は約2000人で、中学生以下の数が1000人を超していた。当然のことながら教室が足りなくて、1クラス50~60人詰め込んでも2部授業をせざるを得ないとのことだった。

平均寿命が50歳前後だったケニアの旅からは、沢山の課題を背負って帰国した私
です。
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by love-letter-to | 2007-09-28 12:37 | 人間万歳! | Comments(2)
      ◇ ヨン様の淡彩スケッチに熱い視線 ◇
「あら、ヨン様だわ!」「やっぱり素敵ねえ!」「写真よりもソフトでうっとりするワ」。
もう賞味期限切れかもしれないが、『冬のソナタ』で大ブレークしたヨン様の淡彩ス
ケッチの前は、ひとしきり冬ソナの話題で盛り上がった。
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このヨン様の水彩画に出会ったのは、今年の3月末から国立市内の画廊で開かれた『うどの ふさこ彩華展』であった。

その数日前に「初めて個展を開くことになったので、ぜひ見て欲しいから案内状を送っていいかしら」と、鵜殿総子さんから突然電話がかかってきた。「あの時、私に本格的に墨彩画を描くように背中を押して下さったから、真っ先に見て欲しいの」。

十年ぐらい前になるだろうか。ある絵手紙のグループ展で、鵜殿さんに出会って以来、時々、絵手紙を頂いていた。ハガキに旬の絵と一筆を添えて送られてくる鵜殿さんの絵手紙は、画面に収まりきらないくらい迫力があり、彼女の情熱がマグマのように噴出口を求めているように感じられた。

      ◇ 軽はずみな言葉を気に病んで… ◇
で、何かの折りに「絵手紙だけでなく、もっと大きな絵に挑戦されたら」と口にしたの
かもしれない。その後、鵜殿さんからの絵手紙はピタリと途絶えて、年賀状も届か
なくなっていた。無責任なことを言ってしまったのが原因かしら…と、ずーっと気に
なっていたところへ、電話がかかり、初個展の案内状と作品集が届けられた。

その作品集を見てびっくり!私って何て浅はかで無恥なんだろう!鵜殿さんのキャ
リアもよく知らないで、偉そうなことを言ってしまって…と恥ずかしく居たたまれない
気分に陥った。

学生時代から婦人服デザイン画コンテストに入賞したり、テキスタイルデザイナー
としてはなばなしく活躍したキャリアを、ひけらかさない鵜殿さんの人柄を見抜けず、
年配ミセスの優雅な趣味程度と受け止めていた感があった。

鵜殿さんの個展会場は折りからの桜の開花と呼応するように、墨彩画と染色工芸
両分野の作品一点一点が見事に開花!目が眩むようであった。墨汁の濃淡が力
強く、巧みな色使いで描かれた『上海蟹』『雲南の子』の軸装や額装、精魂を込め
て染め上げた帯や着物にリズミカルに踊るようなタッチで仕上げた小品の数々。
その一点に『ヨン様』のスケッチも。

      ◇ おばあちゃんの育児絵日記を見せられて ◇
鵜殿さんの多彩な才能に吸い込まれていると、「この十年、夫の癌闘病や見送り、
孫の育児に追われてご無沙汰してしまって…」と、彼女から一冊のノートを見せら
れた。

A4サイズの大学ノートには、孫のよっちゃんの育児記録がスケッチ入りで丹念に
記されていた。その日の天候や離乳食のメニュー、よっちゃんの発育ぶりなどの
記録を目で追いながら「これは私の宝物。大切な自分史の一環よ」と鵜殿さん。

事情があって鵜殿さん夫妻は生後半年あまりの孫の育児をすることになったそう
だ。「最初は不憫さに落ち込み、体力的にも大変だったけど、泣いても笑っても幼
い孫は可愛い。子育てのおさらいをするみたいで私たち老夫婦も若返ったみたい。
母性って呼び戻されるのね」。
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モデルさんのようにスラリと伸びた体形に彫りの深い顔立ちの鵜殿さんには、いつ
も圧倒されがちだったが、還暦を迎えた前後に乳飲み子のオムツを取り替えたり、
離乳食作りに追われる日々も経験したのだった。

よっちゃんに新しいママができて育児を卒業したと思ったら、夫が癌を患い、4~5
年入退院を繰り返して旅立ちました。絵心は愛や苦しさ、悲しさ、喜びを根っこにし
て芽生え育つのね」と、鵜殿さんは笑顔を取り戻した。

     ◇ 冬のソナタと亡夫の思い出 ◇
ヨン様の絵は闘病中のご主人と見た『冬のソナタ』の思い出に、描いてみたという。
そのドラマは粗筋しか知らないが、ペ・ヨンジュン扮する主人公は若くして交通事故
で急死し、20年後にそっくりの容姿で元の恋人の前に現れるそうで、鵜殿さんはご主人の在りし日を忍びつつヨン様を描いたのだろう。

鵜殿さんは中日友好書画交流展の常連として好評を博し、2003年には第8回
家庭画報大賞展で『瑞雲草花文敷物』が優秀賞に輝いている。
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      『うどの ふさこ彩華展』会場で
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by love-letter-to | 2007-09-19 20:50 | 人間万歳! | Comments(10)
世界を震撼させたあの日から6年。9・11を迎えるたびに思い出すのは、その年の
6月の一夜だ。
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      ◇ Dr.コーニェッツとの出会い ◇
同時多発テロでニューヨークの世界貿易センタービルが消滅してしまう3ヵ月と少し前、
私は友人二人とセントラルパークサイドのアパートメントにホームステイさせて貰った。

ウェスト86ストリートの角地に建ったかなり高級なアパートメントで、勿論、入口でガー
ドマンの厳しいチェックを受けた。広々とした中庭を囲んでロの字型に配置されているレ
ンガ造りの建物はゴシック建築風。

そのアパートメントの一室といっても300平米くらいあり、ドアを開ける早々、日米の住
宅格差にガ~ン!アメリカにも低所得層の古ぼけたアパートが目につき、スラム化した
ビルがマンハッタンの中心街にもある。セントラルパークではホームレスがあちこちに
寝起きしていた。

歓迎してくれたバーニス・コーニェッツさんは当時80歳近かったが、心理カウンセラー
としてアパートメントの一室で開業していた。独身だと聞いていたので私がミス○○と
呼べばいいのかミズ○○と声をかければいいのか、口ごもっていると、バーニスさん
は「Dr.コーニェッツ」だときっぱり。

その口調に彼女のプライドと威厳を感じたのが第一印象だった。Dr.コーニェッツ
友人の一人明美さんの子息の連れ合いの母親。つまり明美さんの息子とDr.コーニ
ェッツ
の娘が結婚している。映像技師とニューヨーク大学教授のカップルである。

Dr.コーニェッツのアパートで一夜ステイした明美さんと晶子さんと私たち三人は、お
互いの子供が幼稚園のクラスメートであった。明美さん夫妻が20年以上前にアメリ
カに永住してからも、私たちは文通や電話、メールで交流を続けており、「三人でアメ
リカツアーをしよう!」ということになった。今回は2回目で明美さんにお任せのツアー
であった。

7泊8日の一夜をセントラルパークが目の前のDr.コーニェッツのアパートでホームス
テイできるなんて!しかも、その数日後がDr.コーニェッツの誕生日だった。
私たち三人はティーブラウンのバラの花束を抱えて訪問した。

      ◇ 窓の外にフルムーン ◇
Dr.コーニェッツはまず、各室内を案内してくれた。それぞれの部屋が30畳以上もあ
り、私より小柄なDr.コーニェッツには広すぎるのではないだろうか!しかも英国調の
アンティック家具・インテリアに目を奪われて…。思わず私は
How many rooms do you have?と幼稚なことを訊ねてしまった。

Dr.コーニェッツはNine rooms.と平然。バストイレ付きのメードルームもあり、ゲスト
用のトイレから私たちに一夜提供してくれた部屋へ戻る時、迷ってしまったほどである。

そんなことより、大戦中ポーランドからユダヤ系移民としてアメリカに移住したDr.コー
ニェッツ
は当時まだ二十歳前だった。

英語を学びながら大学を卒業するのは言葉では言い尽くせない苦労があったには違い
ないが、「自分に課す課題が大きいことは、その人を成長させる。若い時は希望があ
る。試練は面白かった」という意味のことを話してくれた。サイコロジストとして博士号を
取っているDr.コーニェッツは、アメリカンドリームを果たした一人だろう。

キングスイングリッシュに近い英語でゆっくり話してくれたにも関わらず、Dr.コーニェッ
のトークが半分も聞き取れなかったのは本当に残念だった。

Look over there!とDr.コーニェッツが指差す方を見ると、窓の外に満月がこうこう
と輝いていた。Full moon! You bring to me that full moon! I don’t forget tonight! Good night!と、私たち三人と満月を見上げたことを子供のように喜んでく
れた。真紅のTシャツがよく似合うシニアだった。
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その3ヵ月後、ニューヨークの空はテロリストたちにより一変してしまった。1機目の衝突
が臨時ニュースとして報道されている最中に2機目が突入した映像は、映画のシーンで
はないかと…。前代未聞かつ衝撃的な映像をリアルタイムで目にしたショックは、6月の
一夜の満月とともに忘れられない。

     ◇ ツインタワービルの姿 ◇
6年前のアメリカツアーでは、できるだけ足で歩こうと、Dr.コーニェッツ
アパートメントから、マンハッタン南端のリバティ島へのフェリー乗り場までザック背負
って歩いた。フェリーが出航して向きを変えた時に撮った記念写真の背後には、世界
貿易センタービルのツィンタワーがしっかり立っている。その最上階から眺めたマンハ
ッタンとハドソン湾も記憶に新しい。

Dr.コーニェッツは別れ際にGood luck with your study English! Be, patient!
と、励ましとアドバイスの言葉を贈ってくれた。もう一度ニューヨークを訪ねる約束をして
いるのだが、私の英会話力は退化する一方で…情けない。
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           女三人イン・ニューヨーク2001
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by love-letter-to | 2007-09-11 20:49 | 人間万歳! | Comments(9)

服装設計師

      ◇ 熱烈歓迎招待状 ◇
服装設計師って何だか分かりますか?中国語でファッションデザイナーのことら
しい。「私のこと日本服装設計師だなんて!何か別人になったみたい!キャハッ
ハハ!」と、八千草薫に似た笑顔を振りまきながら、森淑子さんが北京服装協会
から届いた招待状を手にして、来社されたのも20年あまり前になる。
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その招待状には「熱烈歓迎 日本服装設計師 森淑子女史」と書かれていた。

中国通の知人を通して、その当時、改革解放路線に伴って中国では服装の自由化も始まったが、衣料品の種類やサイズが少なく、特に中高年層の女性の着たい服がない。服飾関係者もどういう服を作ったらいいか頭を痛めていると聞いて、さんは参考作品の写真を知人に託したそうだ。

「そんなことすっかり忘れていたら、1年も経って突然、北京から熱烈歓迎の招待状が届いたの。今さら断れないし…」と、さんは愛くるしい顔をくもらせた。

北京服装協会では時装交流会を開きたいとのこと。つまりさんがデザインした中
高年向けのファッションショーを開催して、交流したい意向のようだった。いわゆる
ファッションショーとは違って、モデルも日本と中国の中高年女性で、中国の服装・
縫製関係者の研修を目的にした交流会を。

      ◇ 家庭の主婦がお洒落を!◇
「私ね、家庭の主婦がお金をかけないでお洒落を楽しみ、綺麗になってほしいの」と、
さんは立川市の自宅や集会場でソーイング・リフォーム教室を長年主宰しており、
ミニファッションショーと即売会も開いていた。

名の通ったデザイナーではないが、さん自身とてもお洒落でセンスがよく、同性
でもうっとりしてしまうほどチャーミングな女性だった。歌うように可愛くしゃべるので、
聞いたら音大の声楽科出身とのこと。“天は二物”を与えるらしい!

「でもね、プロの歌手になるには声量が足りなくて…コンプレックスの塊だった時代
もあるのよ。家庭に入ってから自分がお洒落をしたくて洋裁を必死で勉強したの」と。

洋裁は製図が難しく、裁断で部屋が散らかったり、ミシンを掛けたりと煩わしいが、
さんのソーイング教室は不器用な女性でも手軽にスカートやブラウスが出来上が
るそうで、人気があった。

「北京へはソーイング教室のメンバーと私の姉たち7~8人ぐらいで行く予定だけど、
同行して貰えないかしら。普通の“おばさん”がモデルになって北京でショーに参加
する機会なんて、例がないでしょう。あちらでも縫製工場で働いている中高年の女
性がモデルになって参加してくれるみたい」。森さんの可愛い声で頼まれると、その
気になってしまった私。

ヒロノさんの生まれ育った黒竜江省の開拓団跡も訪ねたかったので、さんのショ
ーを取材した後は別行動をする計画を打診したところ、北京国際旅行社からもOK
が出た。

     ◇ 国賓待遇 の歓迎会 ◇
昭和61年(1986)10月18日午後に着いた北京は、まさに梅原龍三郎画伯の“北
京秋天”そのもの。天安門の上は雲一つない青空が広がっていた。

その夜は北京服装協会の主催で北海公園内の『仿膳飯店』で歓迎会が開かれ、同
協会の会長は時の胡耀邦・中国共産党総書記夫人の李昭女史。中国のファースト
レディであった。

円卓に並んでいたのはかの西太后がお気に入りだったという宮廷料理で、国賓待遇
の歓迎に恐れ入ったが、李女史は「中国の経済自由化はスタートしたばかりで、服装
も供給と大衆の好みに大きな隔たりがあります。日本に教わりたいことがいっぱい」
さんの両手を握った。

そして「中国には馬には鞍、人には衣装という言葉があり、服装はその人の人間性を
象徴する」と李女史は語っていた。日本では“馬子にも衣装”と言われるが…。
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      ◇ 普段着のファッションショー ◇
翌々日10月20日午前9時半から国際倶楽部で開かれたさんのショーでは、一部
がブラウス、二部は雨の日のファッション、三部はスーツと礼装で、北京服装公司で
働く女性たち5人もモデルになって「森先生の洋服は着やすくて縫製が素晴しい!」
森先生のように50代になっても若々しく、男性から見て美しいと言われる女性になり
たい」と興奮していた。

声楽科出身だけに声はよく通り、“普段着”のように飾らないさんのトークは日本語
ながら約500人の参加者を惹きつけ、しばしば客席から歓声が沸き上がった。
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メード・イン・チャイナのファッションがデザイン縫製ともにレベルアップして世界の市
場を席巻している現在では、今昔物語になってしまったが、あの時のショーでの
んの笑顔とトークは忘れられない。民間外交の走りだった。
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by love-letter-to | 2007-09-06 11:44 | 人間万歳! | Comments(8)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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