忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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ドスト氏の弘法大師像2

      ◇ 常寂光の微笑み ◇
ドスト氏こと関頑亭さんが父親の遺志から30年以上も構想を温め、制作に取り掛
かって約4年あまり。丈六脱活乾漆弘法大師像を中野の宝仙寺に納め、その年平
成4年11月1日に、同寺の三重塔と御影堂の落慶法要に合わせて、弘法大師像
の開眼式が古式厳かに行われた。
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弘法大師像はアトリエで目にしていた時よりも柔和で、微笑しているように見えた。
常寂光といって、常に柔らか陽射しのような微笑を湛えているのが僕の理想像で
す。この御影堂の光線の具合を頭におきながら制作してきたんですよ」と頑亭さん。
ムムム…そうだったのか!

頑亭さんのアトリエに通い詰めて半年あまり、ひと口には語れないほど沢山の作
業を見て聞いてきたが、この時ほど頑亭さんの奥深さに打たれたことはなかった。

      ◇ 阿吽の仁王尊像を師弟で ◇
千年近くの歴史を誇る古刹・宝仙寺は中野区内でも屈指の広大な寺院であるが、
先の大戦の戦火で伽藍一切が消失してしまった。その焼け跡を訪ねた頑亭さん
は欅の切り株を掘り起こして本尊不動明王の台座と光背を造り上げたのを皮切
りに、本門の仁王尊像一対を後に文化勲章を受けた師の澤田政廣と共に造り上げた。
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阿の像を澤田政廣師が、吽の像を弟子の頑亭さんが7年かけて彫ったそうであ
る。手取り足取り教えはしなかった師だが、頑亭さんの腕を見抜いていたのだ。

谷保の旧家の次男坊だった頑亭さんは点数で序列をつけたり、枠にはめられる
学校が大嫌いだった。父親のはからいで小学校を出ると手に職業をつけるため
に蕎麦屋に住み込み奉公をさせられたが、出前の途中で骨董屋に入り浸ったり、
本屋で立ち読みにふけって商いに身が入らず、1年あまりで飛び出してしまった。

楽器店に勤めたり、オートバイの修理工場にも勤めたが長続きしなかった。頑亭
さんには何をやっても自分の求めているものと違った。「このところ長期欠席児童
が増えているそうですが、僕みたいな生徒も多いのではないかな。教育現場、教
える側にも問題があります」

「それでどうして、彫刻家に?」と訊ねると、「僕は小学時代から仏教や彫刻に興
味をもって、その関係の本も読み漁っていたから、当時、帝展の審査員で彫刻界
の“織田信長”と僕の目に映った澤田政廣について修行がしたい」と、大博打に出
たそうだ。「一生を賭けるなら一流の師から学びたい。小学校しか出てないのにま
せていたんですかね」

すったもんだの挙句、縁戚筋を通して澤田政廣の内弟子になったものの、頑亭さ
んは来る日も来る日も掃除と子守りばかり。兄弟子たちのように鑿は持たせてもら
えなかった。「でも、それが良かった!彫刻の変な癖がつかなくて、師が制作して
いる姿だけを見てイメージトレーニングができたから」と頑亭さん。

      ◇ 生と死のはざまで ◇
満州事変が始まると、頑亭さんも招集されて満州の関東軍独立守備隊に配属さ
れた。極寒の前線でも傍の目を盗んではスケッチをしていたそうだ。見かねたの
か部隊長から「お前は鉄砲を担ぐより寺に入れ」と、ハルビンの極楽寺へ送り込
まれた。

寺の内情や土地の人の心を知るのも軍務の一つだったらしい。非常に戒律の厳
しい寺で飢え死にしない程度の食糧で修行に励んでいると、イヤでも生死の問題
を突き詰めて考える。

そこで修行していた一人の日本人の僧から、「生きて日本へ帰れたら富田宝仙寺
住職
を訪ねるように」と言われたのが、頑亭さんと宝仙寺の関わりの発端であるが、
富田住職が真言密教の奥義への道を開いてくれたという。

それ以上深い問題になると、毎度なんじゃもんじゃになってしまったが、弘法大師
は「人の心には山より険しく、谷より深いものがある」を心の拠り所として厳しい修
行に励んだとか。

「人間は煩悩の塊でしょ。煩悩があるからこそ人間は煩悩と闘い、正しい道を得よ
うとするところに生の意味がある。死はその延長線で死を以って生の証となる」と
頑亭流に要約してくれたが…未だに理解できないでいる私である。
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       ◇ 自宅全焼で一から ◇
頑亭さんの自宅も全焼してしまったことがある。山口瞳さんとの旅から帰り着いて、
近所の居酒屋で一杯やっている時だった。知らせが来て火事場に駆けつけたら、
消防士が「旦那、みな落としましょう」と言った。半焼だと火災保険がおりないから
気を利かせてくれたのだが、頑亭さんは保険が嫌いで一円も掛けてなかった。そ
れこそ丸裸になってしまった。

焼け跡を片付けている翌朝、澤田師が見舞いに訪れ「やあ、過去の物が全部灰に
なってよかったね。一からやり直せる!」。そう言って文化勲章の受章者が羨やん
だそうである。真の道を探求している人にしか吐けない励ましの言葉だった。

また宝仙寺住職は現場検証が済んだ直後、門徒1000人から1万円ずつ寄せら
れ1000万円を持って駆けつけてくれた。
今から30年前、昭和52年当時の1000万円である。

そんな小説よりもドラマテッィクな人生を送ってきた頑亭さんの生き方は、著書
『人生飄々と』『不良老人のすすめ』でどーぞ!どちらも講談社から刊行されて
います。
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〈追記〉11月1日(木)~7日(水)11時~18時 国立駅南口から徒歩2~3分、
せきやビル7階エソラホールで関頑亭さんの企画展『墨は活きている』が開催されます。f0137096_9584948.jpg頑亭さんを初め嵐山光三(作家)、田沼武能(写真家)、常盤新平(作家)、中村乃武夫(デザイナー)、野村万作(狂言師)、南伸坊(イラストレーター)、平田暁夫(帽子デザイナー)など頑亭さんの懇意にしている名士の書展で、入場は無料です。
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by love-letter-to | 2007-10-27 20:57 | 人間万歳! | Comments(2)

ドスト氏の弘法大師像1

      ◇ 難解な言葉との闘い ◇
「エッツ!だっかつかんしつ?それ何ですか?どういう字を書くんですか」「じょうろく?
じょうろくぶつって、仏像ですか?どういう字を書くのかなぁ…」

国立市の超有名な彫刻家であり画家であり、書家でもある関頑亭さんの弘法大師像
制作過程を連載することになって、毎週1~2回は頑亭さんのアトリエに通うことにな
った私は“どういう字書く子”さんと笑われるくらい、耳慣れない難解な言葉に翻弄され
た。

「だっかつかんしつは脱活乾漆と書いて仏教の経典や仏像と同じ頃、中国から伝わ
ってきた成型・彫刻技法の一つで、粘土像の上に麻布と漆を塗り重ねて形造り、乾
燥させ出来上がったら中の粘土を抜き取る技法で、出来上がった仏像は麻布と漆の
ハリボテだけれども、金剛仏と同じくらい丈夫で耐久性があると言われています」
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      ◇ 平安末期以来絶えていた技法 ◇
その脱活乾漆技法による弘法大師像の制作は頑亭さんの30年来の念願で、父親
の遺志で取り掛かったという。その当時、頑亭さんは73歳。脱活乾漆丈六仏が制作
されるのは平安末期以降800年来初めてというので、制作過程を取材することにな
ったのだが…。

彫刻も仏教用語もまるでチンプンカンプンで、「エッツ!そんなことも知らないの?」
という顔で頑亭さんが制作の手を休めて説明をしてくれても、分ったような分んない
ような…。「僕はこの道一筋でなく、一筋縄で行かない人間ですから」という頑亭さん
の融通無碍と博識、創造力に惹かれて、平成4年の4月から半年あまり通い続けた。

頑亭さんによると、釈尊の仏身は1丈6尺あったとされ、この丈に造られた仏像を
または丈六仏という。けれども彫刻では結跏趺坐(けっかふざ)といって、通常は
座った姿の仏像を造るので、その丈は8尺(約2.5メートル)。それ以上大きい仏像
が大仏と呼ばれるそうだ。

     ◇ 湿疹記者と笑われて ◇
山口瞳さんの人気シリーズ『男性自身』にドスト氏として、よく登場し旅の連合
いでもあった頑亭さん。ドストエフスキーに風貌が似ていることから山口さんの直観力でドスト氏と名づけられたそうだ。鋭いなあと感心してしまう。

梅雨にさしかかったある日、それまで3年余かけて制作をした粘土の塑像姿の弘法
大師に、いよいよ麻布を貼り漆を塗る作業に取り掛かった。「アッ、そこに漆がこぼれ
ているから気をつけて!」。アトリエに入るなり頑亭さんの声で飛びのいたのだが、
左足の裏で生漆を踏んづけてしまった。

ただでさえアレルギー性湿疹に悩まされている私は、その日から漆にかぶれて1~
2週間ひどい目にあった。以後は真夏でも長袖長ズボンに靴下2枚を重ねて履いた
姿で通い続けた。「漆には全くひどい目にあいました」と告げると、「やー悪かった。
悪かった」と頑亭さんは毛のない頭をかいた。

頭髪が禿げるにつれ白い顎鬚茫々と成長してきたというドスト氏は「失神女優という
女優がいましたが、あなたは湿疹記者だね」と。全く一筋縄では行かない頑亭さん
である。
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その麻布を貼る作業というのは、10センチ角に切った蚊帳布をわらびこ糊で丈六
の塑像全体に隙間なく貼り付けるのだから、気が遠くなる。塑像と並んだ頑亭さん
は小人に見えた。

麻布が乾いたところで、練った生漆を刷けで塗る作業に取り掛かった。漆というの
は高温で湿気がないと乾かないそうで、34度を超す真夏日でもアトリエではクー
ラーも扇風機も使ってない。

それでも頑亭さんは「大師さんに漆パックをしているみたいでしょ」と涼しい顔で冗
談を。頑亭さんがはめていたゴム手袋をはずすと、中にたまっていた汗がドバドバ
流れ落ちた。

麻布と漆を交互に施す作業の3回目を迎えた日、「どうです2枚目よりいい男にな
ったでしょ。3枚目の方がいい男なんですよ、元来は」。過酷な作業の合間にもジ
ョークを連発するのが頑亭流で、その気の遠くなりそうな作業を6回も繰り返して、
一段落したのは旧盆前であった。

      ◇ 気の遠くなる作業 ◇
旧盆明けに訪ねたら、その貼ったり塗り重ねた層をサンドペーパーで惜しげもなく
削っていた。「エッツ!折角、塗りあがった漆を削ってしまうのですか?」と私は悲
鳴を上げそうになった。「削ることは研ぐことです。芸術は創造と破壊の繰り返しで
す」と頑亭さん。

…というように、丈六脱活乾漆弘法大師像の制作は気の遠くなるような作業
の連続だった。しかし、その間も頑亭さんは作業を終えると、夜な夜な新宿や銀
座界隈に通い続けて朝帰りをすることも。そちらのエネルギーにも気が遠くなった。
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そして“どういう字を書く子”さんも仏教用語と高温多湿と闘いながら頑亭さん
のアトリエに通い続けて、その年の11月1日に中野の宝仙寺で開眼式を迎え
た。頑亭さんが若き日に仏教修行をしたお寺である。ドスト氏の続きは次回に。
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by love-letter-to | 2007-10-19 18:48 | 人間万歳! | Comments(8)

元範多農園の語りべ

      ◇ 突然の朗報 ◇
元範多農園にあった蔵のことで…」と先日、日本植物防疫協会総務部の内久根毅
さんから突然電話が!『もぐら通信』HPの前書きから知恵を絞って我が家の電話番
号を探がし当てたとのこと。その推理力に驚くと同時に恐縮してしまった。

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在りし日の範多農園を訪ねて』シリーズの発端となった“元範多農園の蔵”は、小平
市鈴木町2-772番地の一角 日本植物防疫協会・資料館の敷地内に現存してい
るが、昭和12年頃、この一帯に“範多農園”と称する広大な西欧式農園が設けられた
時に、麻布宮村(当時)から移築されたと伝えられている。

約1万6000坪もあった農園を築いたのは日英混血の実業家ハンス・ハンターこと範
多範三郎(日本名)であるが、その話はさておき、内久根さんから“元範多農園の蔵”
が今年の6月から公開されていることを知らされた。嬉しい電話だった。

      ◇ 謎を秘めた白壁の蔵伝説 ◇
その昔は大岡越前の守屋敷にあったとも伝えられ、風説の多い白壁の優美な蔵。元
の所有者ハンス・ハンターとともに謎を秘めた蔵。 その蔵は戦後間もなくから日本植
物防疫協会
の前身が所有し、昭和44年から同協会の資料館として使われてきた。

老朽化も進んでいるが今回、内部を改装して植物の病害予防・害虫駆除などに関す
る資料の『展示蔵』として公開していくことになったとのこと。

「一度見にいらっしゃいませんか」と誘いを受けて、翌10月5日に旅友達と一緒に駆け
つけた。存続が気がかりだった蔵が新しい役割を得た姿に、一日でも早く会いたかった。
内久根さんと技術顧問の田中良明さんが中心になって展示にこぎつけたそうで、つきっきりで展示資料の懇切な説明をしてくれた。

      ◇ 長く閉ざされていた蔵の扉が開けられて ◇
間口3間、奥行き2間あまりの2階建て“元範多農園の蔵”の外観は往時のままだが、
ぎっしり詰まっていた書棚が取り払われてフローリング材が敷かれ、漆喰壁はお化粧
直しされて見違えるように明るく心地よいギャラリーに変身していた。

ハンターは日本の伝統家屋に並々ならぬ愛着を持ち、範多邸母屋を構えるに当たっ
て関東一円を自ら探して歩いたそうだが、麻布宮村の大岡越前直径子孫の別宅にあ
った白壁土蔵にも惚れ込んで譲り受けたとされている。

近隣の地主や農家の穀倉より小ぶりで繊細で女性的な趣のする土蔵は、大名か上層
武士階級の衣類保存用の蔵ではなかったかと推察されている。 麻布周辺でも人目を
引く蔵で所有者が転々として“妾蔵”とか“さすらいの蔵”とも呼ばれ伝説の多い蔵であ
ったらしい。

その蔵の入口正面にハンス・ハンターと範多農園・白壁土蔵の解説が掲げられており、
閉ざされてきたこの付近一帯の近代史にも光が射してきたように感じられた。
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植物の病害虫に関する資料など興味を惹かれないかもしれないが、一見の価値は
あると思う。『新撰作物病害図』は明治30年代、東京帝国大学農科で教材として使
用された『稲熱病(いもち病)』と『梨赤星病』掛け軸で、スライド映写機もプロジェクタ
ーもない時代に、後ろの席からも見えるように細部まで克明に描かれている。

豊な表現力と色彩は日本画としても、ボタニカルアートとしても観賞できる。2階に展
示されているポスターの数々も時代背景が浮かび上がり、病害虫と闘いながら作物
を生産してきた農家や関係者の苦労が偲ばれて仕方がなかった。田植えも稲刈りも
手作業の時代だった。

長崎県に残る『蟲除大菩薩』や高知県に伝わる『虫送り行列』の儀式、虫塚(石川県
・東京都)の写真にも、病虫害に苦慮したひと昔前が思い出された。


      ◇ 元範多農園の生き証人との出会い ◇
近在では見かけないタイプの“元範多農園の蔵”のルーツを訪ね始めてから約20年
になるが、忘れ得ないのは故伊藤徳造さんとの出会いである。

広大な領地の一角に屋敷を構える英国のマナーハウス(領主の館)を理想として設け
られた範多農園の母屋は、第二次大戦末期に米軍の爆弾攻撃によって全焼し、ハン
ス・ハンター
も脳梗塞の療養中に他界。農園の大部分は戦後の農地解放により、耕
作者や元の地主などに払い下げられて以後、切り刻まれ細分化されて範多農園の
面影は失われてしまった。

蔵のルーツをたどる手がかりも全く期待できそうになかったが、ラッキーなことに伊藤さんと知り合うことができた。伊藤さんは側近としてハンス・ハンターの多岐にわたるスケールの大きな事業と私生活を身近に見てきた生き証人だった。
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大戦中に範多農園跡地の一角に移住して以来、半世紀以上も口を封じてきた伊藤んがハンス・ハンター範多農園に関して語るきっかけは、昭和63年当時、植物防疫資料館長をしていた故古山清さんと時々道で出会い、親しく口を利くようになったことかららしい。

私が “範多農園の蔵”のルーツに興味を持ち始めた時期と偶然にも一致して、古山清さんと一緒に伊藤家を訪ねることになった。伊藤家はハンス・ハンターが農園内に設けた別棟3棟の内の1棟であった。範多邸母屋と同じく関東近県の農家を移築したそうである。

ハンス・ハンターが那須塩原の庄屋を移築して構えた豪壮な母屋のことを初め、範多農園や蔵、彼が手がけた金山や錫鉱山事業、奥日光に鱒釣りを中心として繰り広げた国際交流などなど、半世紀も胸に畳み込んでいただけに伊藤さんの記憶は整理され、驚くほど鮮明であった。失礼を承知で再三訪ねて、伊藤さんの記憶を書き留めた。

半世紀を経ても亡き主君に忠誠を尽くしているような語り口で、そんなに慕われてい
るハンス・ハンターの足跡を私は辿ってみたくなり、記録したのが『在りし日の範多農
園を訪ねて
』シリーズである。このとき伊藤さんが語ってくれなければ、“範多農園”の
ことは地元史から抜け落ち、蔵の存在も見直されなかったかも…。

伊藤さんは昨平成18年6月18日、95歳で永眠されたが、今回の日本防疫資料館
『展示蔵』
の公開も、伊藤さんの功績かもしれない。心の中で伊藤さんに報告をした。
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なお、日本防疫資料館『展示蔵』は毎月第1・3金曜日10:00~16:00開館。入場無料。
問い合わせは042―381-1632日本植物防疫資料館へ。
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by love-letter-to | 2007-10-11 19:41 | レクイェム | Comments(5)

野麦峠の先生

      ◇ メッセンジャー役を引き受けて ◇
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「ナイロビに行くなら松本さんに、ちょっとしたお土産を届けてくれないかな」
何の取材の時だったか忘れてしまったが、小平市内住んでおられた『あヽ野麦峠
で有名な山本茂実先生にお会いした時のことであった。我が家に近い仲町に住ん
でおられたので、山本家を訪ねる機会が時折りあった。

松本さんというのは当時、朝日新聞社ナイロビ支局長をしていた松本仁一さんである。山本さんは1983年、教え子の青年海外協力隊員たちがアフリカ各地で稲作指導をしている現場を回って、そのルポルタージュを執筆中であった。
45日間にわたる取材旅行中にナイロビ支局長の松本さんにも大変お世話に
なったということだった。

初めての海外旅行で現地の地理も事情も全く分らないのに、「朝日新聞社から紹
介状も貰っており、多分松本さんにもお目にかかりますから…」と、私は安易にメッ
センジャー役を引き受けてしまった。

      ◇ つながらなかったナイロビの電話 ◇
ところが、1985年7月7日ナイロビのホテルに着いた夜から、朝日新聞ナイロビ支
局へ再三電話をかけたが、全くつながらない。念のため電話番号は出発直前にも
確認して来たのに、発信音すら聞こえない。ベッドの中でも悶々とし3日目になると
焦ってきた。

7月9日、NGOフォーラムの事前準備でナイロビ大学を訪ねた後、市内で自由行動
の時間があった。ツアー仲間と繁華街でケニアドルの両替やショッピングをしている
時、目の前のビルの日の丸の国旗が目についた。

マップで確かめると日本大使館の所在地である。近くにいた仲間に事情を話して、私
はそのビルのエレベーターに飛び乗った。たしか6階だったと思うが、エレベーターの
ドアが開くなり、黒人のガードマンが仁王立ちしていて追い返されそうになった。パス
ポートを提示して幼稚な英語で必死に用件を伝え、やっと大使館の窓口にたどり着く
ことができた。

受付の女性に、電話がつながらない窮状を伝えると、「7月1日からナイロビ市内の
電話番号は一斉に局番が2桁から3桁に変更になったからでしょう。普段から電話
事情が悪い上に、突然のことで大使館でも混乱しているんです」と、親切に教えてく
れた。助かった!

ケニアの首都ナイロビは人口約200万人、近代的な高層ビルの立ち並ぶ大都市で
あるが、当時、国連関係の催しは初めてであり、世界女性会議のように海外から
1万人以上を受け入れるハードもソフトも準備不足で、混乱を極めているようだった。

その夜、松本ナイロビ支局長が宿泊先のホテルに訪ねて来てくれ、
山本茂実先生から託されたお土産を手渡すことがやっとできた。
今思い出しても冷や汗が出る。

      ◇ 懐かしい山本家のロビーと書斎 ◇
その十年ぐらい前、山本家を初めて訪ねた時、熊野宮付近で道を尋ねたら「ああ、
“野麦峠の先生”のお宅なら、あの黒い塀の家だよ」とお年寄りが教えてくれた。以
来、私は山本先生というより“野麦峠の先生”と呼んでいた。

飛騨のうら若い女性たちが諏訪の製糸工場へ出稼ぎに通い、家計を支えた哀史
あヽ野麦峠』。昭和43年(1978)に刊行され250万部を超すベストセラーになっ
た名作は、野麦峠の先生によると、子供の頃にお婆さんから聞かされた昔話が土
台になっているそうだ。
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当時、通る人が絶え忘れ去られていた飛騨と信濃境にある野麦峠も、一躍クロー
ズアップされた。「これという産業のない貧しい山村に、“動く陽明門”といわれる高
山祭りの豪華絢爛な屋台が存続しているのが不思議だと思わないか?製糸女工
たちの稼いだ金がつぎ込まれているんだよ」と、訪ねるたびに野麦峠の先生は作
品の裏話を聞かせてくれた。

次の話題作『喜作新道』も北アルプスの表銀座といわれる大天井岳から槍ヶ岳へ
抜ける険しい尾根道を独力で切り拓いた牧の喜作が、ある日、猟にでかけた雪の
山で謎の死をとげる。北アルプスに鳴り響いた名鉄砲打ちであった喜作に関する
克明な取材の一端を、講談師のように語り聞かせてくれた。情景が浮かび上がる
ようで、時間を忘れて聞き入った。

当時の山小屋風の山本家は玄関を入った所がワンフロアーになっており、囲炉裏
の周りに木のベンチや椅子がおいてあった。2階の北向きの書斎の窓からは空に
手が届きそうだった。

また、野麦峠の先生はグリーンロードを歩くのを日課にされていたようで、パッタリ
顔を合わすこともあった。「小平駅北口に、うまいラーメン屋があるのを知っている
かい?」と『満州餃子』のラーメンがお気に入りのようだった。1998年3月81歳で
他界される半年ほど前、グリーンロードの延命寺裏付近でお会いしたのが最後と
なってしまった。
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松本歴史の里の一角に『山本茂実展示室』があり、自筆原稿や資料、遺品が
展示されているそうである。松本仁一さんは1984年にアフリカの広い範囲で
発生した大旱魃による甚大な被害から“アフリカの飢餓”を予見し、その第一
報を日本に伝えた記者で、1990年には朝日新聞アフリカ総局長に。94年には
ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。朝日新聞社刊『アフリカで寝る
アフリカを食べる』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
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by love-letter-to | 2007-10-04 15:30 | レクイェム | Comments(4)