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水芭蕉曼陀羅

             ◇ 心に残る年賀状 ◇
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年賀状を書いたり頂く年の瀬年明けになると、思い出すのは故佐藤多持先生から頂いた手描き、あるいは手刷りの賀状です。葉書サイズとはいえど、単純な線と色で描く佐藤さんの墨彩画の世界に引き込まれてしまう。

もう30年も前になるだろうか…。頂くようになった当初の頃は、「さすが日本画の大家!しかし筆まめな先生だ」ぐらいに軽く受け止めて、散じてしまったのが残念で仕方がない。

ある時、保存しておけば佐藤多持コレクションになると気がついた。年賀状だけでなく、個展やグループ展などを取材したり、会場に出向いただけでも丁寧な礼状を下さった。それらを数えてみたら20点以上にもなっている。私の愛するコレクションである。
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       ◇ 水芭蕉曼陀羅に託された美の探究 ◇
立川駅北口のたましん本店ビル9階に、多摩地域では初めての本格的な『たましんギャラリー』が開設され、そのオープニング展で初めて佐藤さんの『水芭蕉曼陀羅』を拝見して、グサリと心臓をえぐられたように思った。

闇を鋭利な刃物で切り裂くような線と金環食の太陽のような円。黒と白、線と円だけでダイナミックに描かれた水芭蕉が、静と動、強と弱を感じると同時に太古から未来を連想させ、鋭く問いかけてくるようだった。いわゆる日本画とは違う。
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生意気にもそう口にしたら、「僕が20代の頃、尾瀬で最初に水芭蕉に出会った感動は衝撃に近かった。雪解けの冷たい水の中から仏炎苞を覗かせ、朝の光が射してきた光景は、この世にこんなに美しく尊い姿があるのかと…。その時の感動を絵にしたい。その一心で格闘している僕の奇跡が線であり円なんだ。終戦間もない頃からの美を求め続けている」と佐藤さん。

気さくに応えて下さった佐藤さんに魅かれて、その後、国立駅北口の高台にあるアトリエを訪ね、円月殺法のような鋭い線を描く所も拝見させて頂いた。筆に墨をつけて紙に下ろしたら最後、やり直しの効かない一発勝負。躊躇いもできない。
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真剣勝負の制作活動を続けておられた佐藤さんだが、本当にマメに画廊巡りをされ、趣味レベルのグループ展でもお目にかかることが多かった。「素人もプロの画家の絵でも見ることが勉強。吸収するものがあり、常に自分に問いかけ試している」とのことだった。
そうか、絶えず新しいものを吸収して感性を刺激しなければ、大家といえど萎んでしまうのだ!

◇ 美術教師が描いた戦時下の絵日誌 ◇
戦後40年の節目の年、昭和60年の6月、ある美術教師の青春というサブタイトルで『戦時下の絵日誌』が刊行された。佐藤さんが戦時中に勤め先の昭和第一工業学校(現昭和第一学園高校)で、暇を見つけては色紙に筆を走らせたスケッチ146点を収録した画集である。

佐藤さんは東京美術学校(現東京芸大)日本画科を昭和16年12月に繰り上げ卒業させられるなり入隊したが、右手の負傷が悪化して軍医から「君は絵を描く生命を持って生まれてきたのだから、絵を描け」と除隊を強く勧められた。

戦地に赴いた友人のことを考えると、心苦しかったが軍医の強い勧めで生家の観音寺(国分寺市)に戻った。療養しながらも日中ブラブラしているのは苦痛で、昭和一工夜間部の美術教師に。

当時、近くの軍施設に全国から優秀な生徒が徴用されており、夜間部に通って来ていた。昼間は絵に専心し夜間教師を務めた佐藤さんは、昼間働いて夜学に通う青年たちの兄貴分という感じだったそうだ。

そのうち昼間部の若手教師はどんどん徴用され、佐藤さんは昼間も教壇に立つようになった。教壇に立つ頃から戦況は厳しくなったが、佐藤さんは5分でも手が開くと色紙に筆を走らせて授業風景や学校行事、軍事訓練、同高付近の町や人々などを写生するようになった。立川空襲で燃え上がる街や避難する人々、買出しでごった返す駅前などなど。

昭和18年1月から24年6月10日までに描いた色紙は146枚。戦中戦後を思い出させる色紙はその後仕舞い込まれたままになっていたが、戦後30年も経て、その一部をたましん本店のロビーに展示したところ、貴重な戦争記録だという声が高まり、『戦時下の絵日誌』が出版される運びになった。
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佐藤さんから頂いた賀状や礼状を目にすると、初対面の頃から先年他界されるまでの思い出が噴出してくる。20数点の葉書にも歴史あり、佐藤さんの手描きの温かさが私を包んでくれる。佐藤さん有難う!思い出の数々を有難うございました!
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by love-letter-to | 2007-12-29 23:46 | レクイェム | Comments(6)

笑芸のふくろうさん

       ◇ 心当たりのない名前 ◇
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昨2006年の6月、思いがけないハガキを受け取った。差出人の名前は加賀肇。書面には「しばらくです。以前、俳句会でよくお会いした加賀です。このたびは『俳句・川柳』の出版おめでとうございます。ぜひ読ませて頂きたく…」と書かれている。

はてさて?しばらく考えたが加賀さんに心当たりはない。私が俳句会に入っていたこともない。第一、俳句らしきものに近づいたのはほんの数年前。インターネットを通して連句形式で投稿する掲示板を通してで、楽しんではいるが未だ俳句と呼べる段階ではない。

俳句・川柳』は亡母が折り込みチラシの裏などに書き散らしていた俳句と川柳らしきものを、三回忌に向けてまとめた遺稿集である。100部印刷するつもりが、150部印刷するのも費用はあまり変わらないからと、出版社の勧めで150部印刷することにした。

本というのは手にとってくれる人があっての物で、そうでなければ可燃ゴミに過ぎない。亡母の稚拙な俳句・川柳の遺稿集でも興味を持って下さる人がいれば…と、地域紙の片隅で希望者を呼びかけてもらった。

       ◇ 母の遺稿集から花島ふくろうさんと“再会” ◇
その応募ハガキの一通が加賀さんからであった。心当たりないまま、遺稿集をお送りしたところ、折り返し重い書籍小包が送られてきた。上下2巻のタイトル『ふくろうの人生双六』を見て、アッと声を上げた。

そうだ、花島ふくろうさんだ!加賀さんは、笑芸のふくろうさんだったのか!懐かしい!しかし、思いがけない“再会”であった。かれこれ20年近くなるだろうか。
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花島ふくろうこと加賀肇さんは、腹話術や南京玉すだれ、割り箸2本で演じる数え歌、泥鰌すくいなどで笑いを取る名人だった。寄席芸の中でも“色もの”と呼ばれ、落語や漫才、講談、浪曲などの前座や合間に演じられる演芸の伝承者で、高齢者や身障者施設などでのボランティア活動でも有名だったから、ご存知の方も多いことだろう。

私が初めてお会いしたのは平成に入って間もない頃だった。その数年前に交通事故で瀕死の重傷を負って、活動をセーブしているとのことだったが、襟に「南京玉すだれ」と染め抜いた紺染め半纏を羽織ると、顔つきまで芸人になったふくろうさんに驚いた。

       ◇ 人を笑わせ和ませる笑芸 ◇
「さぁて、さてぇ」と取り出したのは、細竹でできた南京玉すだれ。「世にも不思議なこのすだれ、チョイと伸ばせば阿弥陀如来か釈迦牟尼か…」と口上に合わせて頭上に放り上げると、するすると伸びて弧を描いて、ふくろうさんの姿が“如来さま”に!
「ちょいと返せば日本三景の松島の…」と口囃子で調子を取りながら玉すだれを操り、次々と情景を展開させていく。その絶妙の手さばきと口上の名調子に引き込まれてしまった。

いやはや、長年磨いてきた芸というものは凄い!見ている人をたちまち虜にしてしまう。その当時のふくろうさんは68歳で、“笑芸”と称した演芸の道40年のベテランだった。しかし、笑芸だけでは食べていけず、「食わんがために、車の運転手をはじめ20以上もの職種を経験してきた」とのことだった。

そもそもは14歳の時、丁稚奉公先の主人や兄弟子たちが浪曲のファンで、浪花節の調子を耳から覚え興味をもった。嬉しいにつけ、悲しいにつけ自然に口から浪花節が出てくる。「自分の血や肉みたいに離れんのです」とふくろうさんは話していた。

その後、召集され中国は北支で九死に一生を得た経験も舐めたが、明日は死んで行くかもしれない人たちの前で浪曲を唸らされた。「唸る方も、聞く方も涙をこらえるのに必死でした」。そんな辛酸から戦後、食うや食わずでも芸を身につけることは捨てなかった。
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ひよんなことから音信が再開し、頂戴した『ふくろうの人生双六』を読んで、またびっくり!ふくろうさんは文芸も志して、本格的に小説を書き同人誌まで出していたのだった。
ふくろうさんの自分史『ふくろう人生双六』も、一編一編がリズムのいい名エッセーで綴られている。

 ◇ 笑いの道は果てしなく ◇
同書に添えられていたお手紙によると、80代半ばを迎えたがまだ笑芸のボランティアはボチボチ続けておられるとのこと。お達者でいるのが何より嬉しかった。

認知症の進んだお年寄りでも、フクちゃん人形を手にして腹話術で話しかけると、「アッフクちゃんだ!」と、喜んでくれる。その笑顔が見たくて笑いの道をどこまでも歩き続けているそうだ。“老老ボランティア”の道よ果てしなく!お元気で!
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by love-letter-to | 2007-12-22 20:05 | 人間万歳! | Comments(9)

皿の上の花梨

       ◇ 花梨の絵との出会いまで ◇
画廊に入るなり目に飛び込んできたのが、下の花梨(かりん)の絵だった。2000年の3月21~30日、国分寺駅南口の次男画廊で開催された池田光(こう)さんの個展『身近なものたち』の会場でのことだった。
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それまで池田さんとはお会いしたことはなかったが、亡母から池田さんのことはしばしば耳にしていた。母の知り合いというよりも通院先の患者仲間で、待ち時間に顔見知りになったそうだ。

母も池田さんも腰痛を抱えており、年頃も近かったので自然に口をきくようになったらしい。ある日、「池田光さんは、あなたからハガキを貰ったことがあるそうで、感激してまだ取ってあると話していたよ」と、母から聞かされた。

       ◇ 心当たりのなかった池田さん ◇
池田さんって、どの池田さんかなあ。取材でお会いした記憶はない。コーラスグループや絵画サークルなども数多く取材しているから、そのグループのメンバーだったかもしれないが、そうなるとお手上げである。とても一人一人のお名前や顔は覚えていられない。

一時期、読者投稿欄を担当していたので、投稿者に問い合わせのハガキや投稿の礼状を差し上げたことも多い。しかし、書いたら最後、忘れ去ってしまっている。
その後、池田さんは油絵を長年描いており、作品展にも毎年出品していると母から聞かされても、ふんふんと鼻先で返事をして、その場を取り繕って済ませてきた。

足腰の衰えが進んだ上に、段差の多い我が家の住宅事情も重なって、母は通院介護に便利な習志野市内のマンションに転居した。私の弟夫婦と同じマンションの別室で、「冬でも晴れた日の日中は暖房がなくても過ごせるわ」と、半ば独立して老後の日々を穏やかに送っていた。

それでも住み慣れた小平を懐かしみ、月に2回、訪ねるたびに母は「池田さんはどうしているかしらねぇ」と、繰り返すのだった。

       ◇ 魅了された花梨の絵の作者と ◇
母が転居して3年あまり、2000年の春先に池田さんから個展の案内状が母宛に私の元に届いた。その案内状を手にして次男画廊を訪ねた私は、入口付近に展示されていた『皿の上の花梨』に釘付けになってしまった。

F4号の小品だが、シンプルで力強いこの作品に惚れてしまった。皿の上に花梨が1個。大胆なタッチで花梨に魂を注ぎ込んでいるように思えた。

花梨の実は無骨で硬くて、そのままでは酸味と渋みがきつくて食べられないが、部屋に転がしておくと、日を追うにつれて香りが甘くなってくる。
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池田さんとも初対面のような気がしなくて、近況や母から聞かされたことを話題に小半時を過ごした。再び、花梨の絵の前に立ち、じっと見詰めていると池田さんは「私もその作品が一番好き!」「そんな好きな作品を手放してもよろしいんですか?」

「あなた、私はもう先が見えているのよ。絵の嫁入り先があれば喜んで!これから先は身軽になって80の坂道を下らなければ足腰が立たなくなってしまうわ」ということで、譲って頂くことになった。

池田さんは油絵を始めてかれこれ半世紀になるとのこと。「素晴しい師、よき仲間に恵まれて楽しんで描いてきた主婦の趣味というより道楽ですから」と、あまり画歴のことは口にされなかったが、「一水会」に所属し、女流画家協会展にも30数回出品されていた。
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展示されていた100号の太作『夕陽に座す』から4号まで40点あまりは、いずれも花瓶にさした花や食卓のフルーツなど身近な素材に絵心がフツフツ。絵のことは分らない私にも池田さんのシャープな感覚と、情熱がアンサンブルなって広がり、立ち去り難かった。

「お母さまによろしく!」「母も見たかったと申しておりました。譲って頂く絵は母にも見せます」と、約束をして分れた。

       ◇ 『皿の上の花梨』を毎日眺めて ◇
後日、池田さん自身がショッピングカートを引っ張って、届けに来て下さって以来、『皿の上の花梨』は私の仕事部屋に掛けてある。毎日眺めている。毎日眺めても飽きない。「杏一益、梨二益、カリン百益」とも言われるそうで、池田光さんの花梨の絵も私には沈静効果やリフレッシュ効果、癒し効果があり、ボーっと眺めていると眼精疲労からも解放してくれる。

以前、花梨の実を3~4個頂いた時、蜂蜜漬けやジャムにと輪切りにしようとしたら、硬くて硬くて…。包丁で決闘するような事態になって散々な目にあったことも懐かしい。そんなノスタルジーも花梨にはある。

皿の上の花梨』を見て「さんに再会したみたい」と涙していた母が逝って3年半あまりになるが、その後、池田光さんはどうしておられるだろうか・・・。
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by love-letter-to | 2007-12-15 22:15 | 尋ね人 | Comments(12)

水引草の取り持つ縁

             ◇ 水引の花 ◇
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前回の柏樹みささんを紹介してくれた児島一枝さんにも忘れがたい思い出が多い。読者投稿欄の常連だった児島さんから、ある時、「水引の花」と題して次のような一文が寄せられた。
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「近所から頂いた水引草が今年もずいぶん咲く。遅咲きのホウセンカが満開している間にも“私も咲いてます”といいたげな風情。幼い頃、花の姿が祝い事の熨斗袋にかける紅白の水引に似ているので、ミズヒキと教わったのを思い出す。種類が他にもあり、白一色のは銀水引。紅白の花をつけるのは御所水引と呼ぶこともあると本に書いてあった。花の名を知り、所以を知ると親しみが増す。我が家のは赤一色。5~6本まとめてしごいて手に広げると、四方に甘くやるせない香りが広がった」
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        ◇ 水引草へのラブレター殺到 ◇
この児島さんの投稿を読んだ読者から、児島さん宅へ採取したばかりの銀水引の種が届けられたそうだ。児島家には多すぎるので銀水引と児島家の赤のミズヒキをセットで10人ぐらいにプレゼントしたいとのこと。読者投稿欄で希望者を呼びかけたところ、ちょっとした水引ブームが起きて、水引草に思いを寄せるラブレターや投稿が私のデスクに山積みになってしまった。

居ながらにして投稿できるインターネットやメールのない時代のことで、ハガキや手紙に一筆書いて投函する手間をいとわず、寄せられた投稿には“心のつながり”を感じ、責任もひしひしと胸に迫った。
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         ◇ お祖母ちゃんカメラマン ◇
水引草の取り持つ縁で、昭和57年当時67歳だった児島さんが、13人の孫それぞれの誕生からの写真を撮り、アルバムにして成人式のプレゼントにしたいとハッスルしていることが分った。既に9年間も続けており、アルバムを積み上げると1メートルにも達していた。

児島さんは南満州鉄道株式会社(略して満鉄)鉄路総局に勤務していたご主人と結婚後間もなく中国に渡り、チチハル、奉天(現在の瀋陽)、大連、北京、徐州と転居しながら3男2女の母親になった。慣れない大陸での生活に5人の子育てに追われて、子供たちの成長記録や記念写真を撮ってやれなかったことが心残りで、初孫が誕生した日から“お祖母ちゃんカメラマン”に。

お宮参りや誕生日、七五三などは欠かさず、入園・卒園、入学式。運動会などのイベントにも駆けつけ、愛用のコニカC35AFなど3台のカメラで撮りまくった。もちろんデジカメなどが誕生する昔むかしのことだから、フィルム代とDPEの費用を加算すると…。
「主人がずいぶんお金を使ったな、と呆れるけど、男の付き合いの飲み代に比べれば安いもんです」と、あっけらかん。
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         ◇ 言葉の花籠 ◇
“書くことは自分を愛しく思うこと”称して、新聞やミニコミ紙、地元八王子市の老人クラブ連合会の会報などへもマメに投稿していた。これは!と思う記事は切り抜いてファイルしておく新聞雑誌の“切抜き魔”でもあった。

特に心を打った言葉、知識を広げ耳寄りな情報を知らせてくれる記事やコラムを、児島さんは3度の食事と同じくらい大切な物と語っていた。だからだろう、頭が柔軟で若々しかった。

そして、それらの投稿や切抜きをまとめて、5年くらい先に迎える金婚式には本にしたいと語っていた。

自分史をまとめたいという人は多いが、実現するまでには山あり谷ありで、なかなか難しい。ところが、児島さんは見事に実現してしまった。『言葉の花籠』と題して、金婚式を迎えてまもなく昭和63年11月に刊行された。“普段着のまま飾らないで書く”ことをモットーに、暮らしを綴ることを提唱していた『ふだん記全国グループ』から出版された。お祖母ちゃんカメラマンの写真も巻頭のグラビアで満開!
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      ◇ 人の一生は400字詰め原稿用紙に一字一字 ◇
あとがきで児島さんは、次のように書いている。「人間の一生は400字詰めの原稿用紙を1字1字埋めてゆくのと同じともいう。空白があったり、迷路に迷い込んだり、時には輝かしい光が見えたりする。ある日、ふと投じた拙文が採用になり活字に。それがきっかけで私の本が誕生した」と。

このブログ『忘れ得ぬ人々』も積み重ねて行くと、あるいは児島さんの『言葉の花籠』のように、これまで出会った方々との思い出や触れあいが縦糸や横糸になって織り上がるかもしれない。

水引草で取り結ばれた児島さんとの不思議なご縁に改めて感謝している。
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by love-letter-to | 2007-12-08 21:24 | レクイェム | Comments(6)

お婆ちゃまモデル

      ◇ 惚れ惚れした着物姿 ◇
f0137096_20471443.jpg残念ながら手元には右のような小さなボケた写真しか残ってないが、私の網膜にはTVコマーシャルと全紙大のポスターで、にっこり微笑んでいる柏樹みささんの笑顔が焼きついている。

白髪をすっきりまとめて、さらりと着こなした着物姿は年輪を重ねた女性ならではの気品があった。「こんな美しい年のとり方をしたいものだ」と、惚れ惚れしたものだった。

昭和50年代から60年代半ばにかけて『山本海苔』『富士フィルム』『真綿布団』などのテレビCM、『敬老の日』のイメージポスターなどに登場していたから、記憶されている方もいるのではないだろうか…。

初めて柏樹さんの姿を目にしたのは、タウン紙の読者投稿欄へ送られてきた児島一江さんからのスナップ写真だった。八王子市いちょう祭り会場で児島さんと並んでいた羽織にもんぺ姿の粋なお婆ちゃんが柏樹さんだった。

      ◇ 超モダンな羽織ともんぺ姿 ◇
羽織の片袖が肩にかけたスカーフと共布で、実にモダンで新鮮だった!その時はモデルさんをしているとは露知らず、児島さんから紹介してもらって八王子市千人町の裏通りに住んでおられた柏樹さんを訪ねた。
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「まあまあ、私のようなお婆ちゃんに会いに来て下さって…」と、こちらが恐縮するように深々と頭を下げて迎えて下さった。きめ細かな肌は艶やかで頬がほんのりピンク色。写真で拝見したよりも一段と美しかったが、「生まれ持ったものを大切にしたいと思っているだけなんです」。柏樹さんは当時79歳で、紅やおしろい類は一切つけてないとのことだった。

目を丸くしてその美しさの秘訣を伺った。柏樹さんの肌のお手入れ方は朝晩、洗顔をした後、日本酒に輪切りにした柚子を漬け込んだ手作りの“化粧水”を顔と手にパタパタはたき込むだけ。「酒飲みの男性は色艶がいいのは、きっとお酒の成分が肌にいいのでは…」と、試してみたのがきっかけで十数年前から使い続けているとのこと。土台が元々いい上に所作や心の持ち方も柏樹さんを美しく輝かせていた。

16歳で富山の旧家の長男に嫁ぎ、舅姑、小姑たちに“おしん”のような苦労をさせられ、夜逃げ同然で千人町に移り住むまでの柏樹さんは、小説以上に波乱の半生だった。また、53歳で死別するまで昔気質の夫は、近所の人と立ち話をしても声を荒げる人だった。

「でも、くしゃくしゃした気持ちでいると、周囲の人まで不愉快にしてしまうでしょ。つとめていい顔をしていようと思って」と語る柏樹さんの和やかな表情には、そんな苦労の跡が微塵も感じられなかった。

      ◇ 夫に先立たれて“外さん”に ◇
53歳で表具職人だった夫を看取った後、柏樹さんは次女一家と同居したが、つとめて外へ出掛けることにした。「それまで40年近く、家から殆ど出たことがなかったので、外の空気を吸いたかった」と、奥さんから“外さん”に。入場料のかからないテレビやラジオの視聴者参加番組にもよく足を運んだ。顔見知りに誘われてドラマのエキストラにも応募してみた。

通行人の役などで出ているうちに、あるプロダクションから「モデルに登録しないか」と声をかけられた。小柄で上品な柏樹さんはお婆ちゃん役として、女優さんの後ろ姿の代役としてモデルの口も増えてきた。「自分でも役に立つのが嬉しい。どんな役でもやることが楽しい」と、柏樹さんは自分の居場所を見つけた。下手でも一生懸命さは伝わると思った。

柏樹さんのような素人モデルは、プロダクションから電話がかかるのを待つのが“仕事”。「今か今かと電話を待つのも楽しい」と、当時柏樹さんは79歳だったが、何時でも出掛かられるように身支度をして電話を待っていた。○○日、○○時、○○へと指示された時刻に現場へ。都内のスタジオから神奈川、埼玉などのロケ現場へも一人で駆けつけた。

      ◇ 働いて食べるお弁当は格別の味 ◇
往復の交通費とわずかなギャラと弁当しか出ないが、スタッフや出演者らと一緒に食べる弁当が美味しい。別にご馳走が入っている訳ではないが「自分で働いて頂くお弁当は格別の味がします」と、ささやかなことに喜びを見出していた。

    そんな柏樹さんの美しく老いるコツの幾つかを
◇ 言葉は音楽:「刀傷は治っても言葉で傷つけられた心は癒えない」といわれるが、
  柏樹さんは「言葉は音楽みたいに人を楽しませたり、慰めたり、喜ばせるためのも
  のでありたい」と。
◇ 胃袋はごみ溜めではない:普段から体調を整えておくために食べ過ぎに注意を。
◇ 親子でも慎みを:娘の家族と仲良く暮らしていくには若い人に口出しをしない。親が
  慎みを。求められれば教えたり応援してサラリと生きる。
◇ 安物を上手く着るのがお洒落:ブランドや高級さを競うのでは、お洒落をする楽しみ
  がない。古い物でも工夫して新しい使い方を。
◇ 心をときめかす:ささやかなことでも心をときめかすことを心がける。そうすればイヤ
  ことがちっぽけに思えてくる。
◇ 夕映えのように:太陽は西の空を美しく染めて沈んで行く。自分の晩年も夕陽のよ
  うに周りに明るさを振りまいて去りたいと、毎夕、夕陽に向かって手を合わせて願う。

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by love-letter-to | 2007-12-01 21:09 | レクイェム | Comments(10)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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