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       ◇ 戸惑う立川駅前の変貌 ◇
10年ひと昔といわれるが、立川駅北口を訪ねるたびに“浦島花子さん”の心境になってしまう。改札口から放射状に伸びたペデストリアンデッキ(歩道橋)を伝って伊勢丹や高島屋、立川シネマシティなどへ直行できるのは便利だが・・・赤坂や六本木と変わらないじゃん!
ここ10年足らずで無機質のスケープになってしまった。
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勤め先のオフィスが立川駅ビル内に移転してからも20年近く通い続けた立川駅。立川駅ビルは昭和57年(1982)オープン当初はWILLと呼ばれ、その9階の西端に私の勤め先のオフィスと併設のギャラリーがあった。

全面ガラス張りのオフィスの窓からは立川駅北口ロータリーが見下ろせ、バスの離発着や通行客が機械仕掛けの小さなおもちゃのように見えた。原稿に行き詰ると、小人国のガリバー気分でロータリーの右往左往に気分転換をはかったものだった。

       ◇ 待ち合わせに利用した『立川ビル画廊』 ◇
在職時代には目の前が立川高島屋でその先はたしか野村證券立川支店で、同証券のロビーと隣り合って『立川ビル画廊』があった。画廊といってもそのビルのエントランスホールの壁面を利用した“通路ギャラリー”であった。
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しかし、バス停で次のバスを待ったり、銀行やデパートの行き帰りに気軽に立ち寄れるだけでなく、待ち合わせ場所としても絶好の『立川ビル画廊』だった。冷暖房完備で無料で時間つぶしができ、座り心地のいい長椅子も置かれていた。

この『立川ビル画廊』がオープンしたのは昭和41年6月。東京オリンピックの翌々年のことで、多摩地区にはまだ画廊らしい画廊が殆どない時代であった。基地の町立川のイメージも拭いきれてなかった。

そんな立川駅前で、ビルのエントランスホールを画廊に利用するという先駆的な発想をしたのは、ビルのオーナー会社社長の故岩崎茂雄さんであった。肩書きに似合わず、詩人でクリムトの絵を愛した“精神貴族”であった。

       ◇ 休む場所のある街に ◇
立川の街づくりに対して岩崎さんは次のように語り、具体的なヴィジョンを描いていた。
「立川の街で一番欠けているのは腰掛ける場所だと言われています。ショッピングに立川に来ても、ゆっくり休む場所がないという不満が調査結果にも表れています。休む場所のある街とは緑陰のある街角、人間的な触れ合いのある街だと思います」。
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岩崎さんが訪ねた欧米各国で心に残っているのは、テラスで珈琲を飲みながら町行く人を眺めたり、木陰のベンチでひと時を過ごせた街であったという。

岩崎さんが素晴しいのは口で言うだけでなく、自社ビルでそのヴィジョンを実践したことだろう。その手始めが『立川ビル画廊』で、多摩地区在住の作家や美術団体、絵画・彫刻・工芸サークルの作品展が次々に開かれ、発表の機会を得た。これらの作品展を通してどれだけ多くの人と人の出会いや触れ合いの場を演出してきたことだろう。

       ◇ 画廊開設10周年記念誌として ◇
立川ビル画廊』がオープンして10年。その記念誌として小冊子『街角から』が発刊された。大沢昌助画伯のコンテンポラリーな女性像を表紙にした斬新な随想集で、寄稿者の絵やイラストもふんだんに使われている新書版サイズの小冊子である。

岩崎さんの話では当初は画廊十年誌としてまとめるつもりだったが、次第に構想がふくらんで、画廊を包み込んだ街の理想像をこの小冊子に託して『街角から』のタイトルにしたそうだ。寄稿者たちの街に寄せる思いが行間にあふれている。
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       ◇ 岩崎コレクションに囲まれて至福の時間を ◇
「もし、時間があったら、おしゃべりに来ませんか」。この小冊子がきっかけで岩崎さんから時々声がかかり、岩崎さんの社長室を訪ねた私は、壁面の絵画コレクションに上気しながら夢のような時間を過ごした。岩崎さんはもっぱら聞き役で、私のとりとめのない話に耳を傾けてくれた。

その後1983年には『立川ビル画廊』の北側に、洒落たティーサロン『アルビヨン』とケーキショップ『エミリーフローゲ』、アートサロン『四季』も開設された。それらのオーナーも岩崎さんで、手狭な路地裏の一角にホッとするような小さな緑陰が設けられていた。
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西脇順三郎やボードレールの詩を暗誦していた“永遠の二枚目”だった岩崎さんは、1993年、国立駅前に『コートギャラリー』も開設した。コート(中庭)をはさんで南北に2室の展示スペースがあるモダンでゆとりのあるギャラリーだったが、何故国立に?

立川駅北口の再開発で『立川ビル画廊』も『アルビヨン』などのエリアも消えてしまうことになっているからとのことだった。ビルのオーナー社長といえども大型再開発のプロジェクトには抗し切れない挫折感を持っているのだと、その時知った。

そう言えば、「小企業といえどもトップは孤独なもんです。社員とは個人的に話すことも難しい。決断は下さなければならない」と、口にされたことがあった。私レベルではない憂愁が岩崎さんの顔の彫りを深くしていたのかもしれない。

小冊子『街角から』は3年おきぐらいに6巻まで岩崎さんのポケットマネーで刊行されたが、2003年5月、岩崎さんは急ぎ足で他界されてしまった。81歳とのことだったが青年の心のまま逝かれたように思う。昨今の行財政界リーダーたちの品性を欠く報道を見聞きするたびに、岩崎さんの澄んだ瞳が懐かしくなる。
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この歌は明治39年牧水22歳の学生のとき、奥多摩へ行く途中に立川に立ち寄ったときに詠んだとのこと。歌碑は立川市制10年を記念し昭和25年に建てられたもので、碑面の文字は喜志子夫人による。
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by love-letter-to | 2008-01-27 21:47 | レクイェム | Comments(8)
       ◇ 利休鼠色の長暖簾 ◇
ぼろ隠しとしてマイルームに下げてある長暖簾は藍染研究家・若林都茂子さんの作品である。半間幅で丈は150センチあまり。床上がり30センチぐらいの暖簾だ。

絞りで菖蒲をあしらい藍色というよりは利休鼠に近い地色に染め上げてあり、渋い配色が気に入っている。
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30年以上にわたる若林さんの藍染め人生の最後の個展で、この長暖簾を買い求めて5年ほどになる。今年1月2日に86歳の誕生日を迎えた若林都茂子さんとも、そろそろ30年近いお付き合いだ。

       ◇ 藍染め講習会での出会い ◇
1980年頃だったか、小平団地の集会場で藍染め講習会が開かれると聞いて、訪ねたのが若林さんとの初対面だった。当時、本藍を使った藍染め講習会は珍しく参加者も多かったが、若林さんの意気込みもなかなかだった。
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「藍は建てるというくらい手間隙がかかるの。藍の生葉を細かく切って乾燥させ、適当な水分を補いながら攪拌・発酵させてスクモに仕上げるまでに3ヵ月以上もかかるのよ。本藍で染める教室なんか何処にもないから…」。

機関銃のようにポンポン飛び出す言葉は荒っぽいが、気性はスパッとしておおらかだ。受講者一人一人に目が行き届き、肝っ玉母さんだ!というのが第一印象で、今でも変わらない。


       ◇ 雨ニモ夏の暑さにも冬の寒さにもマケズ繊維博物館へ ◇
その後3年ほどして、「東京農工大工学部繊維博物館の特別研修生として、藍染サークルの指導もすることになり、藍甕の置き場所も確保できたの。それが一番嬉しい!」と、若林さんから弾んだ声で電話がかかってきた。

直径も深さも70~80センチ以上もある大きな藍甕の保管場所に頭を悩ませていたから、朗報には違いないが、還暦を迎えた若林さんが東小金井駅近くの繊維博物館まで毎日、小平団地から自転車で往復するのは大変だろうなあ…と、私は内心危ぶんでいた。

ところが、若林さんは宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ・・・」さながら、藍染めの研究指導と藍甕の“お守り”に日参した。
「毎日通っているんですか?」「そうよ、夫と母と私のお弁当を作って毎朝8時には家を出るの…」と涼しい顔をして、“藍に会いに”往復した若林さんのパワーには、圧倒されっぱなしだった。
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       ◇ 藍は愛の色 可愛い生き物 ◇
藍甕は一日に何度も攪拌し、温度管理も難しい全く手の焼ける生き物である。「藍は愛の色」というのが若林さんの口癖で、本当に藍に惚れ込んでいた肝っ玉母さんだ。

猛暑や厳冬にもゴム長履いて、大きなエプロン姿で爪も手も真っ青にして「洗ったって落ちやしないの。ブルーのマニュキアしてるつもりよ」と笑っていた。藍は可愛い生き物だそうだ。

たまたまデパートで藍染の実演を目にして、震えるほど感動したのがきっかけだそうで、その年月日も昭和54年10月19日とハッキリ記憶している若林さんである。

図書館に日参して染色の本をしらみつぶしに調べたが、当時、藍に関する文献は見当たらなくて、その2年前、繊維博物館から研修に行った八王子の藍染工房に通って手ほどきを受けた。藍染のような伝統工芸は教わったからできるという生易しいものではない。
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主婦業のかたわら失敗を繰り返しながら身体で覚えたが、藍を何度腐らせてしまったことか。その研究心が実って日本染色教育一級講師にも合格した若林さんは、地元をはじめ各地で個展を20回以上も開催してきた。藍染に手を染めたお陰で人間国宝級の染織家からも教えを受けることができたという。

       ◇ 傘寿を迎えて 藍とのお別れ会 ◇
そんな若林さんが傘寿を迎えた2003年の3月、「これで本当に藍染とはお別れすることにして、最後の展示会を開きます」と案内状が届いた。その10年前、農工大繊維博物館の講師を去る時にも「藍染めから身を引く」と、お別れ会まで開いていたので信じ難かったが、今回は同居している実母の早苗さんも百歳を超して、老々介護に向き合わねばならないとのこと。f0137096_23471215.jpg
小平市のシルバー人材センターでも10年あまり藍染め教室開いてきたが、それも教え子にバトンタッチしたそうだ。
母親の介護について愚痴らしきことを一度も耳にしたことがなかっただけに、返す言葉がなかった。「また新しい出発ね!」と、傘寿の餞に譲って頂いた長暖簾は肝っ玉母さんのパワーがみなぎっているようで、私を背後から見守ってくれている。

その後、実母の早苗さんは特養ホームに入所でき今年の二月、108歳の茶寿を迎えるそうで、「施設の皆さんに感謝の日々よ」と若林さん。その感謝を込めてボランティアで団地集会所で月に2回ほど染色教室を開き「八十路越え 染めの山路は 未だ遙か」の日々だそうです。
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by love-letter-to | 2008-01-19 23:54 | 人間万歳! | Comments(7)

無言館からの新春便り

       ◇ 厳冬の無言館に新たな建設の槌音 ◇
信州上田の郊外に建つ戦没画学生慰霊美術館『無言館』からも嬉しい新春便りが届いた。館主の窪島誠一郎さんから直筆で「感謝!!」の一言を添えた賀状と、同館の第二展示館と併設の『オリーブの読書館』建設工事の状況報告が寄せられた。2期工事は順調に進んでおり今秋には完成するそうだ。『オリーブ読書館』には戦争の歴史と平和の尊さを伝える図書と書簡など20,000点を収蔵し公開される。
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窪島誠一郎さんと言えば、20~30代の画業半ばで夭折した画家たちの作品を求めて流浪し、私財を投じて上田に『信濃デッサン館』を1979年6月に開設。その20年後には日中戦争・太平洋戦争で命を散らして逝った画学生たちの遺作を展示するために『無言館』を開設した。
2歳で生き別れた実父の作家・水上勉と30余年ぶりに劇的な再会を果たしたことでも知られる。そんな窪島さんとは懇意ではないが不思議な縁の細い糸で結ばれている。

       ◇ 夏の終わりの信濃デッサン館で ◇
信濃デッサン館』がオープンした年の夏の終わりに、初めて同館を訪ねたのだが…。土地に不案内な上に、付近の道筋にまだ看板もなくて迷いに迷って、もう諦めようとUターンした時、前山寺の参道入口に小さなコンクリートの建物が目に入った。
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夏の終わりの黄昏時で入館者の人影はなく、受付カウンターの向こうに座っていたのが窪島さんだった。「あら、お一人で受付もやっておられるのですか?」「アルバイトの学生も夏休みが終わって引き上げましたから」。

たったそれだけの会話だったが、帰りの道を尋ねたら窪島さんは受付から出てきて、指差しながら別所線塩田町駅までの近道を教えてくれた。その時、Gパンの膝が大きく裂けて膝小僧がむき出しになっていた。180センチを越す長身で、劇画『あしたのジョー』みたいな大きな瞳の窪島さんに、私は「ワ~カッコいい!」と心の中で叫んだ。展示されていた画よりも窪島さんの印象が強烈だった。しかし、塩田平を見下ろす丘陵地の冬は厳しく寂しいだろうと思わずにはいられなかった。
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その翌年も翌々年も夏の終わりに、小諸や軽井沢を旅したついでに『信濃デッサン館』を訪ねた。展示されている村山塊多関根正二松本駿介…夭折した画家たちの作品は暗くてやりきれなかったが、それらの作品に焦がれて追い求めた窪島さんの滝しぶきのような文章にベタ惚れしていた。
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同館を訪ねるたびに『信濃デッサン館日記』『信濃デッサン館日記2』『わが愛する夭折画家たち>』『詩人たちの絵』などの著作を求めた。夏と秋の観光シーズンの端境期だったせいか、窪島さんが目の前でサインをしてくれることもあった。それで少しずつ会話を交わすことが増えて顔見知りになったのかもしれない。

       ◇ クボシマくんとご近所付き合い ◇
その後、このブログの『モーニングコール』で紹介した谷口金治・政江さん夫妻と懇意になり、政江さんとは親友付き合いをするようになって、ある朝のこと。政江さんが「クボシマくんが金治さんの絵を見にきてくれることになったから…」と、モーニングコールが掛かってきた。

「エッツ!クボシマくんて、信濃デッサン館の窪島さんのことかしら?」「クボシマくんとは明大前で長年の近所付き合いだったから…」と、大男の信濃デッサン館館主を“くん”づけで呼んでいた。谷口さん夫妻が結婚と同時に開いた室内装飾店の向かいが窪島さんの営んでいたスナック『塔』で、最初の仕事がそのスナックの椅子の張替えだったとか。

「お互いに貧乏しながら近所付き合いをしてきたのよ。そうそうクボシマくんから新しい美術館を建設する募金に協力してくれと頼まれたから、あなたも応援してよ!」。

その新しい美術館というのが、戦没画学生慰霊美術館『無言館』であった。谷口夫妻も私も同館のレンガ3個分30,000円を寄付して、1999年5月のオープニングには一緒に参加する約束をしていたが、政江さんの乳癌の進行は早く残酷だった。彼女はセレモニーと前後して帰らぬ人になってしまった。
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       ◇ 谷口政江さんの三回忌展で ◇
政江さんの三回忌追悼と併せて開かれた谷口金治さんの『メキシコ画遊展』には窪島さんも上田から駆けつけて、「谷口さんの絵と人のこと」について講演し、金治さんも自分も男のわがまま、身勝手を許してくれた妻には頭が上がらないと受戒していた。絵を見る目と同様に己を見る厳しい目も持っている窪島さんのますますファンになった私です。ちょっとワルぶって自虐すぎるのが気に入らないけど…。
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       ◇ 無言館に第二展示館とオリーブ読書館が ◇
昨年から募集している『無言館』第二展示館と『オリーブの読書館』建設資金にも、わずか二口20,000円しか募金しなかったのに「あたたかい応援に感謝しております!」と窪島さんから律儀な礼状が寄せられている。
『傷ついた画布のドーム』第二展示館の開設によって、収蔵作品約600点がすべて展示できることになり、『オリーブ読書館』の中庭には戦地パレスチナから届けられたオリーブの苗100本が植えられ、沖縄・摩文仁の丘から採掘された石が使われるそうだ。

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by love-letter-to | 2008-01-12 17:27 | 人間万歳! | Comments(9)

心の杖と夢

       ◇ 心弾む年賀状 ◇
高橋二六さんから頂く賀状も毎年心待ちにしている。宛名も二六流の筆文字で書かれており、賀詞も毎年ありきたりではなくてすこぶる楽しい。
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二六さんに初めてお会いしたのは昨年で16回目を迎えた『世界障害者絵画展』のスタートの年だった。平成3年より毎年、小平市天神町の三菱電機ビルテクノサービス人材開発センターの体育館で開催されている。

先天的あるいは病気や事故災害などで手に重い障害を負いながらも、足や口で筆を使いながら絵を描くことに生き甲斐を見出し、芸術作品を生み出している国内外の画家たちの作品展だ。絵を見る限りでは、手が不自由な人が描いたとは全く感じさせない作品ばかりで、それぞれの労作に心酔してしまう。

前向きに生きることの素晴しさを、ひたむきな命の輝きを、秘めたる力の大きさに感動せずにはいられない。アフリカや東欧諸国の画家もいて世界とのつながりも深く感じられる。
世界でも例の少ない素晴しい絵画展ではないだろうか。

       ◇ 小平市の一隅で世界障害者絵画展開催 ◇
エレベーターやエスカレーター、空調、セキュリティなどビル設備の運営管理を業務とする企業の人材開発センターで、何故、世界の身体障害者の作品が展示されるようになったのか…。小平市の一隅で・・・。
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この企画を発案した高橋二六さんの話では、全国から研修や新しい技術の習得に訪れる社員のために新装した宿泊棟が殺風景で、壁に飾る絵を探し歩いていた時、『世界身体障害者協会』の作品に出会ったそうです。

「その出会いから作品を譲って頂くことになったのですが、自分たちだけが見るのは勿体無い力作ばかりで、地域の人たちにも楽しんで貰いたい」と、人材開発センターの社員の手作りで公開が始まった。回を追うごとに手弁当で有給休暇を使って会場係に駆けつける社員が増え、全社的に広がったと感激している高橋さんだ。

現在では同社の支社のある都市をはじめ全国160都市を巡回して、約42万人が観覧しているそうだ。そのきっかけを作り、定年退職される直前の10回展まで責任者を務めた高橋二六さんだが「絵との出会い、人との出会いが花咲き実を結んだようです」とテレるばかりだ。

       ◇ 二六流書道の作品展 ◇
退職後しばらくして顔を合わせたとき「字を褒めてくれる人がいて、我流ですが書道を始めました」と聞いて、高橋さんから頂いた礼状や賀状の“絵のように味のある筆文字”に感激してきた私は、やっぱり目の効く人がいるんだナと嬉しかった。

2001年の賀状には「仲間の誘いを受けて1月松明けから三人展を開催することになりました。絵画と写真に私の書を12~13点ずつ展示します」と、遠慮がちに書かれていた。

たしか3日目だったと思うが、京橋の『並樹画廊』で開催されている『第一回 三人展』に出向いて、高橋さんにとっては初めての作品展を拝見した。「一期一会」「心」「夢」などの文字が温かくて墨の色の奥深さに見とれてしまった。
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高橋さんは小学5~6年生の頃に書道会に入って字を書くのが楽しかったものの、それ以来筆を握ったことはなかったそうだが、私は“好き”に勝るものはないと思っている。“惚れる”のが最高の“道連れ”だ。そして幸せだ。

退職後、惚れ込んだ書とテニスを道連れにしている高橋さんは、何時お会いしても幸せそうで、私まで幸せにしてくれる。

       ◇ 夢と心の杖となった言葉を初個展で ◇
2006年のゴールデンウィーク明けには「初めての個展をやることになりました」と、案内状を頂き、5月末に花小金井駅近くの『茶房・ギャラリー 萌木』で高橋さん念願の初個展が開催された。個展が一つの夢だった。

山小屋風の小さなギャラリーの壁には、独特の筆使いで書かれた「」の字と並んで「ありがとう」「すいません」「おかげさまで」「下駄は揃えて脱ぐんだよ」・・・と、高橋さんの母親が口癖にしていた言葉も色紙に書かれたり表装してあった。それらの飾らない言葉が語りかけてくるようだった。
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「片田舎で90歳の大往生をとげたオフクロの言葉で私は育てられ、道を外れず今日まで生きて来た心の杖のようなものですから・・・」と高橋さんは歯にかんでいた。六男三女の末っ子で紀元2600年(昭和15年)に生まれたから“二六”と名づけられたそうで、長兄とは親子ほども年の差があったせいか、母親にはことのほか目を掛けられて育ったとのこと。

母親に声かけられた言葉が“心の杖”だなんて、何て素晴しい表現なんでしょう。きっとお母さんも愛情に満ちた素晴しい母親だったでしょうが、童心を持ち続けている高橋二六さんも羨ましい。「を持ち続ければ、必ずかなう」と、を追いかけている。

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左は二六さんの字で書かれた花小金井南町の『茶房 萌木』の看板
右は晩唐の詩人・李商隠が長安を見下ろす高台に登って夕暮れを眺めながら詠んだ
詩の一節「夕陽無限好 只是近黄昏」からで、消え行く唐の時代と重ね合わせながら、
人生の晩節も夕陽のように輝いて生きたいと詠じている。
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by love-letter-to | 2008-01-05 21:31 | 人間万歳! | Comments(13)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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