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全国津々浦々の鈴の音

       ◇ 3500種もの土鈴コレクション ◇
先日、友人を誘って御岳山神社参道入口まで出掛けた。赤鳥居のすぐ脇の坂上にある『自然野草園』の入口に、江戸時代に建てられたという古い土蔵が残っており、その中に北は北海道から南は沖縄まで全国津々浦々の土鈴ばかり約3500種もが展示されている。『御岳土鈴館 鈴蔵』だ。
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三方の壁面に取り付けられた棚に童姿や達磨、梵鐘、太鼓、三重の塔や五重の塔、屋根瓦、茶釜、鬼面、いわゆる鈴の形をした大小、馬や牛、鵜や鳩…などがぎっしり。「エッツ!土鈴がこんなに沢山あるの?」と、初めて訪れた人は目を鈴のように丸くするに違いない。
f0137096_11403375.jpg「ほら、みんな土で出来て鈴の形になっているんですよ」と、藤沼万治子さんが手に取って振るとコロコロ、チロチロ…と澄んだ可愛い音色がこぼれた。それぞれ色も姿も違い音色も違う。「鈴の音にはそれぞれの土地の人々の心や願いが託され、色や形からは伝統や文化も伝わってきます。鄙の声だと思うんです」。童心を取り戻し癒される鈴の音だ。


       ◇ 御岳 土鈴館『鈴蔵』に17年目の春 ◇
これら膨大な土鈴は藤沼さんの個人コレクションで、『鈴蔵』で展示を始めて丸16年迎えた。かつてご主人の転勤で奥多摩町に2年間住んだことがあったが、練馬区の自宅から片道2時間あまりかけて『鈴蔵』に通っている。冬期(12月6日~1月19日)と休館日の月曜を除いて、土鈴や来館者と過ごす一日を大事にしている。
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自宅には90歳を越す老父母もいて、御岳に引っ越せないそうで、そんなハードな長距離通勤は長続きしないのではないかと、危ぶんでいたが17年目のお雛様シーズンを迎えた。
この土地で代々林業を営んできたオーナーの好意で、江戸時代に建てられた土蔵を借りて開館して以来、毎年2月半ばから3月3日まで土鈴雛の展示即売会も開いている。全国から鈴の形をした土雛を取り寄せて並べた土鈴館の別棟の座敷には一足先に春が!

毎年とはいかないが、私もこのシーズンに土鈴雛に会いに出掛ける。先日もまだ残雪が北側斜面に残る御岳渓谷沿いの遊歩道を歩いて『鈴蔵』へ。みんな手に乗る大きさで、その鈴の音に童心を取り戻すと同時に、藤沼さんに会いたくて…。

       ◇ それぞれの土地の伝統や文化が土鈴に ◇
藤沼さんは中学の修学旅行で京都に行った記念に八坂神社などの土鈴を買って帰った。安くて手軽で色も形も様々なのが面白くて、その後も旅行の先々で求めているうちに、家族や友人たちも土鈴をお土産に買って来てくれるようになったそうだ。
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名の知られた土鈴や珍しいものなどの情報も自然に集まって来るようになり、それらを求めに旅を重ねるようになった。たとえば福島の『まさる』には弓に猿の姿をした土鈴がついており、“去年より勝る”“人より勝る”との願いが込められているという。

       ◇ 鄙の心を伝える語り部 ◇
岐阜の美江寺の『蚕鈴』は蚕が丈夫に育つようにと蚕小屋に飾られ、作物も鈴なりになるようにという意味も。福岡の英彦山(ひこさん)神社のは『英彦さんのガラガラ』と呼ばれ、細竹に古い形をした鈴が下がっている。飢饉のときに雨乞いをして奉納した故事に因んでいるとか。

…というように、藤沼さんが土鈴について、その謂れや思い入れを語り始めるとエンドレス。一晩二晩聞いても語り尽くせないに違いない。何しろ3500種もコレクションしているのだから。
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藤沼さんは奥多摩町で2年間住んでいた頃、古くからの土地の人の話が面白くて、子どもが通う氷川小PTA仲間と伝説や民話を聞き書きを始めて、『奥多摩の民話の会』のメンバーとしても活躍。聞き語りは得意中の得意だから土鈴にまつわる話は面白くて楽しい。土鈴の語り部だ。

        ◇ ちょっといい話 ◇
健忘症の進んだ私でも毎回一つ二つは、記憶に残る“ちょっといい話”を仕入れてくる。今回は、土鈴は“よく鳴る”がベターの意味の“よく成る”に通じることから、とても縁起がいいと買い求める人が多いそうだ。頭がよくなる。記憶力がよくなる。スタイルがよくなる。体調・病気がよくなる。収入・景気がよくなる。その他、よくなって欲しいことっていっぱいありますよね。
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で、私も子年の干支の土鈴と若返りしそうな可愛い鈴を買ってきました。“長寿雛”という土鈴雛もあって、数年前にはそれを大腸癌を克服した友人夫妻にプレゼントしました。

雛は鄙。鄙の人々の心が託され宿しているから素朴で温かいそうだが、地方によっては土鈴を作るベテランが高齢化したり、後継者が絶えて3500種の中には、もう手に入らないものも増えているそうだ。藤沼さんのコレクションは全国でも有数で貴重な存在でしょう。
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雛まつり展示即売は3月3日まで10:30分~16:30分で月曜定休。青梅市御岳2-275 電話:0428-78-9797鈴蔵
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by love-letter-to | 2008-02-22 11:51 | 人間万歳! | Comments(18)
       ◇ 数奇な運命の掛け軸のその後 ◇
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数奇な運命をたどった花本聴秋の句「休戦三日 踊れ月下の 敵味方」の関係者探しも一段落した後日、その作者聴秋宗匠の孫・上田都史(本名:馮介)さんから「昼飯に付き合ってくれませんか」と、誘いを受けたことが時折りあった。

「こんな爺さん寡とのデートじゃ悪いかな」「とんでもない!俳句のお付き合いは無理ですが、食事なら喜んで…」と、八王子周辺の割烹やレストランでルンルンご相伴にあずかった。

今から思うと、昭和60年代当時の上田さんは生涯で最も執筆作業に脂が乗り、多忙な時期であったのだが、一区切りつけると気分転換に食事や午後のティータイムに話し相手が欲しかったらしい。2年ほど前に奥様に先立たれていた。
       ◇ 粋なお店でランチデート ◇
待ち合わせ場所で落ち合うと決まって「老いの独り暮らしは食事が単調になってね。腹は空いても旨くないんですよ」と、うなぎやてんぷら、お寿司、時にはフレンチをご馳走になった。

なかなかの食道楽と見えて、穴場的な店へご一緒することが多かった。知る人ぞ知る俳人として馴染みの店も上田さんの美学にかなった粋なお店だった。

駅前の雑踏の中でも長身痩躯のダンディな上田さんは目立ち、後ろから声を掛けられたことも何度か。「お知り合いが多いようですね」「いや、孤高の“廃人”ですよ。山頭火尾崎放哉ほどではないが、わが道をヒタヒタ来たので…息子一家も寄り付かない」と、チラリと身の上話をされることがあった。

       ◇ 酒は憂いを掃く箒 ◇
上田さんはお酒も相当にイケルようだったが、下戸の私相手ではビール1~2本かお銚子2~3本でご機嫌になっていた。「呑めないのはアルコールを教育してくれる人がいなかったからでしょ。中国では酒は憂いを掃く箒といって、酒屋の目印に箒が掲げられているんですよ」「箒が酒屋の看板になっているんですか?」「酒の異名を“掃憂箒”といったことに由来するそうです」。
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私にとっては博学で漢和辞典のような人としか言いようのない上田さんだったが、どこかに屈折した影を宿し、シャイで立ち居振る舞いは痺れるほど素敵だった。当時喜寿を超えられていたが若き日のハンサムぶりも健在で、いぶし銀のような色気を漂わせていた。
       ◇ 10代から俳句に親しんで ◇
祖父が京都俳諧の重きをなした俳人という家に生まれ育った上田さんは、10代から俳句に親しみ俳句の個人誌を編み29歳の時、処女句集『純粋』を刊行している。「だけど親爺はコチコチの海軍教官で、全く文学には無縁の人でした」「じゃあ隔世遺伝ですね」「まあ、そうとも言えるが、祖父のはいわゆる月並み俳句でした」と、バッサリ言ってのけたので、びっくりしてしまった。

あの“休戦三日踊れ月下の敵味方”の句の作者が月並みとは…!「あの句で私も祖父を見直しました。小説でも絵画でも作者の手を離れて生きるというか、読者や観る人々に運命が委ねられるのと同様に、俳句も一人歩きして数奇な運命をたどるものだと感動させられましたよ」と上田さん。

都史さん自身も五七五の定型句からスタートしたそうだが、花鳥風詠が本来の俳句ではない。人間を謳うことが俳句の原点で、形式に縛られず人間の機微を謳いたいと自由律句を詠むようになったとのこと。山頭火尾崎放哉の研究家で、二人の評価を世間に知らしめた一人である。

       ◇ 糠に錆び釘 ◇
「俳句というのはそんな敷居の高いものではないですよ。日々感じたことや目にした印象を自分の言葉で表現すればいい」と、それとなく俳句に誘われたのだが、当時の私には“糠に錆び釘”に終わった。

お会いした時は決まって、上田さんの新著を頂いたが、“積読”するだけだった当時が今になって恥ずかしい。悔やまれる。『放哉漂白の彼方=講談社』『俳人山頭火=潮文新書』、子規を起点とする近代俳句から現代俳句への道程を紐解いた超大作『近代俳人列伝』3部作他、こんなに沢山の著書を頂いていたのか…と。そしてこれらは私への“ラブレター”ではなかったのかとも思う。いわゆる恋文ではなく人生の先輩として先明かりを灯してくれたに違いない。

       ◇ 香港・廣州・桂林の旅から ◇
その内の一冊『香港 廣州 桂林からの手紙』は、金子兜太夫妻らと訪ねた香港・廣州・桂林の旅の随想であるが、単なる紀行文ではない。上田さんの人生が凝縮されている。豊穣な知識と研ぎ澄まされた触覚と嗅覚で捕らえた点景に熱い想いが!読み終えた夜は熱い“恋文”に興奮して眠れなかった。

その後、上田さんは後添えに恵まれたが、晩年の幸せは短かった。胃癌で入院して2ヵ月足らずで風のように消えられて13回忌が過ぎた。今、『心の俳句 趣味の俳句』を読み始めて、遅まきながら俳句に惹かれ始めた。
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上田さんの知己や慕う人たちで八王子・金南寺境内に建立された句碑には、「男地球に立ち夕映えに言うこと多く」と、男の気概が刻まれている。私は「豆腐屋うらへ廻った陽も廻った」と何気ない暮らしを詠んだ句が好きだ。
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            夕錦 見せたき男の 懐手(ふところで)  モグラ
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by love-letter-to | 2008-02-17 14:00 | レクイェム | Comments(10)
       ◇ 大戦中の北京郊外で ◇
日野市に住んでおられた黒田世志子さんから一幅の掛け軸の持ち主を探したいと相談を受けたことがあった。昭和16年、日中戦争から太平洋戦争に拡大した直後、北京郊外で前線に移動する部隊を見送っていた列に近づいてきた馬上の兵士から手渡されたそうだ。
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「君に預けるよ」と軍服の下に隠し持っていた細長い包みを黒田さんに手渡して、その兵士は走り去ってしまった。咄嗟のことで名前を聞く余裕もなく、軍の機密に関することで部隊の行き先も知ることはできなかった。受け取った薄鼠色の風呂敷を開けてみると、「休戦三日 踊れ月下の 敵味方」と力強い筆跡で句が書かれていた。

地紋の入った絹地で表装してあり、よほど大事にしていたものと思われた。その兵士の筆によるものか、戦地に赴く時のはなむけに持たされたものか知る由もなかった。しかし、記されている俳句は「休戦には敵味方なく踊れ」と明らかに反戦の意が汲み取れる。前線に向かう兵士が所持していては処罰間違いない。

敗戦直後、黒田さんは託された掛け軸を行李の一番下に隠して大連から引き揚げ船に潜り込んだ。引き揚げ先の祖母宛に送った行李13個のうち、届いたのは1個だけだった。が、奇跡的にもその行李に兵士から託された掛け軸が入っていたのは、幸運だった。

       ◇ 戦後40年を経て・・・ ◇
戦後の混乱期には掛け軸のことなど省みる余裕がなかったが、戦後40年近くなり、黒田さん自身70代半ばに差し掛かって、その掛け軸のことがしきりに気になってしょうがない。

長く古文書の研究をしておられた小平市の松田銀治さんに、右隅に書かれてある書名と落款を判読してもらったところ、署名は「聴秋」と読み取れ、素晴しく切れ味のいいスケールの大きな句で「相当な俳人の作だろう」とのことだった。

ボロボロになってしまった表装も専門家に依頼してお化粧直したので、作者に関する情報を得て、できれば持ち主かその縁のある方を探し出したいと黒田さんは切望していた。
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しかし、40数年も前、中国大陸での出来事である。馬上の一兵士の身元など探し出すのは、砂丘から一粒の砂を選び出すよりも難しい。黒田さんには気休めの言葉もかけられなかった。

    ◇ 尋ね人探しに朗報 ◇
ところがである。その記事を紹介した紙面が配布された昭和59年7月14日の翌日、立川市の古美術商店主からかなり自信に満ちた声で電話がかかって来た。「聴秋は恐らく花本聴秋でしょう。本名は上田肇と言い、花本流派の11世宗匠で明治~大正期に京都の俳壇で重きをなした俳人の一人です。しかも孫にあたる上田都史さんが八王子市に住んでおられます」とのことだった。

「うっそ~!ほんと~ォ!」と飛び上がらんばかりのホットニュースだった。上田都史さん自身俳人であり、『俳人山頭火』『人間・尾崎放哉』などの俳句評論や随筆でも著名で、裏高尾に長年住んでおられた。奇遇というか、この馬上の兵士から託された軸の数奇な運命の糸に眠れないほど興奮してしまった。

数日後、古美術商の案内で黒田さんと一緒に裏高尾の上田家を訪ねた。小仏川支流のほとりの住まいは、いかにも文人の隠れ家といった簡素だが風情のある平屋であった。
       ◇ 句の作者子孫と対面 ◇
「一昨年、家内に先立たれた男寡の独り暮らしですから、行き届きませんが…」と通された玄関の三和土と板の間には焼き〆の大小の壷が無造作に転がり、通された座敷の書棚には書籍がぎっしり。当時上田都史さんも喜寿を迎えられていたが、痩身長躯のダンディな紳士だった。
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上田さん自身が所蔵していた祖父花本聴秋の短冊の一枚にも、「十年のうらみも忘れ初日の出」と、旅順開城を詠んだ句があり、作風も署名も「休戦三日…」の軸に酷似していた。上田さんの記憶にある聴秋は全国に門人がおり、ひんぱんに旅をして先々で色紙や軸を書き、生活の糧にしていた。

黒田さんが馬上の兵士から手渡された軸装も、そうした一枚だろうとのこと。「持ち主に返したい気持ちも尊いが、『預けるよ』と言ったのは戦場で灰にしたくなかったからでしょう。
また、戦地にあっても平和を愛する気持ちを持ち続け、馬上から黒田さんに手渡した時に戦う兵士に自分を駆り立てて行ったのではないか…」と、斟酌された上田さんの横顔は忘れ得ない。人生観の奥深さに打たれてしまった。

       ◇ 戦火をくぐり抜けた掛け軸は菩提寺に ◇
馬上の兵士の意志を大事にしてきた黒田さんへの最高の言葉の贈り物だったと思う。そして私にも言葉の持つ力、五七五に託された人生の襞にこの頃になって熱くなっている。その後、黒田さんはその軸装を兵士へ弔いとして自身の菩提寺に納めたとのこと。「休戦三日…」の句は戦火をくぐり抜け、戦後の混乱期も経てやっと安住の地にたどり着いた。
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その後、黒田さんからは音信が途絶えて消息は分らないままになっているが、あの日の帰りに見た小仏川支流の眺めは、私の目に焼きついて離れない。
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by love-letter-to | 2008-02-10 15:57 | レクイェム | Comments(7)

根川のめがね橋

         ◇ 『根川のめがね橋』の絵との出会い ◇
立川駅ビルのオープン(1982年10月1日)と同時に勤め先のオフィスが、その9階に移転することが正式に決まり、朝日ギャラリーも併設されることになった。そのオープン記念展として開かれた故倉田三郎先生の『多摩の風景画展』も、思い出が深い。

その数年前に、立川駅北口のたましんギャラリーで開催された『多摩を描いて50年』という倉田三郎先生の個展会場で目にして以来、網膜に焼きついて離れなかった『根川のめがね橋』。
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たしか6号くらいの小品だったが、早春の萌えたぎる緑が根川の川面も緑に染め、石橋のアーチが長閑な田園風景を一層ポエジーのあるものにしていた。根川は立川市南部の段丘から発する小川で2キロほど下って多摩川に合流してしまうが、現在もその流域は根川緑道として整備され、桜の名所になっている。
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作者の倉田先生は牛乳瓶の底をはめ込んだような度の強い眼鏡をかけ、会場では旧府立二中(現都立立川高校)の教え子たちから“クラッちゃん”と呼ばれて人垣が絶えなかった。

       ◇ 惚れて口説いて… ◇
その温かい輪と『根川のめがね橋』に惹かれて、同ギャラリーのオープニングはぜひ倉田先生の作品展にしたいと熱くなって、編集会議で「倉田先生は如何でしょうか。多摩に住んで多摩を描き続けて半世紀以上になるそうですし…」と、口に出してしまったから大変!時として身の程知らずの発言をしてしまう私である。f0137096_13214750.jpg
週刊のタブロイド紙創刊以来8年、その紙面を埋める取材オンリーだった記者が、突然、ギャラリーの営業まがいの仕事もやるのだから、冒険に近い。もし、倉田先生がウンと言ってくれなければ…、ギャラリーの会場費ぐらいの絵の売り上げも・・・と考えるだけで頭が狂いそうになった。

しかし、この『根川のめがね橋』に惚れたお陰で、「あの絵をもう一度見たいんです。ぜひ作品展をやらせて下さい」と、倉田先生をすんなり口説くことができてしまった。それは倉田先生の温情によることが大きかったが、『根川のめがね橋』のお陰でもあろう。

お陰で『倉田三郎・多摩の風景画』展で、朝日ギャラリーのオープン記念展を飾ることができ、連日、バーゲン会場並みの人出で賑わった。バブルの絶頂期であり、立川の名士といわれる人の多くが倉田先生の教え子だったこともあって、絵の売り上げも…。
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その後も数回、毎年、倉田先生の作品展を開催して、私もパリとソフィア郊外の水彩画など数点を格安で譲って頂いて、勝手に想像を膨らませながら楽しんでいる。今は亡き倉田先生と対話しているようでもある。

       ◇ 名誉教授の肩書きなんか ◇
それはともかく、小金井駅南口に近いアトリエに何度も通い、「ねえ先生、油絵もいいけど、スケッチや淡彩の方が伸び伸びして先生らしさが感じられますね」などと、生意気な口を利くほど親しく接して頂いた。当時、国際的な美術教育界の大御所にして学芸大学名誉教授で、画壇・春陽会の古参メンバーでもあった倉田先生にである。

しかし、倉田先生は全くブラない人柄で「学芸大学名誉教授の肩書きなんか、くれるから貰っただけのことで、本業は一介の絵描きだよ。絵描きでは食えないから教師と二足草鞋を履いてきたが、これでも古式泳法水府流の達人で、青山師範学校時代には“河童”と呼ばれ、模範演技を披露したもんですよ」と、ドリフターズのズンドコ節調で抜き手の真似をしたのには大笑いさせられた。
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倉田先生によると、青山師範学校卒業後、愛媛師範学校の美術教師を数年、昭和3年に府立二中の教師として赴任すると同時に、小金井へ転居。当時の立川や小金井周辺は至る所に武蔵野の田園風景が広がり、絵心を掻き立て修業するのに絶好の条件が揃っていた。

       ◇ “坊ちゃん”さながらの熱血先生 ◇
「府立二中では生徒と根川へ写生に出掛け、水泳もよくやったな」。先生自ら授業を放り出して水泳に熱中したり、独身の青年教師だったので、宿直も進んで引き受け、生徒たちと宿直室で盛り上がったこともしばしば。

生徒が校則違反をすると、「また倉田がけしかけたのだろう」と校長に訓示されたことも多かったそうで、漱石の“坊ちゃん”以上に直情・熱血教師だったようだ。生徒たちからは兄貴のように慕われていたという。f0137096_1332640.jpg
その熱血“クラッちゃん”は、長女の江美子さんによると、食卓についてさえもチラシの余白に子供たちの表情や手足の動きを鉛筆で走り描きしていたそうだ。とにかく目の開いている間は所選ばず絵を探求していた。海外30数カ国の街や村、人々の絵も素晴しい作品として残されている。多摩の絵は郷土資料としても高く評価されている。

       ◇ 絵は自分探求 ◇
「先生ほどの方がどうして、寸暇を惜しんで絵を描くのですか」「上手く描けないからだよ。自分探求なんだよ」と、アトリエで会話したことも忘れられない。『多摩総合美術展』などの審査では下手でも努力の跡が見られる絵を評価していた。1992年90歳で他界されるまでの代表作の多くは、たましん地域文化財団に買い上げられたり寄贈されている。同財団の青梅・御岳美術館には、それらの作品が常設展示されている倉田三郎記念室がある
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御岳美術館:1993年11月に「たましん歴史・美術館」の分館として開館。多摩川の上流、御岳渓谷遊歩道に面した景勝の地に位置し、明治・大正・昭和にいたる近代日本の美術を中心に展示している。
主な展示作品は、荻原守衛(碌山)「女」・高村光太郎「手」・中原悌二郎「若きカフカス人」・ロダン「カレーの市民(第1試作)」・マイヨール「トルソー」などの彫刻作品、浅井忠・岸田劉生・藤島武二・鳥海青児・梅原龍三郎・中川一政などの油彩。また、多摩を代表する作家である春陽会会員、故倉田三郎画伯より寄贈された作品の中から「世界の旅」シリーズをテーマごとに展示。喫茶コーナー・ミュージアムショップ併設。年1~2回の展示替えを。〒198-0173 東京都青梅市御岳本町1-1 青梅線御岳駅より徒歩18分
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by love-letter-to | 2008-02-03 13:45 | レクイェム | Comments(6)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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