忘れ得ぬ人々& 道草ノート

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ブルーガムファミリーへの旅 その③

          ◇ ユーカリの苗木の植樹地へ ◇
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いよいよ、私にとっては今回の旅の最大の目的だった『ブルーガムファミリー・ユーカリの植樹地』へ。本田三緒子獣医師ドライバーはカウラ市内の地理も知り尽くしているようで、日本庭園から約20分でラクラン川沿いの道へ。

レンタカーの車窓から目にする風景は、原野のあちこちにでっかい岩がゴロゴロ。ユーカリの大木は幹から樹皮がペロ~ンとはがれ、枝葉も垂れ下がり日本人捕虜の亡霊のようでもある。

ラクラン川が見えてきた。川幅は10メートルくらい。ラクラン川は市内中心部でほぼ直角にカーブしている。そのカーブの扇状地にユーカリの植樹地はあった。f0137096_10531630.jpg

「たしか、この辺りよ!」と本田ドラーバーが車を止めた。万事アバウトなオーストラリアゆえ境界柵などはなく、川べりの草地にネームプレートが覗いていたので、ユーカリの植樹地だと分る程度だ。

◇ コアラの楽園づくりが始まって3年余 ◇
オーストラリアではユーカリの木が年間に3万本以上伐採され、その6割以上が日本に輸出されて紙の原料となり大量消費されていた。心を痛めた有志たちによって、1990年の7月に『ブルーガムファミリー』が誕生。ユーカリの苗木寄贈者を呼びかけ、カウラ市内で手広く果樹園を営むオーナーやカウラ市民の協力も得て、“コアラの楽園づくり”をめざして3年あまり。
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1991年夏に植えた第1次植樹地では、高さ3メートル近くにも成長しているユーカリもあったが…。第2次植樹地では雑草と競走でかろうじて私の背丈ほどに伸びた苗木もあるが、見上げた枝の股に黒い塊が目についた。

            ◇ 苗木に無数の大敵!◇
何だろうと近づくと、その塊は動いている。「キャーッ!」思わず悲鳴を上げてしまった。無数の毛虫が絡み合ってゴニョゴニョしているではないか!鳥肌が立ち全身から血の気が引いていくのが分る。f0137096_10562634.jpg

毛虫の塊は大小があり、大きいのは大人のこぶし大はある。それらが一斉にユーカリの葉に食らいついてむさぼっている。すでに裸になっている苗木も多い。

ネームプレートしか残ってないエリアもあって、善意で寄贈した人たちのことを思うと、悲しいというより恐れていたことが現実になった!

本田獣医師五島龍子女史が植樹地の全域をほぼ見て回ったところ、850本の3分の1は生長の見込みがないという。1992年の夏に植えられたはずの私のネームプレートを探したが、残念ながら発見できなかった。旅の疲れがどっと押し寄せ、車の後部シートに倒れこんでしまった。

          ◇ コアラのサンクチュアリ建設は無惨にも ◇
ブルーガムファミリー』の当初の青写真では、70,000平方メートルの敷地の約半分は自然保護・コアラ観察エリアに。残り半分には花畑や果樹園、ゲストハウスやテニスコート、プールも備えた体験型リゾート施設が出来上がる予定だった。敷地所有者の果樹園オーナーもコアラのサンクチュアリづくりに乗り気で日豪共同経営を目指していたのだが…。
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現実は甘くなかった。数多くの苗木寄贈者を裏切ることになりそうだ。「果樹園の管理をしているモルガン夫妻が近くに住んでいるから、より確かな情報が得られるかもしれないので、行ってみましょう」と、本田獣医師は車をモルガン家へ走らせた。

          ◇ 管理人のモルガン夫妻の話では ◇
突然の訪問にも関わらず、グラハム氏とヘレン夫人は3人を歓迎してくれた。50~60代の温厚なシニア夫妻だ。本田さんと五島さんは当地での第1回の植樹祭に参加して以来、モルガン夫妻とは情報交換をしてきたという。「異常気象で大量に蛾が発生して、ユーカリの森が全国的にやられていると、今朝の新聞でも伝えられていたよ。ここカウラの苗木畑もかなり被害にあっている」とモルガン夫妻は顔を曇らせた。

スチール・ソーフライと言って、金属製ノコギリのように鋭い歯をした蛾の幼虫が大量発生しており、駆除する薬剤も人手も足りないそうだ。幼虫は日本では見たこともない大きく荒々しい毛虫で、繁殖力がもの凄く高さ20メートルものユーカリの大木が一日で丸坊主になり、枯死してしまうこともあるそうだ。

それよりも景気が悪くて果樹園のオーナーが土地を手放す噂もあるという。日本でもバブルがはじけて、大手企業や金融機関すらも多額の不良債権を抱えて倒産し始めていた時期であった。

「でも苗木畑だけは『ブルーガムファミリー』に所有権があり、2000年にはカウラ市にユーカリの木とともに寄贈する契約になっているはず…」と本田さん。モルガン夫妻も「その契約書には市長もサインしているから、果樹園のオーナーも売ることはないだろう」と、力づけてくれた。
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          ◇ 苗木寄贈者へのせめてもの慰め ◇
いずれにしても20世紀最後の年には、約3,000平方メートルのユーカリ植樹地はカウラ市に寄贈され、850本のうちのユーカリが何本かは生き残ってコアラの食糧となるかもしれない。“コアラの楽園づくり”の夢は小さく萎んでしまったが、苗木寄贈者にはせめてもの慰めだ。少し気を取り直して3人はモルガン家を後にした。

その後、『ブルーガムファミリー』の組織は息切れして、苗木の植樹運動はストップしてしまったが、植樹地はカウラ市に受け継がれたと聞いている。

          ◇ メルボルンでの夢のように快適な3泊4日 ◇
この1993年10月の女三人のレンターカードライブは、カウラからシドニーまで戻って、メルボルンへフライト。国立メルボルン・ボタニカルガーデンでも五島女史と本田獣医師は藍染めのワークショップを2日間開催した。
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メルボルンでは本田獣医師と五島女史が“メルボルンのお母さん”と呼ぶボニーさんのタウンハウスに3泊させてもらった。英国調の高級タウンハウスでの3泊4日は実に心地よく、海岸を散策したり、フィッシャーマンズ・ワーフでロブスターを食べたり、元羊毛工場の広大な建物を再利用したファクトリー・マーケットで買い物をしたり、骨董市もぶらついてプライベートツアーの醍醐味を満喫した。今思い出してもエキサイティングで夢のような旅だった。
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by love-letter-to | 2008-03-31 11:05 | 人間万歳! | Comments(6)

ブルーガムファミリーへの旅 その②

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            ◇ 成田からシドニーへ 季節は秋から春へ ◇
今回は知られているようで知られてない日豪親善の地、オーストラリア南西部の町カウラへ女三人レンタカードライブした記憶を…。片道約320キロのアップダウンドライブだ。
          
1993年10月15日午後8時30分カンタス航空QF60便は成田を離陸。窓際の席で3人並んでいたが、ベルト着用サインが消えるなり本田三緒子さんと五島龍子さんは空席を見つけて移動。旅慣れている二人の機転で3シートを独り占めできた私はファーストクラス気分で、一路南下。前夜は徹夜で原稿を仕上げてきたので、離陸して1時間もしないうちにぐっすり。赤道付近の乱気流で機内がガタガタ揺れた時も夢うつつだった。

ケアンズ経由シドニー空港に着いたのは翌朝の9時頃だった。日本とは地球の反対側のシドニーはまさに春春春で、ブーゲンビリアやジャカランダ、ボトルブラシが歓迎してくれた。日本との時差がないのも嬉しかったが、この日からサマータイムに切り替わったそうで、それは想定外だった。

             ◇ フォードのセダンの後部シートで ◇
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本田さんの手配したレンタカーは何とフォードの4WD!獣医師で英語にも強い本田さんは30代後半、高等職業訓練専門校の和裁指導員で染色家でもある五島さんは40代前半。10歳以上若い二人は頼もしい。最年長の私は後部シートで「命を預けたワ」と“お客さま”気分であった。

シドニー中心街のホリデイ・インに1泊した翌朝、本田さんの運転でカウラへ向かった。二人はカウラ市の『サクラサクラ祭り』で一昨年から続けている藍染めワークショップを今回も予定しており、ドライバーとナビゲーターの呼吸はぴったり。
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ところが、内陸部との境のブルーマウンテンズ付近に差し掛かると、空は暗くなり雲の動きが激しくなった。かなり急勾配でカーブも多い。現地人の対向車はスピードを落とさないでカーブから飛び出して来るから怖い。「女だからって舐めないでよね!」と本田獣医の口調も荒っぽくなる。

高度1500メートル地点ではついに大降りになった。「オーストラリアは一日に四季がある」と聞いていたが、まさにその通りで、気温も冷え込んできた。10メートル先が見えない。ブルーマウンテンの由来はユーカリの葉の色素で山全体が青く染まるからだとか。コアラの生息地でもある。
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          ◇ 山火事でコアラの森が消えて ◇
ノロノロ運転でバサーストの町まで下ると、嘘のように空は晴れ上がってやれやれ。かつては金鉱で栄えたバサーストだが過疎になり、広場でローンボールを転がしているのは高齢者ばかりだった。
にも関わらず昼下がりの中心街のピザハットは満席で、仕方なくテイクアウトにして路上に車を止めてランチタイムを。たまたまピザハットは誕生パーティで貸切りだったそうだ。
          
バサーストからアップダウンしながら眺める牛や羊の放牧地はダイナミックだ。何しろオーストラリアは日本の国土の21倍もある。それでいて人口は約2,000万人。行けども行けども放牧地だが、山火事で焼け爛れたユーカリの森に唖然とした。大気の乾燥で枝葉に油成分を多く含んでいるユーカリは自然発火、山火事が頻繁に起きるそうだ。「また、コアラの森が一つ消えたね」と三人。
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          ◇ ほぼ予定通りカウラ市の日本庭園へ ◇
午後4時、ほぼ予定通りカウラ市の日本庭園に到着。噴水池あり、枯れ山水あり、桃、桜、雪柳、海棠、ツツジ…一斉に開花して想像していたよりずっと日本庭園らしい。日比谷公園の4~5倍の広さがあり、年間5~6万人が訪れるが、ここまで足を伸ばす日本人観光客は少ないそうだ。
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ジャパンウィーク・サクラサクラ祭りの最中で、この庭園の東屋で明日、五島女史と本田獣医師による『藍染めワークショップ』を開催することになっている。その打ち合わせを済ませて元捕虜収容所と苗木の寄贈運動で建設中のさくら通りへ。

          ◇ 元捕虜収容所は看板を残すのみ ◇
元捕虜収容所は立て看板のみで跡形もなくなっていたが、凸凹した広大な草原の所々に険しい岩場が目立った。カウラは原住民アポリジニの言葉で石や岩がゴロゴロした不毛の地を意味するそうだ。捕虜の脱走を避けるためにこの地が選ばれたようで、旧日本兵の集団大脱走『カウラ事件』がむなしく言葉にならない。捕虜として生き恥をさらすよりも死を選んだ行為は誰の責任なのだろうか…。
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さくら通りの桜はまだ幼い苗木で心もとなかったが、1メートル余りの若木にも八重の花を精一杯咲かせていた。当時300本前後植わっていたが、最終目標の1988本に達する日が早く訪れますように!桜並木というとパッと咲いてパッと散る染井吉野の並木を想像していたが、現地では色華やかで花期の長い八重が好まれるという。

          ◇ 藍染めワークショップに大きな歓声 ◇
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翌10月17日午前9時半から日本庭園の東屋付近で開かれた『藍染めワークショップ』は、今回で3回目とあって五島・本田さんも手馴れた手つきで、ポリタンクに藍染め液を用意。スカーフやハンカチ布を浸し、液から取り出すと周囲から歓声が上がった。

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ジャパニーズブルーの藍はオーストラリアでは羨望の的らしい。熱狂的な愛好家もいて二人は質問攻めにあっていた。日豪親善グループによる生け花や茶道、俳句・短歌、折り紙・切り紙、墨絵など日本の伝統文化の展示やイベントも開かれ、いずれもびっくりするほど盛況で、遠く離れたカウラでそのシーンを目にして熱くなってしまった。
次回はブルーガムファミリーのユーカリ植樹地へ
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by love-letter-to | 2008-03-24 10:31 | 人間万歳! | Comments(6)

ブルーガムファミリーへの旅 その①

         ◇ コアラの楽園づくりの呼びかけ ◇
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「ユーカリの苗木を育てて、コアラの楽園づくりを!」と、オーストラリアでのユーカリの植樹運動が始まったのは1990年の夏だった。『ブルーガムファミリー』という市民グループによって、ユーカリの苗木代と植樹・その育成費を含めて1本5,000円で寄贈者を募った。その東京事務所代表が小平市内に住んでいたこともあって、多摩周辺から広がった。  

ブルーガムblue gumとは約600種もあるユーカリ属の中で、コアラが好んで食べる樹種の通称で、16~20種ぐらいしかないそうだ。笹の葉のように細く緑青色の葉をしている。

       ◇ 年間3万本以上のユーカリが伐採され ◇f0137096_21453477.jpg
当時、オーストラリアではユーカリが年間に3万本以上伐採され、その6割以上が日本に輸出されて紙の原料となり大量消費されていた。その総量は1年間に24万6000トンにもなり、コアラの住処を奪っていた。

「このままではコアラが絶滅してしまう!」オーストラリアを旅して、そうした深刻な自然破壊を耳や目にした人たちが、シドニーのコアラ・パークの指導を受けて、シドニー西方320キロのカウラ市に新たなコアラ保護区を作ろうと、『ブルーガムファミリー』を結成。

        ◇ ユーカリの苗木植樹運動 ◇
日本側のスタッフを呼びかけるとともに、ユーカリの苗木の寄贈者を呼びかけた。自然破壊や酸性雨の影響が問題化されていた時期でもあり、1年あまりでスタッフは30名近くになり、苗木寄贈者も約280名にも上った。カウラ市の土地所有者の協力で確保した約70,000平方メートルの土地に、寄贈されたユーカリ苗木280本と日本船舶協会からの150本も植樹された。
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植樹地はカウラ市内を蛇行するラクラン川沿いで、苗木にはネームプレートをつけ、その写真と感謝状がクリスマスには寄贈者に送られてきた。

ユーカリ属は元々成長の早く、それら植樹した苗木も1年で1.5~3メートルに成長しており、2年目の植樹祭ではカウラ市長コアラ・パーク園長らも出席して850本にも達したとグッドニュースが送られてきていた。
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         ◇ 苗木植樹地見学の誘い ◇
「一度、そのカウラ市のユーカリの植樹地を見に行きませんか」と、日本側スタッフの一人で獣医師の本田三緒子さんに誘われた。学生時代からオーストラリアにホームステイして、コアラ・パークのボランティア経験も豊富な女性だ。

「シドニーからレンタカーでブルーマウンテンの近くを横断するルートは、かなりスリリングですよ」。スピード・スリル・サスペンスには全く弱い私だが、「もちろん、行くわよ」と即答してしまった。私が寄贈した苗木に会いたかった。寄贈する前後に誕生した初孫が成人して、お祖母ちゃんの名前のプレートのついたユーカリを訪ねてほしいと、夢みたいなことも頭に描いていた。

しかし、日本から遠く離れたオーストラリアでユーカリの植樹活動が成功するのだろうか…不安も小さくはなかった。サハラ砂漠でもネパールや中国の奥地でも植樹に成功はしてもアフターケアが難しいと聞いていた。
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        ◇ 植樹地周辺には大戦の悲劇が ◇
人口1万人あまりのカウラ市には第2次大戦中の枢軸国捕虜収容所があり、そこで終戦1年前の1944年8月に収容されていた約1,000人の日本人捕虜が集団脱走して、231人が射殺されたという『カウラ事件』の悲劇の土地だ。“捕虜”の名を恥じて集団自殺を強行したとも伝えられている。

旧日本軍の戦陣訓“生きて捕虜の辱めを受けず”が悲しいまでに、日本兵には染み付いていた。
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実名を隠したまま死んで行った捕虜も多かった。遺族に連絡をとることもできないままカウラ市の心ある人たちによって手厚く葬られてきた日本人戦没者たちの墓地。その事実が明るみになったのは戦後も大分経ってからのことだった。

       ◇ 日本人墓地をきっかけに日豪友好の架け橋を ◇
この日本人戦没者の墓地がきっかけとなり、日豪関係の修復の機運が高まり、両国親善のシンボルとしてカウラ市内に『日本庭園と文化センター』の建設が計画され、竣工したのは昭和61年(1986)であった。人口1万人足らずの小さな街に『日本庭園と文化センター』を建設するのは、市民にとって大きな負担であったが、それだけカウラ市民の日豪友好にかける熱意は大きかったと言えよう。
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1988年の初夏には、カウラ市周辺在住の親日家や在留邦人の間で、「カウラ市に美しい桜並木を造ろう」という運動も始まり、日本人戦没者墓地のあるカウラ市営霊園と『日本庭園と文化センター』とをつなぐ約3.5キロの沿道に、桜の苗木の植樹が始まった。

その年1988年はオーストラリア建国200年に当たり、1988本の桜を植えるのが最終目標で、日豪の市民から苗木寄贈のキャンペーンを展開していた。

         ◇ 自分の目で植樹地をと… ◇
などなど、日本との関わりの深いカウラ市に『ブルーガムファミリー』もユーカリの植樹とコアラの楽園建設を目指したという。ぜひ私の目でもユーカリの植樹地桜並木カウラ事件の悲劇の地を訪ねたいと、大変欲張った旅行プランを立てて1993年10月15日成田を発った。
ブルーガムファミリー』スタッフの本田三緒子さんと五島龍子さんと私の3人でシドニー空港へ。次回は、それら日豪親善の道を開いてきたカウラ市へのレンタカードライブの思い出を…。
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by love-letter-to | 2008-03-16 22:07 | 人間万歳! | Comments(2)

設楽(したら)菩薩

       ◇ 陶芸展で出会った菩薩さま ◇
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設楽菩薩と言っても、由緒ある寺の菩薩像ではない。茶人であり陶芸家であり表装家でもある設楽道生さんの作品に描かれている弁天や如来、観音菩薩を、私が勝手にそう呼んでいるだけであるが、メチャ可愛い菩薩さまたちだ。

童顔で漫画チックではあるが、ほのぼのとして楽しい。

15年ほど前になるか、渋谷で初めて陶芸の作品展を開く設楽さんが主夫をしていると聞いて、半ば野次馬根性で、その主夫ぶりを取材に行った。その前後に育児休業法が施行されたこともあって、パパの子育てに関心が高まっていた。
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       ◇ 自分探しと称して主夫業に ◇
当時、ある男性保育士から「男だって家事も育児もできないはずがない。育児はやりがいがあり、母親と違うのは母乳が直接与えられないだけですよ」と聞かされていた。設楽さんも家事育児に積極的に関わりたくて主夫になったのかと思ったら…、「とんでもない!主夫業は嫌いで、カーッとなって子どもたちを叱るときもありますよ」。

そのセリフを聞いて、ホッとした。家事育児は女の仕事だと決め付けられ、家事育児に縛り付けられてきた女性の気持ちも分ってくれると思った。だって、男性から「家事育児は創造的で楽しい仕事だ」なんて言われたら、駄目主婦としては立場がない。そんなにやりがいのある仕事なら、夫族に家事育児もどーぞやって下さいと言いたくなるではないか。

しかし、設楽さんは口とは反対に主夫業を楽しんでしるようにも見えた。

昭和59年の冬、設楽さんは結婚6年目にして子どもが生まれることになったが、勤め先が倒産して失業中であった。通常なら家庭崩壊につながりかけない状況であったが、設楽さん夫妻は妻が金融関係の務めを続け、夫の道生さんは充電期間として学生時代からはまっていた古美術道楽や茶道、陶芸、表装などに“自分探し”をしていた。
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        ◇ 主夫業とパパの子育て ◇
しかし、子どもが生まれるとなると、現実問題として勤めを持ってない夫が育児に関わらなければならなくなった。妻の産休明けから授乳やおむつの取替え、離乳食、そして掃除洗濯…ちょっとサボるとキッチンは汚れた食器の山、洗濯物もたまるし…。

私が高尾山麓の設楽家を訪ねた当時、上の長女は小学5年、下の男児は保育園に通っていた。「夕方、保育園に迎えに行く時、今夜の夕食は何にしようかと考えるだけで頭が痛くなる。専業主婦はラクではないですね。孤独な作業が多く、毎日同じようなことの繰り返しで…」。

設楽さんの口から“専業主婦のような悲鳴”を聞いてしまったが、「我が子の寝顔を見ると、こんなに子どもって可愛いものか!」としみじみ眺めた日も多かった。子どもに育てられている自分を感じるとも話していた。
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「お父さんの作る料理はいつも焼き魚かハンバーグ…」と二人の子どもたちからはワンパターンだと不評だった設楽さんだが、茶室に入ると顔が引き締まり、背筋もピンとして別人になった姿にも驚いた。「主夫業だけではとっくに燃え尽きていたでしょうね」と、爽やかな手つきで一服点ててくれた。裏山から山椿を一枝切り取って茶花に、茶巾の餡も前日から小豆をコトコト煮て作ったとのこと。そのもてなしの心が茶道の真髄だとか。

  ◇ 茶道から陶芸への道 ◇
その当時、設楽さんは茶道から茶碗作りを始めてかれこれ10年、やっと人様に見て貰える作品ができるようになったとのこと。武者小路流派の老師が浮世離れした茶人で、大学時代に入門したその日に「茶人になるなら大工のような手になれ」と言われた。つまり、茶を点てる器や花挿しなどを自ら作れということであった。

本来、手が器用で陶芸も教室や陶房に入らず自己流で土をひねり、試行錯誤を繰り返しながら作陶を。「工房なんかで修業していたら、陶芸家にはならなかったでしょうね。土と格闘しながら身体で覚えていったのが、僕の波長に合った」と設楽さん。
主夫もやりながら自分探しの道草をして、気がつけば陶芸家になっていたという。f0137096_10252041.jpg

   ◇ メルヘンチックな菩薩さまは… ◇
初めての作品展では無手勝流の皿や壷に浮き出ている“設楽菩薩”に人気が集まり、私も愛くるしい薬師像を目にして一枚の絵皿に飛びついてしまった。無釉薬の冷たい地肌にメルヘンチックな菩薩さまが素朴で温かい。不思議な魅力がある。子育ての経験も下地になっているのではないだろうか。

子ども頃から好きだった版画で彫った菩薩像を陶芸でも試みてみたそうだ。工法について詳しくは知らないが、掻き落とし技法で菩薩像が浮き出てくるように仕上げてある。

その後、設楽さんは年々格調の高い作品に挑戦し、陶芸家として茶人として活躍している。今年の年賀状には夫婦揃って床の間で撮影した姿を届けてくれた。主夫は卒業、一家の長としての風格も備わって48歳を迎えたそうだ。それにしても年月の経つのは早い。年々早く感じる。
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by love-letter-to | 2008-03-10 10:30 | 人間万歳! | Comments(13)

ノコギリは歌う

       ◇ ノコギリから哀愁をおびた音色が!◇

大工道具のノコギリで『浜辺の歌』や『アメージンググレイス』などの美しいメロディを演奏するなんて、考えられますか?

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刃渡り15~20センチくらいある西洋ノコギリを“ミュージカル・ソー”と称して、腰掛けた両膝で柄をはさみ、ノコギリの刃をしならせながらチェロの弓を当てると…信じられないような妙なる音色が!

ヨーロッパの絵物語や映画で樵(きこり)が手にしている幅広のごついノコギリ。木工細工でピノキオの人形をこしらえたゼベット爺さんもあるいは使ったかもしれない。

       ◇ 独学で身につけたノコギリ演奏の草分け ◇
10年あまり前のことだった。西洋ノコギリで哀愁をおびた、心に染み入るように澄んだ音色の演奏を聴かせて下さったのは、元都立小平養護学校校長の加藤寛二さんだ。小平市学園西町の加藤先生の自宅で初めて、その演奏を耳にした時の驚きと感動も私の財産である。ビブラートを利かせた音色はフルートより甘く、ヴァイオリンよりせつなかった。
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国分寺駅前に本拠を置いていた富士福祉事業団が「愛の文明を築こう!」というスローガンを掲げて、1992年から毎年開催していた『福祉・ボランティア全国交流大会』のオープニングに加藤さんがノコギリ演奏をすると聞いて、信じられない面持ちで加藤家を訪ねたのだった。

ノコギリ演奏は1930年代のアメリカで始まり、その音色に心を打たれ、日本の草分けとされる故高島巌さんは1935年頃にミュージカル・ソーをアメリカから取り寄せ、独学で演奏を身につけた。

 ◇ 児童福祉とノコギリ音楽 ◇
児童福祉のパイオニアでもあった高島さんは、家庭に恵まれない子供たちの福祉施設の園長を務めていた。冷たい刃物のノコギリでさえ素敵な“歌を歌う”。虐待などでいじけたり、粗暴になっている施設の子供たちも本来の力を発揮して、きっと素晴しい“歌を歌う”日が来るに違いない。「そのように育てるのが大人の役割だ、愛の力だ」と、児童福祉とボランティアに78年の生涯を奉げた人である。ノコギリ演奏にも心を込めた。f0137096_238845.jpg

その高島さんの三女鞠子さんと結婚した加藤さんは、結婚式で岳父が演奏するノコギリ音楽を初めて耳にしてしびれた。そして高島さんから1丁のノコギリをプレゼントされた。当時、小学校の教員をしていた加藤さんも手探りでノコギリ演奏の練習を始めた。

その後、心身にハンデを持つ児童の養護教育に携わってきた加藤さんは、子供たちの前でヒュ~ンとノコギリ演奏を始めると、目が輝き、その集中力が手に取るように感じられた。ミュージカル・ソーの音色が心をときめかすらしい。つとめて演奏をするようになり、演奏にも磨きをかけたという。加藤さんのノコギリ演奏は数多くの児童生徒の目を輝かせたとも言えよう。
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      ◇ 10年ぶりに届いた招待状 ◇
その後、私は定年で職場を去り、加藤さんが小平養護学校校長を最後に定年を迎えた後も、生涯教育の場や各地の施設でボランティア演奏を続けておられることを風の便りで耳にすることはあっても、接する機会はなく月日過ぎて行った。ところが、2006年の7月半ばに加藤さんから突然、分厚い封書が我が家に届いた。

中には『高島巌没後30年と加藤寛二喜寿感謝記念コンサート』の招待状、その後の活動記録などが入っていた。8月2日に府中の森芸術劇場でコンサートが開催されるという。

10年近いブランクにも関わらず、かつて『ノコギリは歌う』と題して私の書いた記事の反響や加藤先生のノコギリ音楽に対するエッセーなども添えられていた。多摩地域の週刊新聞の一紙面が遠く宮崎県都城市の子ども療育センターの関係者たちの手に渡り、加藤先生のノコギリ演奏会も同市で開かれたそうだ。
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一地域紙の記事と言えども、地域に留まらないことに恐ろしく感じ入った。また、加藤先生がその記事のことを心に留めていて下さったことにも胸が熱くなった。

8月2日夕6時半から開かれたコンサートもメーンタイトルは『ノコギリは歌う』で、かつての記事の見出しが、すっかり“市民権”を得たようで嬉しかった。

この日、加藤先生の膝のノコギリは、次男・さんのピアノ伴奏で一段と艶をおびて『浜辺の歌』『この道』を“歌い”始めた。叙情歌の哀調に会場はたちまち虜に。実さんの力強いピアノのタッチと対照的なノコギリのビブラートで『アメージンググレイス』『枯れ葉』も素晴しかったけど、私は『津軽のふるさと』に一番感激した。

美空ひばりのレパートリーだった歌謡曲だが、あの熱唱をノコギリが歌うと、北国の厳しい風土が一層深く迫ってくるのだった。人の肉声のようでカウンターテナーで歌っているように聴こえた。f0137096_2321748.jpg

   ◇ 心に残る喜寿コンサート ◇
この日は養護学校や障害者施設、ボランティア団体の関係者も沢山参加して同窓会のようだった。車椅子での参加者も多かった。岳父と2代して児童福祉と障害児教育に尽くし、ノコギリ音楽で愛の心を育んできた加藤寛二さんに相応しい喜寿のコンサートだった。

さらに、20年近く寝たきり状態だった鞠子夫人が奇跡的に回復され、会場にも見えられたのも、ノコギリ音楽の力かもしれない。心に残るコンサートだった。
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by love-letter-to | 2008-03-02 23:24 | 人間万歳! | Comments(8)