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           ◇ 精悍な72歳のアマゾン展 ◇
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4年後なんて遠い先のように思っていたが、地球は太陽の周りの軌道を休みなく回り、安井宇宙さんの二度目の個展もあっという間にやってきた。平成3年(1992)7月、再び立川駅ビル9階の朝日ギャラリーに姿を現せた宇宙さんは相変わらず精悍で、とても72歳には見えなかった。f0137096_949434.jpg

さすが“アマゾンのモンテクリスト伯たらん”と大河アマゾンを相手に60余年も暮らしてきた男だ!二度目の個展も一回目を上回る大ホームランだったが、宇宙さんは自分史を綴ることに大変こだわっていた。「アマゾン開拓などと言うと苦闘だとか苦難の歳月というワンパターンに受け止められるか、サクセスストーリーや自慢話で終わってしまいがちで、恥の上塗りをするような自分史を書く気になれなかった」という。

           ◇ ある日約100枚の原稿がド~ンと ◇
第2回『安井宇宙展』を終えて宇宙さんは元気にブラジルへの帰国の途についた。しかし、原稿は待てど暮らせど…。1~2年は瞬く間に過ぎ、私自身忘れかけていた1994年のゴールデンウィーク前後に宇宙さんから分厚い封書ド~ンと私の自宅に届いた。400字詰めの原稿用紙にびっしり几帳面な字で綴った手記は100枚近くあり、ガ~ン!「宇宙さんは本気で書き始めたんだ!」正直なところ焦った。
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日本高等拓殖学校(以下、高拓と略す)…そんな学校があるとはまったく知らなかった。昭和8年(1933)3月、千葉県立長生中学を卒業したが、行くところがなかった。生来、勉強というものに興味がなく、遊びほうけているうちに父親も口うるさく言わなくなり、中学を押し出されてしまった」という書き出しで、夏目漱石の『坊ちゃん』そこのけの痛快さとアマゾンの気候風土が漂ってくる宇宙さんの文章に、私は惚れ込んでしまった。
           ◇ アマゾンへ行ってやろう ◇
「高拓は南米アマゾンの開拓者リーダーを養成する学校で昭和6年に設立され、現地に養成所がある」と友人からの手紙で知り、二次募集に間に合うとのことで「よーし、アマゾンに行ってやろう!」と弾みで受験し、4期生に潜り込んだのが宇宙さんのアマゾン渡航のそもそもだった。父親は謹厳実直を絵に描いたような海軍軍人だった。7人兄弟妹の長子として生まれ育った宇宙さんは長男としての自負もあったが、敷かれたレールの上に乗っかるタイプではなかった。
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当時、日本は昭和恐慌のあおりで農村が疲弊し、その解決策として満州開拓を奨励し軍国主義の道をひた走り、100万人の移住計画で満州へ満州へ…と草木もなびく風潮に同調する気にはなれなかった。アマゾンには未知の魅力があった。

小田急線生田駅近くにあった高拓キャンパスで1年間ポルトガル語や学科と農業実習を積んだ後、昭和9年4月、いよいよアマゾン行きの移民船に乗り込んだ宇宙さん。当時、南米への移民船は香港、シンガポールを経てアフリカ最南端の喜望峰を回るルートでアマゾン河口まで2ヵ月あまりかかった。地球の果てに来たようだったという。
2年目はアマゾン中流域のパリンチンスに設けられていたビラアマゾニア実習地で、現地の地質気候にあった作物の試験栽培をすることになっていた。最も有望視されていたのはコーヒー豆の袋に使われるジュートだったが、1~3回生まで失敗に終わっていた。
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            ◇ アマゾン流域にジュートの緑の炎 ◇
ところが、3回生たちと入植した家族移民が栽培したジュートの種子を採取するのに成功した直後に、宇宙さんら4回生が入植。栽培者の名前を取って“尾山種”と名づけられたジュートは成育も早く優良な繊維が取れた。f0137096_19373451.jpg
その成功がアマゾン流域にジュートの緑の炎を萌え上がらせたと言っても過言ではない。宇宙さんもジュート栽培から足が抜けなくなり、アマゾンに永住することになってしまったが、時流に翻弄されアマゾンの自然の驚異にさらされ…どん底に突き落とされ這い上がる繰り返しだった。それでも宇宙さんは「日本に住むのもアマゾンに暮らすのも大した違いはない」と話していた。

           ◇ 宇宙さんの手記出版に向けて ◇
最初に100枚近くの原稿が届いて以来、2~3ヵ月に一度30枚、50枚…と宇宙さんから原稿が届くたびに私はアマゾンのめり込み、「声をかけた以上、何としても出版しなければ」と落ち着かなくなった。

宇宙さんの手記には最近の日本では使われないような難しい漢字や語句、耳慣れないポルトガル語や地名、人名が頻繁に登場するだけでなく、時の流れが前後することも多くて私自身が消化するのに時間もかかった。f0137096_1014783.jpg

原稿が599枚に達した時、私は宇宙さんの原稿の整理をする一方で、日本人のアマゾン移住史を書き加えながら、編集作業に取り掛かった。宇宙さんに出会ってから11年、その間に太平洋を越えて交わした手紙はそれぞれ100通を下らないと思う。

宇宙さんとじきじき顔を合わせた時間はわずかだが、手紙と原稿を通して親子のような親密な関係を築いてこられたのではないだろうか。忘れようにも忘れ得ない宇宙さんだ。

           ◇ 空振り三振の後に出版へ ◇
一年がかりで原稿は300枚程度に凝縮して本にできるところまでこぎつけ、出版してくれそうな出版社を打診しては空振りノーチップ。いよいよ三振凡退かと…自費出版を覚悟した頃に巡り会ったのが良質のノンフィクションで知られた『草思社』だった。

最終的に原稿と写真・マップなどを木谷東男編集長に手渡したのは、忘れもしない1997年12月24日クリスマスイブだった。原宿駅から吐き出されてくる若いカップルとすれ違いながら帰途に着いた。場違いな思いで見上げた表参道のクリスマスイルミネーションも目に焼きついている。f0137096_1024165.jpg

宇宙さんの『アマゾン開拓は夢のごとし』はそれから半年あまり後の1998年8月に出版され、朝日新聞の書評欄を初め日刊主要紙に取り上げられ、ブラジルでもサンパウロ新聞などにも大きく紹介されたそうだ。

宇宙さんはその後、心筋梗塞の後遺症で車椅子の生活を余儀なくされているが、信子夫人からの今春の賀状によると食欲も旺盛で、身の回りのことは自分ででき、卒寿の日々を平穏に送っておられるとのこと。

ブラジルでは大幅な通貨の切り下げで、一夜にして物価が50~100%も値上がりしたこともあり、日本では想像もできないアマゾンに大きな足跡を残した日本人移住者一世の生き証人として、一日でも長く…と祈っている。
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by love-letter-to | 2008-04-28 10:29 | 人間万歳! | Comments(4)
            ◇ 遙かなるアマゾン ◇
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4月も末を迎えると南米アマゾン流域では毎日水位が5センチ、6センチと下り、それまで水に没していた低地や島が次第に姿を現してくる。12月から5月は雨季、6月から11月は乾季で、雨季と乾季ではアマゾン川の水位は10メートルも上下する。

アンデス山脈標高5000メートル級の高地、ボリビア、ペルー、コロンビアなどの周辺諸国から流れ込んで来る1000を超える河川がブラジル国内に入って合流し、大西洋岸に注いでいるのがアマゾン川である。f0137096_0363352.jpg

全長約6400キロ、最大川幅は340キロに及んでおり、日本列島が丸ごと5~6個分も入ってしまう規模だ。クィーン・エリザベスⅡ号クラスの豪華客船が就航しているそうだから川というより海に近いだろう。6400キロの流域には堤防もなければ橋も一つとしてない。

◇ 16歳でアマゾン開拓に ◇
…と書くと、「エーッ!アマゾンにも行ったの?」と思われるかもしれないが、残念ながら何度かのチャンスを逸してしまった。しかし、アマゾン河口の都市ベレンに住む安井宇宙さんとは10年あまり文通を通して、宇宙さんのアマゾン開拓史『アマゾン開拓は夢のごとし=草思社刊』をまとめるお手伝いをした。

安井宇宙さんの宇宙は本名である。昭和9年(1934)16歳の時にアマゾン開拓に赴いて以来、アマゾン流域に70余年も暮らし続けている。“アマゾンのモンテクリスト伯たらん”と、かつてはジュートを手広く栽培し、広大なアマゾンを舞台に交易会社を経営していた安井宇宙さん。今年1月末で90歳を迎え、アマゾンにおける日本人開拓移民一世の恐らく最後の人であるまいか。

昭和初期に『日本高等拓殖学校』の学生を主として、広大無辺のアマゾン開拓に挑んだ日本人がいたことは歴史から忘れられている。宇宙さんは同校の4期生だった。

           ◇ 52年ぶりに帰国してひょっこり ◇
f0137096_039010.jpgその宇宙さんが、渡伯(ブラジルの当て字・伯剌西爾から伯国とも)以来52年ぶり二度目の帰国をした1987年の夏、知人の紹介で立川駅ビル9階の社をひょっこり訪れた。咄嗟に「アマゾンから来ました」と言われても…社内は???

たまたま居合わせた私が安井宇宙さんのアマゾン開拓移住史を聞くはめになった。全く出会いとは不思議なものですね。想像を絶する自然の驚異との過酷な闘いの半世紀を絵に描いており、それらの作品を出身地の多摩地区で開きたいというのが、宇宙さんの突然の訪問の要件であった。それも1年後に!

地球の反対側に住んでいる人と1年後の約束なんか…信じたくても信じられない気持ちであったが、宇宙さんは朝日ギャラリーの予約をして引き上げられた。その当時、宇宙さんは68歳。気が変わったら困る。身の上に何かあったらどうしよう。まだFAXもメールも普及前であったから、定期的に手紙で宇宙さんと連絡を取り合った。

           ◇ 安井宇宙展~アマゾン開拓半世紀 ◇
f0137096_0435819.jpgところが宇宙さんは約束通り、1年後の1988年7月に信子夫人と来日して『安井宇宙展~アマゾン開拓半世紀』が無事に開催された。アマゾンに半世紀以上暮らしても古武士の風貌通り、律儀な日本人気質を堅持していた。

16歳でアマゾンに向けて渡航する時に餞別として希望したのが油絵の具一式だったそうで、還暦を迎えた頃から絵筆を握るようになったとのこと。ベレンでは個展を毎年開催、パリの『サロン・ド・ドートンヌ展』にも出品している。

アマゾンに暮らす画家のアマゾンの絵”ということで宇宙さんの初個展は会期中に1000人近い人が訪れた。「やっと青少年時代の夢がかないました。昭和初期にアマゾン流域の開拓に挑み、胡椒やジュート栽培で産業らしい産業を成功させたのは日本人移住者です。その足跡を母国の人々に知って貰いたかった」と、宇宙さんは上気していた。

           ◇ 絵だけでなく文章でもアマゾン開拓を ◇
f0137096_0483797.jpg黄色いお汁粉のような泥水の荒波を漕ぎ進むボート、真っ赤に染まった空と流れに木の葉のように浮かんだ大型船、腰まで水につかりながら作業する半裸の男たち、暗雲の迫る大地を疾走する牛の大群、川とも陸地とも見境のつかない大自然…約40点の宇宙さんの作品はとにかく異色でスケールが大きかった。

連日、会場で作品に描かれている風景や働く人たちの解説をしている宇宙さんの話が面白くて、私は「アマゾンでの体験を文章でも綴ってみませんか」と声をかけた。その場でははっきりした返事はなかったが、「いずれ挑戦してみます」と言い残してアマゾン河口の町ベレンに帰って行った。4年後に2度目の個展を開催したいと会場も予約して…。

           ◇ ひたすら原稿待ち ◇
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宇宙さんがベレンに帰ってからも月に1~2回手紙を交わしていたが、アマゾン開拓史については触れられていなかった。日常はポルトガル語を使っているそうだから日本語で文章を綴るのは気が重いのかな…。淡い期待の半面で、文を綴ることの難しさを私自身毎日味わっているだけに、プレッシャーをかけないようにしていた。でも私自身が宇宙さんのアマゾン開拓に出かけた経緯や状況を知りたくて、心のどこかで手記が届くのを待っていた。

           ◇ 日本人ブラジル移住100年 ◇
明治41年(1908)に移民船笠戸丸に乗った初めての日系移民がブラジルに到着してから、2008年の今年で100周年を迎える。『日本人ブラジル移住100周年記念』として様々な式典イベントがサンパウロを中心とした各地で計画されているが、アマゾン開拓については殆ど知られてない。

同じブラジル国内とは言え、サンパウロを中心とした南伯(ブラジル南部地域)とアマゾン流域では、気候風土をはじめとして別の国といっても過言ではない。サンパウロからアマゾン河口の都市ベレンまで飛行機で6時間かかる。成田からシンガポールまでのフライト距離に等しい。南伯の日系人にすらアマゾン流域の日系人の存在は知られてないそうだから…。宇宙さんのアマゾン開拓のあらましは次回に。
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by love-letter-to | 2008-04-21 00:51 | 人間万歳! | Comments(4)

百草画荘の善太郎画伯

          ◇ ワインカラーのルパシカにベレー帽 ◇
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梅はおろか葉桜のシーズンになってしまったが、梅が開花する頃になると、故小島善太郎画伯を懐かしく思い出す。梅の名所として知られる百草園の真向かいに住んでおられた。小島邸の庭園も百草園に劣らず見事な景観で、初めて訪ねた時は紅白梅が咲き香っていた。

「ここは背後の斜面が北風を遮って、冬でも天候のいい日は温かくて庭で写生をするのが日課」と、善太郎翁はルパシカ風のビロードの上着に同じワインカラーのベレーをかぶって、鉛筆を走らせていた。「ワァッ~!凄くお似合いで、ファッショナブルですね」と目を見張ると「そうかね。ファッショナブルかね」と小島翁は子供のように喜ばれた。
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日本の初期洋画界に革新をもたらした『独立美術協会』の創立メンバーで、当時、米寿を迎えておられたが、創作意欲で奥まった目がランランと燃えていたのを昨日のことのように思い出す。

 ◇ アトリエで極楽気分 ◇
30畳以上はあろうか、天井の高い広々としたアトリエに足を踏み入れた途端、展覧会場にいるような気分になった。三方の壁はサムホールから100号あまりの大作で埋まっていた。

処女作「村の娘」、安井曽太郎に賞賛され大正展覧会で受賞した「四ツ谷見附」、在仏時代にサロン・ドートンヌ展にて入賞した「パリ郊外」から近作まで、アトリエで直接拝見する幸せに浴した。“セザンヌのリンゴ”に対して“善太郎の桃”と言われるくらい、桃の絵では比類ない画家で、近作には桃の傑作が多かった。f0137096_1013774.jpg

「僕はね、画が自分の履歴書だと思うから、殆どの作品を手元に置いて、毎日眺めて自分を駆り立てているんですよ。十数年前の作品に筆を入れることもある」。その果てしない探究心は暗く重苦しい生い立ちによって培われたという。

 ◇ 暗く重苦しい青少年時代から ◇
善太郎翁によると明治25年に淀橋(現在の新宿副都心街)で生まれ、農業から転じた父親の商売が上手くいかず自棄酒で酒乱と化すのを、母親と弟妹で恐る恐る耐え忍んで育った。尋常小学校を終えると浅草の醤油屋で丁稚奉公に出ることになった。

雑用や注文取り・配達にも追われたが、売掛金の集金がことにつらかったという。谷中の墓地へ逃げ込んでは涙を乾かし、母親や弟妹の顔を思い浮かべて心を奮い立たせる日々だった。

ある日、両足を踏ん張って無心に木立を描いている男と出会った。周囲とは隔絶して絵に没頭していた男の姿に圧倒されて、「画家になろう!どんなことがあっても画家になる」と善太郎少年は自分に誓った。小学生が使うような粗末な絵の具と画帳を買い、わずかな時間でも絵筆を握ると配達や集金の労も救われたという。

          ◇ 絵を描くことが人生の全て・パリも微笑 ◇
「その少年時代の決心は揺らぐことはなかったのですか」と訊ねると、「絵を描くことで私は地獄から救われ、中村覚・陸軍大将や野村徳七・野村證券創始者の温かい支援も受けてパリで勉強をする幸運にも恵まれました。絵を描くことが人生の全てです」と、きっぱり。
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大正12~14年にかけて在仏中はルーブル美術館に通い、イタリアルネサンス期の画家ティントレットの300号の大作『スザンナ』の模写に励んだ。「さすが美術の都パリ。私のような東洋から来た画家の卵でも模写を許可され、心行くまで研究をさせてくれた。パリが私に微笑してくれた」と、小説よりもドラマテッィクな善太郎翁の話は尽きることがなかった。

後に『独立美術協会』を創設するきっかけとなった佐伯祐三里見勝蔵らと親交を結んだのも刺激になり、画家の登竜門であるサロン・ドートンヌ展に在仏日本人の中でいち早く入賞して自信を得たそうだ。

          ◇ セザンヌのように地方に住んで ◇
帰国後は新進画家として目覚しい活躍をするが、セザンヌのように中央画壇の派閥争いや“政治闘争”には背を向けて多摩に引きこもり、ひたすら自分の画に向かい合ってきたという。孤高の画家とか画壇の異端児とも言われてきただけに、この日のインタビューを喜ばれた。

「先生は何故、桃の絵をよく描かれるのですか?」「あの柔らかな質感と微妙で豊潤な色彩が私を魅了して、もっと美味しそうに描きたい。ジューシーに描けないものだろうか…と、寝床の中でも考え、翌朝が待ちきれない」と上機嫌で、恒子夫人手作りのお昼もご馳走になった。
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          ◇ 大音響で叱られた日も ◇
しかし一度、善太郎画伯に大音響で怒鳴られたこともある。1982年10月にオープンした立川駅ビル開設記念展として『小島善太郎・卆寿記念展』の開催準備中のことだった。私は実行委員会のメッセンジャー役として再三、百草丘陵の坂を上り小島画伯のアトリエに通っていた。

「あなたには失礼だが、朝日新聞社や駅ビルから何故、展覧会の責任者が一度も顔を出さないのか?これまで私の展覧会には美術館館長や主催デパートの重役が必ず足を運んでくれたのに…このままでは展覧会は取り止めだ!」と真っ赤になって、鬱積していた不満をぶつけられてしまった。
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「今回の先生の展覧会場の立川駅ビルはまだ建設中という特殊な事情で、10月1日オープンに向けて最後の追い込み段階なんです。完成させることが先決で250店舗のテナントとの調整にも責任ある地位の方は日夜追われて…、だから私のような下っ端記者が使い走りをしているんです」。心臓がオーバーヒートしそうになりながらも、私は諸事情を打ち明け説得に努めた。実は展覧会会場設営やポスターやチラシ、入場券などを含めると約1,500万円もの経費がかかり、その確保にも関係者は走り回っていたのだった。
          ◇ 青梅・小島善太郎美術館の建設にひと役 ◇
善太郎画伯も特殊な事情を納得されたようで、「あなたに済まないことを口にしてしまった」と、深々と詫びられた。後々、小島家のファミリーから「パパに頭を下げさせたのは、あなただけよ」と、語り草にもなった。ことに小島家の次女の敦子さんが私と同じ名前であったことも幸いして、末っ子のように可愛がってもらった。f0137096_10144927.jpg今春も梅の時期に百草園を訪ねる機会を逸してしまったが、梅の咲くシーズンになると、善太郎翁のあの剣幕に鼓動が高鳴る。この卆寿展がきっかけとなり青梅市立美術館の一角に『小島善太郎美術館』の建設が早まり大変喜ばれたことも懐かしい。

この卆寿展の2年後、善太郎画伯は92歳で他界された。存命中の最後の展覧会になっただけに思い入れも深い。
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by love-letter-to | 2008-04-14 10:15 | レクイェム | Comments(15)

第三の男と大岡越前守

          ◇ 心の琴線に触れるツィターの音色 ◇
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古代ギリシャで奏でられ、天使が聖フランシスコのために演奏されたという古楽器ツィター。映画『第三の男』ので一躍有名になった弦楽器で、『第三の男』がツィターの代名詞にもなっている。その世界有数のツィター奏者・河野保人さんの演奏会が今春も国分寺市いずみホールで開かれる。練熟した技術で“心の琴線に触れる音色と響き”を奏でるのが河野さんのツィターの魅力である。

          ◇ 世界有数のツィター奏者との出会い ◇
f0137096_15283793.jpg世界有数のツィター奏者が国分寺市に住んでおられると耳にして、恐る恐る河野保人さんをお訪ねしてからも30年以上になる。飛び切りチャーミングな笑顔と温厚な話しぶりに初対面の緊張はたちまちほぐれ、愛用のツィターを持ち出して気さくに演奏もして下さった。ツィターが愛しくてたまらないように両手の指を走らせて奏でた姿と音色は私の脳裏に焼きついて離れない。指の動きの美しさの虜にもなった。

河野さんはその当時、イタリアンレストラン・銀座ジローで毎週ウィークエンドの夕方にフロアで演奏をしていた。その演奏の素晴しさが口コミで広がり、私の耳にも届いて来たのだった。

膝の上に乗るくらいの卓上楽器だが、メロディを弾く金属弦と伴奏弦を合わせて30~70本もあり、一台でハープとギターの性能を併せ持つという。弦と弦の間隔はわずか5ミリ、しかも音階がドレミファ…でなく複雑で“ビミョー”。同じツィターでも楽器によっても音階が異なるだけに演奏は難しく、本場ドイツ・オーストラリアでも演奏家は数少ない。

          ◇ 幻となりつつあるツィターの音色を何時までも ◇
f0137096_15294352.jpgツィターで演奏される曲は古典派以前のバロックや中世の音楽が多く、いわゆるクラシックファンにも馴染みが薄いかもしれないが、「ベートーヴェンやモーツアルトばかりでなく、それ以前の時代に街角やサロン、教会などで親しまれてきた音楽にも素晴しい曲があり、心を和ませ魂を癒してきた音楽があることを知ってほしい。本場でも幻となりつつある楽器としてのツィターを大事にしたい」というのが河野さんの願いでありポリシーでもある。

ツィターは金属弦から発する青空のように澄んだ音色に、ガット(羊腸)弦の柔らかい陽射しのような音色が降り注いで、全身マッサージを受けているような心地に誘ってくれると思う。巧みな指先からメロディと伴奏までやってのけるのもツィターならではだろう。

元々はヴァイオリン奏者として活動していた河野さんだが、ドイツのカッセルという町のオーケストラ奏者としての試験に合格。渡独して演奏生活の傍ら耳にしたツィターに“ひと目惚れ”。恋してしまったそうだ。演奏が難しいだけに面白くのめり込んでしまった。

耳で学び、演奏方法を手探りで求め深みにはまってしまったそうだ。「日本人でツィターを弾く奏者がいる」と、本場ドイツでも評判になりサロンコンサートで引っ張りだこだった。

            ◇ 後援会長の寛仁親王殿下に直接 ◇
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しかし、河野さんは日本でもツィターを広めたいと帰国を決意。直後はツィターを演奏する場が少なかったが、次第に口コミで河野さんの存在が広まり、現在は後援会の支部が全国に30ヵ所以上もできてファンから心待ちにされている。ファミリーに語りかけるようなトークを交えながらの演奏は、アットホームで他の演奏会では味わえないものがある。

その後援会長は三笠宮寛仁親王殿下で、毎年秋に行われる『河野保人ツィターコンサート・魅惑の名曲集』には後援会長として臨席。スピーチでは自らの癌闘病体験もあっけらかんと語りながら、河野さんの演奏活動に熱い声援を送る。
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寛仁親王殿下のような皇族が一演奏家の後援会長を引き受けられた経緯を、昨年の秋のコンサートの打ち上げ会で直接、伺ってみた。「僕はイギリス留学時代、スキーツアー先のスイスやオーストリアなどのホーリゲ(居酒屋)で、ツィターの生演奏に親しんで、雰囲気のいい音楽だな。くつろげる音色だなとファンになって帰国したんですよ」。
          
その後、寛仁親王殿下は身体障害者協会の会長に就任して、年大会を盛り上げようとボランティアの演奏家を呼びかけたら、河野保人さんが参加して、素晴しい演奏を聞かせてくれた。純粋な音楽家としての河野さんの姿勢にも打たれて後援会長を進んで引き受けられたとのこと。河野さん自身はそうした内輪話は口にしないので、思い切って殿下にアタックしてよかった。

           ◇ TVドラマ大岡越前守のテーマソング ◇
ツィターと言えば、かつてTVの人気連続ドラマ『大岡越前守』のクライマックスで流れてくるのは、河野さん演奏のツィターの音色である。大岡裁きとツィターはミスマッチのようでいて、演奏を聴くと意外や意外!加藤剛の顔が懐かしく浮かんでくる人も多いのでは…。

           ◇ 河野保人ツィターコンサートが4月18日に ◇
f0137096_1537797.jpg今年で18回目を迎える国分寺市での『河野保人ツィターコンサート』は、地元ファンたちの声に応えて市内の小学校の音楽室や体育館で始まり、『国分寺ツィターを愛する会』の主催で定期化して今日に。今春は4月18日(金)19:00から西国分寺駅南口のいずみホールで開かれる。長男の直人さんもツィター奏者としてデビューして15年以上になり、父と息子によるツィター・デュオは世界でも例のないコンサートだ。父子と言えども個性の違う二人による演奏は共演というより競演で、演奏の厚みと迫力も聴き応えがある。入場料は3,000円(自由席)。申し込みと問い合わせは042-322-0216河野保人後援会事務局か、042-322-2133…愛する会・三沢さんへ。
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by love-letter-to | 2008-04-06 15:44 | 人間万歳! | Comments(9)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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