忘れ得ぬ人々& 道草ノート

ankodaira.exblog.jp
ブログトップ

<   2008年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

道草ノート:捨て猫ホームレス その②

f0137096_12292551.jpg

  季節を逆戻りさせてしまうようですが、吾輩ソクラテス…じゃなかった!
  捨て猫ホームレスの花暦を追ってみると、春は三月、梅が開花する前後に
  なると玉川上水では・・・
f0137096_1233611.jpg
f0137096_12412613.jpg

[PR]
by love-letter-to | 2008-05-27 12:34 | 小平の原風景求めて | Comments(0)

道草ノート:捨て猫ホームレス その①

f0137096_21183127.jpg

 やり残していた宿題をそろそろ片づけなければ…と、古い記憶の糸をたぐりながら
 『忘れえぬ人々』を紡いできましたが、ここいらで気分転換をして、新しいシリーズを
 予定しています。

 『忘れえぬ人々』は一年の予定でしたが、脱線したりオーバーヒートして長引いてし
 まいました。まだまだ忘れえぬ人々は沢山おられますが、写真をあちこちに突っ込
 んであり、家探しするのにギブアップ。“証拠写真”がなければ、単なるモグラの自
 慢話か作り話に終わってしまいますから。

 しばらくエスケープして、リフレッシュしてから『道草ノート・小平の原風景を求めて』
 に取り掛かりたいと…。昨年あたりから小平市内は急速に変化しており、しばらくぶ
 りに訪ねると道筋が分岐してピカピカの住宅群に出会い、“今浦島”さんのような心
 境に陥ることもしばしばです。

 その準備段階として『捨て猫ホームレスと草木の花のおしゃべり』短編シリーズを…。
f0137096_13561574.jpg

f0137096_212046.jpg
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
f0137096_21211073.jpg

f0137096_2394317.jpg

f0137096_23113195.jpg

f0137096_21234199.jpg

[PR]
by love-letter-to | 2008-05-20 14:15 | 小平の原風景求めて | Comments(10)

多摩の植物散歩 その②

           ◇ 早トチリとトンチンカン ◇
f0137096_19451059.jpg
ある時、向かいのデスクの横田部長が「ケーリがね…」と、声をかけてきた。一瞬、「経理の清算が間違っていたのか」と早トチリした私は、「経理のキクちゃんが珍しく電卓でも打ち間違えたのかしら」と、気のない返事をしてしまった。

「その経理でなく、ケーリさんが久しぶりに上京することになって、明日会うことになったんですよ」と、横田部長は私のトンチンカンぶりいささか気をそがれてしまったらしいが、嬉しくて黙っていられない顔つきだった。

ケーリなんて気安く呼ぶから経理と早合点してしまったが、当時、同志社大学の名物教授オーティス・ケーリさんで、『太平洋の生還者』を読んで以来、一度お会いしたい方だった。
           
ケーリさんは“ALWAYS3丁目の夕日”の時代頃、新聞や雑誌によく登場し、日米比較文化論についての対談やエッセーは軽妙洒脱で、私には憧れの文化人だった。

           ◇ べらんめえ調の日本語に度肝を抜かれ ◇
横田部長によるとケーリさんはアメリカでも名門のアーモスト大学在学中に海軍に入隊して、太平洋諸島を転々とした後にニーミッツ司令部情報部員としてハワイの捕虜収容所で日本兵から情報を収集する特殊任務についていた。f0137096_19542558.jpg

ケーリさんは1歳の時に宣教師の父親と来日。幼少年時代を日本で送っているので日本語の読み書きができる要員として、ハワイの捕虜収容所で特殊任務に。そこでグアムで投降し捕虜となった横田兵士と出会ったのだ。「階級順に並べ!上等兵、伍長、軍曹、少尉…大佐、元帥、おっと元帥はいねぇか」と、べらんめえ調で捕虜たちの度肝を抜いたのがケーリ中尉だった。

捕虜とその管理をする立場、国力をかけて決死の戦いを続けている日米の立場を超えて、ハワイの捕虜収容所ではマル秘のグループが啐啄の時を迎えようとしていた。「両国と両国民のために一時も早く戦争を終わらせたい」という一念だけで、ある作業に勤しんでいた。 (啐啄=雛が卵の殻を嘴でつつくこと)。

           ◇ ハワイ捕虜収容所での親米派 ◇
日本人より日本語に通じ、近松門左衛門や松尾芭蕉など古典から現代文学まで研究対象とし、三島由紀夫作品など数多く英訳。英語圏への日本文化の紹介・解説者として知られるドナルド・キーン・コロンビア大学名誉教授もハワイで特殊任務についていた。f0137096_1956940.jpg

戦争末期、日本本土でもB29からばら撒かれた“早期戦争終結”や“ポツダム宣言受諾”を呼びかけるアジビラを記憶している方もいるだろう。私自身は九段下の『昭和館』で目にしたと記憶している。その宣伝ビラを作成していたのがケーリさんと横田さんら親米派捕虜だと聞いている。

ケーリさんやキーンさんらと横田さんら一部の親米派捕虜との結びつきは、戦後も交流が続けられており、『バリバリ会』と称して1年に1回交流会を開いてきたそうだ。


           ◇ 実は私の亡父もグアム生還者 ◇
実は私の亡父もグアム島で捕虜となり、ハワイの捕虜収容所にしばらく収容されていたが、満杯状態になり米本国の収容所に送られて、綿摘みなどの強制労働に従事した後、昭和22年の1月に日本へ送還された“生還者”の一人だった。父も戦地や捕虜収容所時代のことは黙して語らずの大正生まれだった。ただ、コーヒーとステーキが大好きで81歳で他界するまで愛していたことから察すると、親米派に近かったのではないだろうか。

そんな父親を持つことからも、ケーリさんと横田部長の『バリバリ会』には関心があって、原稿の締め切りにヒーヒー追われながらも、横田部長が“ケーリ”と口にすると引きずり込まれるのだった。

                ◇ セピア色の3冊 ◇
しばらくして、横田部長が出社してくるなり、厚い紙封筒を私の机にポンと置いて「興味があったら読んでごらん」と、言い残して取材に出かけたことがあった。中には『ジープ奥の細道』と『日本の若い者』『日本開眼』の3冊が入っていた。
f0137096_2003681.jpg
いずれも昭和25~28年に相次いで出版されており、頂戴した時には既に出版後30年以上も経って、表紙もページもセピア色に変色していた。もちろん絶版になって久しかった。

3冊とも著者はオーティス・ケーリさんになっているが、加筆監修というより横田部長との共同執筆と言った方が相応しい。ことに『ジープ奥の細道』は戦後間もない昭和24年9月、手に入れたばかりのおんぼろジープに新婚のアリス夫人と生後半年のベスことエリザベスちゃんを乗せて、京都からケーリさんの生い育った北海道を目指してロングドライブした紀行文である。

           ◇ ケイトねえちゃんとロングドライブ ◇
f0137096_2064176.jpg生後半年の乳児ベスちゃんを同行させるなんて「そりゃ無茶だ!」と、非難ごうごう。“ケイトねえちゃん”と名付けた進駐軍ご用済みのジープがとんでもないおんぼろで、エンコ続きの上に、当時の日本は幹線道路も穴ぼこだらけ、未舗装部分も少なくない。

芭蕉が奥の細道をたどった時代から220年後とはいえ、日本のローカルは古き時代の慣習を頑固に留めており、目の青いケーリさん一家は行く先々で“見世物”さながら。しかし人情機微に触れながらのドライブはお腹がよじれてしまうほど可笑しく、日本人の特性を浮き彫りにしている。現代にも通じる日米比較文化論が語られている。

横田部長はロングドライブの一部を同行取材しており、「原稿料はケーリと折半。お互いにOK」と握手してさっぱりしたものだったとのこと。

           ◇ 愛用のループタイをプレゼントされ ◇
ケーリさんと横田部長の共同執筆3冊の他に、私は愛用されていたループタイも頂いた。横田部長の送別会の数日前のことだった。f0137096_209775.jpg

ベンガラ色の木彫りの梅は棟像志功の手彫りだそうだ。志功が世に出る以前、居候をしていた市川・式場隆三郎邸のお嬢さんたちにプレゼントした帯止めをループタイにリフォームしたもので、精神病理学者で芸術にも造詣の深い隆三郎博士の妹が横田部長の奥様であった。「女房があなたに使ってほしいと言っている」と横田部長から手渡された。お礼の言葉に代えてひたすら大事に使っている。時を経るにつれ津軽塗りの輝きが増しているように思う。
f0137096_20125248.jpg

[PR]
by love-letter-to | 2008-05-13 20:13 | レクイェム | Comments(7)

多摩の植物散歩 その①

           ◇ 草の心 木の心 土の心を ◇
f0137096_14473920.jpg
「ホトケノザというのは春の七草の仏の座とは違う野草でね」とか「今日は五日市の山地を下ってきたところで、ホオノキ(朴の木)の花が目の高さでユッサユッサ揺れて壮観でした」と、取材先から帰るなり嬉しそうに話しかけてきた横田正平さん。

足まめで観察眼は鋭いが“草の心”“木の心”“土の心”が伝わるような植物エッセーの名人だった。図鑑や文献も丹念に調べ、写真の腕もプロ級で毎日のようにニコンの一眼レフを抱えて多摩の山野を駆け巡っていた。片栗の花ひとつ取材するのに3~4回は通っていた。

           ◇ 金魚の糞のように ◇
f0137096_14492544.jpg元の職場アサヒタウンズで創刊当初は校閲と読者通信欄を担当されていたが、その後、報道部長として原稿の書き方のイロハから教わり、金魚の糞のように取材先にもくっついて行った。横田部長の足は早くて短足の私は毎度小走りしながら、フウフウ言わされたっけ。

普段は寡黙でちょっと煙ったい存在でもあったが、昭和52年1月から『多摩の植物散歩』の連載が始まると、取材先で見聞した草木の花について、それは愛おしそうに口の封を切る。

            ◇ 道端の草なんか…と ◇
日が西に傾いてくると、当時の下田尾健編集長に「お茶を一杯どうですか」と、仕事机の端に湯のみをコトンと置くことが多かった。目の前の私には「これはお茶ですからね」とウィンクして、二人でコップ酒を飲み始めると横田部長の舌はさらに滑らかになった。

当時、横田部長は還暦に近く、20~30代そこそこの女性記者たちとは年代差もキャリアも差がありすぎて近寄りがたく、「道端のありきたりの花なんか何で面白いんだろう」と“土産話”を聞かされるのは有難迷惑でもあった。f0137096_14505719.jpg
「草花に興味を持つようになるのは、年寄りになった証拠だそうよね」と、陰口もたたかれていた。横田部長の正面に座っていた私は否応なく相槌だけは打っても、肝心の植物の名前すら右の耳から左へ抜けてしまうのが常だった。

◇ 太平洋の生還者本人とは ◇
ある時、「横田部長は『太平洋の生還者』の主人公で、筆者の上前淳一郎の上司だった」と耳にした。『太平洋の生還者』は第二次世界大戦で玉砕したグァム島から劇的に生還した兵士のドキュメントで、第3回日本ノンフィクション賞、第8回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だったから、私も読んでいた。

しかし、目の前にいる横田部長がその生還者本人とは!グァム島玉砕寸前に投降して捕虜として米軍に協力した兵士だったという。戦争が長引いて故国が焦土と化すのを避けるために、戦争の終結を促す米軍作戦に協力したそうだ。当時の日本兵として珍しくクールでインテリジェントな陸軍兵士だったが、敵国に協力したとあっては…。

ハワイでの抑留生活を終えて敗戦国日本に引き揚げ、朝日新聞社に復帰してからも、その事実は殆ど語られず四半世紀を経て、部下の上前淳一郎記者によって明らかになった。何故、堅く閉ざした“貝の口”を開く気になったのか…横田部長に面と向かって聞く勇気はなかったが、「やっこさんに嗅ぎ付けられたんだ」と漏らされたことをおぼろげに記憶している。

           ◇ かつての玄関口でのトピックス ◇
それはそれとして、横田部長の駆け出し記者時代や支局長時代の裏話は実に面白かった。当時、人気だった連続テレビドラマ『事件記者』なんかお呼びじゃないほど、スリリングでヒューマニティに富んでいてしびれた。“筆の立つ記者の話は面白い”というのは事実だと思った。f0137096_15501553.jpgとくに私は戦後の横浜支局時代の話を聞くのが楽しみだった。当時、横浜港は海外の玄関口であったから、内外のVIPは横浜の税関を通る。税関で待ち受けてインタビューをした相手には現陛下の皇太子時代の英語教師バイニング夫人、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士や友永振一郎博士など…世界的な物理学者の友永博士が渡米したときの粗末な船室にいたく同情し、日本の学問に対する待遇のお粗末さを知らされたという。

           ◇ 新居に植えたバラが植物への興味を ◇
横田部長は昭和30年前後に退職金の前借をした50万円で土地を買って新築したという川崎市の自宅に、バラを数本植えたのが植物に興味を持つきっかけだそうだ。「育ててみると我が子以上に可愛いですよ」と、風船蔓や女郎花、花大根の種を頂くこともあったが、当時の私は食べ盛りの息子の朝晩と弁当作りに追われて植物の世話どころではなかった。

しかし、それから約30年、私は玉川上水の草木の花を追いかけながら、あの頃、もう少し身を入れて横田部長の草花の話を聞いておけばよかったと後悔している。そして私も野草に興味を持つ年代になったんだと、思わずにはいられない。
f0137096_1513622.jpg

           ◇ 手製のモノクロ写真葉書 ◇
横田部長が65歳で退職された後も、しばしば写真葉書を頂いた。葉書大にカットしたモノクロ印画紙にご自分で撮影した写真を焼き付けたオリジナル葉書だ。現在のようにデジカメ・パソコン・プリンターのない時代から、横田部長は手製の写真葉書を常用していた。裏面にはブルーブラックの万年筆で近況や、相変わらず続けておられた植物ルポのエッセンスが走り書きされていた。リタイア後も筆まめだった。
f0137096_15143556.jpg
まるで老いとは無縁に思われた横田部長だったが、昭和60年春に入院され病状は深刻だと知らされた。前立腺癌が発見された時は末期だったそうだ。いよいよ危ないと聞いて編集部員揃って駆けつけた6月末には…もう意識も定かではなかった。

           ◇ 他界後に上梓された珠玉の2冊 ◇
7月に他界された後ご遺族が書斎を整理していたら、『多摩の植物散歩』の原稿が出版を待っているかのように清書されていたそうで、三回忌を前に草思社から上梓され植物名コラムは陽の目を見たのだった。私の愛読書であると同時にホームページ『玉川上水の草樹の花』のウォッティングにも参考にさせてもらっている。有難い“虎の巻き”の存在だ。
f0137096_15514266.jpg
もう一冊、“太平洋の生還者”本人が戦地で肌身離さず持ち歩き、激しい戦闘の嵐でも記録していた手帳を元に、死ぬ間際まで書き続けていた戦争体験も、横田部長の死後5年目に出版された。その『玉砕しなかった兵士の手記:草思社刊』も、あの死闘の中でよくぞ冷静に戦争を見つめ、米軍に投降してハワイのキャンプでの極秘行動も綿密に綴っている。あの世へ旅立つ前に貴重な手記を遺された。

記録としても素晴らしいが、表現力豊かで無駄のない文章が心を打つ。枯れた心を潤してくれる。珠玉の手記である。
[PR]
by love-letter-to | 2008-05-06 15:26 | レクイェム | Comments(4)