ザ・武蔵野インディアン

筍のもだえ焼き”で忘れようにも忘れられないのは、その絶妙なネーミングの主の
砂川昌平さんである。初めてお会いしたのは立川市の教育長の後、監査役も退い
た1980年代半ばで、「公職とはおさらばしたからサバサバしてるんだ」と言いなが
らも差し出された名刺の裏には、納まりきれないほど肩書きが印刷されていた。

「筍はサ、やっぱり『檀流クッキング』の竹林焼きが一番だナ。朝掘りのケツから酒
を飲ませてアルミホイルにくるんで、焚き火で…」と舌なめずりをしながら、蒸し焼き
された筍がもだえるように昌平さんは身を揺すって、その旨さを自慢した。
「そんなに美味しい話ばっかりでなく、食べさせて下さいよ」ということで、毎年4月
末に行われていた『竹の子会』に顔を出すようになったのがそもそも。
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昭和59(1984)年8月、玉川上水に“清流が復活”した機会に、アサヒタウンズで
『玉川上水』の長期連載に取り組むことになった私は、砂川分水と砂川新田につい
開拓者直系子孫からじきじき話を聞こうと出かけた。

ところが、「古文書の類も水車一式もすべて立川市に寄贈しちまったから、市の歴
史民俗資料館に行った方がいいよ」。ぶっきらぼうな返事に、これが小耳にはさん
でいたショッペイさんか…と。教育長や監査役の立場上、言いにくいことも言っての
けてきたらしく、昌平をもじってショッペイと煙たがる人も。

出鼻をくじかれ、話の接ぎ穂を探して旧家の鴨居や柱を見回していたら、「子供の
頃はさ、春先の風の強い日には読んでる本の次のページをめくるまでに、砂埃が
たまって…こうやって砂を払ったもんだよ」と、傍らの本を手にひっくり返してパタ
パタ振る手つきをした。

「エッツ!砂川さんちのような豪邸でも、目に見えるくらい砂埃が部屋に入ってき
たんですか?」「そうさ、砂川では神棚に牛蒡の種を蒔きゃ、芽が出るってサ。こ
の辺りの土は元々関東ロームと言って富士山の火山灰でできてるから、軽くて
春先の季節風に飛ばされちまって、空が灰色に濁り、赤っ風とか黄塵と呼ばれ
てサ、武蔵野の名物だと言われてきたもんですよ」。

次第に昌平さんの舌は滑らかになり、「我々土地のもんは武州多摩郡(ぶしゅうた
まごおり)の百姓です。茅や芒の生い茂る原野を開墾してきた武蔵野インディアン
ですよ。昭和の時代になっても米軍の基地拡張に身体を張って闘争してきたんだよ」。
開拓者子孫で広大は土地を受け継いでいる身を自嘲しながらも、土地バブルに走
る当時の風潮をいささか苦々しく思っている口ぶりだった。
この日の別れ際に、“武蔵野インディアン”は「古文書なんかめくって玉川上水の
歴史をなぞったってつまらん。自分の足で歩き、目で見て、土地の人の話を聞いて
書くべきだよ」と、背中を押されてしまった。今になって思うと凄い慧眼で有難い忠
告であった。

ところで、昭和50年代に発表された三浦朱門の連作『武蔵野インディアン=河出
書房新社刊』の題名も、砂川昌平さんが仲間に語っていたのを小説のタイトルに
したそうだ。朱門さんと昌平さんは東京府立二中(現都立立川高校)のクラスメートで
あった。

ある日、「十勝の大豆を薪釜でコトコト煮てサ、沖縄の天然塩を使って味噌を作っ
てんだ。手前味噌のようだけど、へへへ…これがうめぇんだ」。またも舌なめずり
しながら、味噌作りの話を持ち込んできたことがあった。

立川市の『障害者の働く場を作る会』で、3~4年前から作業所建設資金作りに、
味噌作りに取り組んでいるという。たしか昭和60年の2月11日、昌平さんの誕
生日から仕込みに入った砂川家の味噌蔵に駆けつけた。

会長の昌平さん自ら枯れ木を燃やしたり、煮え立ってきた大豆をつまんで「こう
やって手間隙かけてんだから、まずいわけがねぇよ」と、手前味噌自慢は留まら
なかった。1年寝かせた味噌を3キロずつ100人に頒布する予定が、申し込みが
殺到して1キロずつになってしまった。それでもあぶれた希望者には翌年に回っ
てもらったそうだ。

秋になると、新ソバの旨い話をしにやって来た。「新ソバだと、ソバ粉100%でも
切れねぇんだと。その打ち立てを2斗釜で茹でると手打ち蕎麦専門店の主自身が、
店ではこの味が出せないと言ってんだ」と、昌平さんは鼻の下を伸ばした。その
三日月型の横顔は写楽の浮世絵のサムライに似ていると言われていた。

秋も深まった頃、立川市栄町の手打ち蕎麦『拮更』の店主・酒井登志英さんが道
具一式車に積んで砂川家にやって来た。庭先で新ソバを打ち、窯係りが薪をボン
ボン燃やして煮えたぎらせた2斗釜の中に放り込んだ。一回転したところを掬い
上げ、井戸水で揉み洗いしたソバをツルツルっと頂く趣向だ。20人余りの手が
一斉に伸び、「うまい!」と嘆息したきり、後はソバをすする音だけが屋敷林にこ
だました。

かつて朝日新聞社と全日本写真連盟主催で年2回公募されていた『多摩の素顔
写真展』の提案者で、審査員も務めてきた昌平さん初の写真展『シルクロードの
旅=1992年4月29日~5月5日』の時も、真っ先に口から飛び出してきたのは
「西域はメロンや西瓜、野菜がうめぇんだ」と目を細め、もっぱら食い物の話だった。
青少年時代からライカを手にし、還暦を迎えた時から写真専門学校に通い、小久
保善吉氏らの薫陶を受けて暗室まで設ける本格派だった。
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そのシルクロードの旅で、昌平さんは近くに止っていた現地の人のトラックの荷台
に飛び乗って撮影していたら、突然発車してしまった。「あれっ!お代官さま(昌平
さんのこと)がいない!」と仲間が大騒ぎしていたら、大草原のはるか向こうに昌平
さんがポツンと立っていた。「あやうく草原孤児になるところだったよ」とニヤリ。

トラックは途中で現地人仲間を拾うために停車したので、あやうく草原孤児になるの
を逃れることができたそうだ。“直言居士”、を昌平流にもじって草原孤児とは…!
ピンチに遭遇しても咄嗟に草原孤児なる名言を吐いた元祖武蔵野インディアン
含羞という表現がぴったりするシャイな文化人であった。
平成7年(1995)4月、69歳の若さで旅立ったあの世でも、筍のもだえ焼きや西
域の西瓜の話をしているに違いない。
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# by love-letter-to | 2007-04-21 16:34 | レクイェム | Comments(2)

私バカよね

「私ってバカみたい!何てバカなんだろう!」と呆れたり、自分で自分がイヤになって
しまうことが、毎日起きる。今に始まったことではないが…。

今朝も冷蔵庫の扉を開けたものの、何を取り出そうとしたのか浮かんでこなかった。
パタンと閉めた途端に、「そうだ、とろけるチーズだった」とまた、扉を開ける始末。
これが“老人力”のなせる業か…と、落ち込みながらも決まって内耳の奥からエコー
してくるのが、「あなたバカよね」と、酔っ払い声で陽気に騒いでいたビンさんの歌声だ。

竹薮から筍の先っぽが地面を割って覗くシーズンになると、『竹の子会』と称して江戸
初期に砂川新田の開拓を手がけた砂川家の敷地内で、新筍を肴に飲む会が十数年
前まで開かれていた。

掘ったばかりの筍のお尻をくり抜いて地酒をたっぷり“飲ませ”、アルミホイルで密閉し
て焚き火の中に埋めてやる。アルミホイルにくるまれた筍はやがて、もだえるようにし
てホクホク焼きあがる。蒸し焼き状態で焼きあがった筍の味は…そこらの料亭では味
わえない野趣とそこはかとした甘みが胃袋を魅了して、参加者は“筍のもだえ焼き”の
虜にさせられてしまった。

筍のもだえ焼き”は文壇屈指の料理人だった檀一雄の『檀流クッキング』の竹林焼きが“本家”だが、その絶妙の名付け親は、当時の砂川家の当主・昌平さんだった。

青竹を切って当座用の徳利やお猪口をこしらえて飲む風流さも『竹の子会』ならでは
だった。宴たけなわになると、喉自慢がそれぞれの十八番を競ったが、一番受けたの
ビンさんの「あなたバカよね」だった。

細川たかしのデビュー曲『心のこり』の出だしは、「私バカよね、おバカさんよね・・・」
だが、ビンさんは気やすい飲み仲間に目線を向けて「あなたバカよね、おバカさんよ
ね・・・」と、酔っ払い声を張り上げる。
目線を飛ばされた相手は「何で俺がバカなんだよ!」と息まいたり、「どうせ俺はバカ
ですよ!しかし君の瞳はたったの1ボルト!」と応酬して、どつき漫才が始まり、座は
ますます盛り上がった。

竹の子会』のエンタテイナー・ナンバーワンで替え歌の名手ビンさんだったが、本業
は何と“お硬い”石の彫刻家だ。東京芸大出身で国立駅南口の時計塔や鎌倉の海
100周年記念碑『波動』をはじめ、日野の渡し碑、国立・谷保天満宮境内の『座牛』
『山口瞳文学碑』ほか数多くの作品を制作している彫刻家の関敏さんである。

「また二日酔いだよ」と、チャップリンのような足取りで現われたり、「この間は多摩川
の河川敷で新参のホームレスと間違えられて、縄張りの先輩格から菓子パンをもら
っちゃったよ」と、頭を掻き掻き駆けつけてくることもあった。

硬い石で波や風の揺らぎ、心の襞を表現したいと数トンもある石を相手に鑿をふるっ
ていた姿も見せてもらったことがある。アトリエというよりは工事現場のようであった。
四角い原石に鑿の痕が点になり、線になり、出っ張ったり窪んだりして次第に表情を
つけてくる。

石の声に耳を傾け、石を刻む単純な音の響きの中に自分の世界を刻みたいと、
ビンさんは自著『石に聴く 石を彫る:里文出版』の中に書いてある。
記念碑のような大型作品は、最後にサンドペーパーで磨きをかけて搬出する時には、
ジャッキやクレーンを使う。

そんなハードな仕事から想像できないビンさんのひょうきんさは『竹の子会』の
アイドルであった。その仲間はビンさんを中心にした東京芸大の彫刻家・画家
たちや全日本写真連盟のトップクラスの写真家たち、新聞社関係の人たちと幅広く、
気の張らない交流の場になっていた。

ビンさんの「あなたバカよね」を何度も耳にしたメンメンには、なかにし礼作詞で昭和
50年のレコード大賞最優秀新人賞にもなった元歌の題名が『あなたバカよね』であり、
歌詞も「あなたバカよね・・・」で始まると刷り込まれているのではないだろうか。そのくら
いピッタリはまる名調子だった。

こんな馬鹿げたことはしっかり記憶しているのに、置き忘れ、物わすれで時間を浪費し、
ドッキリ、ガッカリしながら暮らしている私って本当にバカですよね!
認知症の兆しかと恐れつつ、渡辺淳一の最近のベストセラー『鈍感力』を読んでみたい
と思っている。
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# by love-letter-to | 2007-04-15 08:23 | 人間万歳! | Comments(3)

老春のハイデルベルク

       ◇ ヨロー社長の助け舟 ◇
「きみ~ぃ、どうすんだ!800通以上もの応募葉書をどうやって始末をつけるんだ!」
社内中に響き渡るような大きな声だったが、温かさと励ましのこもった声をかけて
くれたのは、元の職場アサヒタウンズ(朝日新聞の姉妹社)の高木四郎社長だった。

我が家で採れた一握りのフウセンカズラの種の配布を紙面で呼びかけたところ、翌日
から申し込み葉書が続々。1週間で860通を上回って困惑してまった。
その応募葉書の山を見て高木社長は反響の大きさに驚くと同時に、「もしかしたらフウ
センカズラの種の提供者が現れるかもしれないから、紙面で呼びかけてごらん」と助け
船を出してくれ、『編集室から』のコラムでも軽妙な筆致で応援してくれた。
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本名は高木四郎(しろう)だが“ヨローさん”の愛称で呼ばれることがもっぱら。名前の
字面からであろうが、「よろめきのヨローなんだ」と、高木社長の旧友から若かりし頃
の艶っぽい武勇伝を、面白おかしく聞かされたこともある。元朝日新聞東京本社の社
会部長というより、文化人という方がぴったりくる教養のある名文家であった。

       ◇ ポケットマネーでハーゲンダッツを ◇
昭和47年(1972)9月、十数年ブランクの後、私が潜りこんだ職場の社長が高木さん
でなかったら・・・。創刊・入社式の社長挨拶も「これまでにない自由で家族的な雰囲
気の職場にしたい」と、社長も編集長も、“さん”付けで呼び、朝10時出勤すると、まず
ドリップコーヒーを飲んでから、仕事にかかるのが日課であった。
社長がポケットマネーでハーゲンダッツをどっさり買って、冷凍庫は満杯になることも。
夕刻ともなるとアルコールの入ったグラスが回って来る職場であった。

ヨロー社長から直接、文章のイロハを教わることはなかったが、記者の卵が書いた記
事に「面白い話があるんだなあ」「人物が上手く書けてるよ」とエールを送ってくれた。
“豚でもおだてりゃ木に登る”で、おだてられて育てられ、木に登りっぱなしで今日まで
きたような気がしている。
社長はいうなれば船長さん。ヨロー船長の船に同船できた幸せをかみしめている。

       ◇ 65歳でドイツ留学 ◇
さて、そのヨロー社長は65歳で引退するなり、ドイツ語の勉強を始め68歳でドイツに留学をして、戦争で絶たれた大学時代の夢を実現させた。

その留学先がマイヤー・フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』の舞台となった
由緒あるハイデルベルク大学で、ネッカー川のほとりの美しい大学都市に単身移り住
むという。戯曲のように某国の若き皇太子ではないから、投宿先のメッチェンと恋に落
ちることもないだろうが、古希近くなっても学習意欲と情熱を燃やすヨロー元社長の顔
は輝いていた。f0137096_21524292.jpg
まずは車の国際免許を取り、ドイツ学を学ぶ一方でアウディの中古車を買ってアウト
バーンを走るんだと。

平成4年(1993)3月上梓された5年間の留学体験を綴った『老春のハイデルベルク』を、今読み返して見ると、当時のヨロー元社長の年齢に近づいたせいか、情熱さえあればこれからでも新しいことに挑戦できるんだ!と意を強くする。心は老いないと実感もできる。

       ◇ ドイツ語が上手くなる秘訣は練習あるのみ ◇
68歳の学生は最高齢かと思っていたら、ハイデルベルク大学には何と19世紀生まれ
の学生が在学していてギャッフン!60~70代の学生も珍しくなく特別扱いされなかった。
しかし、入学当初は日本で5年近く学んだドイツ語が役に立たなくてチンプンカンプン。
で、留学生相手の語学校にも通ったが、担当の教師は「ドイツ語が上手くなる秘訣は
練習あるのみ」と。

ドイツの大学は入るにやさしく出るに難しく、日本のようにレジャやーランド化した大学で
はなく、学生はよく勉強し、大学のステータスは健在であった。
学割の恩恵も多々あったそうだ。ドイツにある250校の大学は殆どが国立で授業料は
無料。入学試験に合格さえすれば、留学生もタダで年限なし、しかも転校も自由だった。

さすがヤジウマ留学生は、大学生活だけでなく“老春”を謳歌して、オートキャンプを
体験したり、暇があれば森や林を歩いた。世界各国からの留学生との出会いや文化
比較論は、面白く読ませられる。読むたびに「きみ~ぃ、どうすんだ!」と発した大声
を思い出す。
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昨平成18年は南極観測50周年の年であったが、ヨローさんはその第一回観測隊
同行した二人の記者の一人で、もう一人は田英夫・参議院議員(元共同通信記者)で
あった。
その時のヨローさんの談話も語り草になっている。「僕は外国語がからきし駄目で、
初の海外取材ですが、南極にはペンギンとアザラシしかいないから外国語がしゃべ
れなくても大丈夫でしょう」。抜群のユーモアのセンスの持ち主であった。

そのヨロー元社長は平成16年9月にドイツよりも南極よりも遠い地へ旅立ってしまった。「ちょっと行って来るよ」と言わんばかりの旅立ちであった。
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# by love-letter-to | 2007-04-08 23:09 | レクイェム | Comments(4)

25点主義でエイジレス賞

「あなた、何点ぐらいだったら自分に及第点つける?」「さあ、60点なら及第点かしら」。
会う早々こんな質問をしてきたのは武田満佐子さんだ。

東京厚生年金会館の年金相談室長を最後に、約40年の公務員生活にピリオドを打つ
なり、岡山県立備前陶芸センターで3年。さらに竹久夢二の生家の近くの窯元で3年の
修業を終えて、桧原村数馬に窯を築くために転居したばかりの武田さんを訪ねたことが
ある。

江戸時代は法螺貝の巻き止りといわれた地で、元は奥多摩有料道路建設
事務所だったプレハブを借りて引越をした1週間後に、「荷物が片付いたから取材がて
ら泊まりにお出でよ」と、電話がかかった。

今から21年前の初夏のこと。
「狸やヤモリが毎晩遊びに来るから寂しくないよ。アッハハハ」。当時、武田さんは66歳、独り暮らしを貫いていた。「惚れた男も、言い寄る男もいたけどね」。

ここで引き下がったら、備前での修業時代から文通し、「窯を築いたら真っ先に取材に
行きます」などと、殊勝なことを書き送ってきたのが嘘になってしまう。

武蔵五日市駅から数馬行きバスで1時間、終点から歩いて10分ほど。緑が萌える山
襞から谷川のせせらぎが聞こえてハイキングなら絶好の場所だが、こんな所で寝起き
するなんて!いやはや…と息を切らせて辿り着いた夜のこと。

陶芸の取材に入ろうとした矢先に、武田さんが趣味と称して数え上げたのは陶芸の他
にガラス工芸、薩摩琵琶、紙芝居、写経、和裁、洋裁、習字、短歌、俳句、ダンス、日
本料理、フランス料理、中華料理、一輪車・・・と延々。習い事をしてきたのは50を下ら
ない。

絶句してしまうと、「私はね、25点主義なの。何でも25点取れれば及第だと思うことにしているの。そうすると、チャレンジすることが楽しい。毎日が楽しい。年を取るのも楽しい」。
毎日チャレンジ精神で楽しんでいると、病気の方でも避けて通るのか元気印の武田さんだった。

元飯場の殺風景な部屋での寝起きは、さすがの武田さんも心細かったのだろう。
薩摩琵琶や紙芝居弁士用のド派手な衣装をありったけ、壁や窓際にぶら下げて
古着屋の店内のようだった。「インテリア代わりよ。虫干しにもなるし」とケロリ。

骨董屋で見つけた薩摩琵琶も5~6丁ほど立てかけてあり、私のリクエストに応えて、
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり…」と平家物語の冒頭を弾き語りしてくれた。

肝心の陶芸もプロの陶芸家になったら楽しめない。好きなお酒を飲みたい一心
徳利作りに執着していた。プロと趣味の兼ね合いが難しいと口にしながらも、その後、
備前の焼き〆徳利2点は国際陶芸展に入賞。三軌展と新構造展にも入賞して、
1989年にスターとした第一回エイジレス賞(総務庁)に選ばれた。高齢者が
年齢にこだわらず楽しく充実したエイジレス・ライフを送っているモデルとして。

この道一筋…という方にも多く出会って、言葉では言い表わせないほど感動をもらっ
てきたが、武田さんの25点主義に救われていることも多い。
このブログも「まあ、25点ぐらいで及第点かな」と。

しかし、数馬の元飯場での一夜は怖かった。おどろおどろしい平家琵琶を聞いた後
で、妖怪が纏っているような着物がぶら下がっている部屋。トイレには蜘蛛の巣、鳥
だか獣の蠢く音…まだ耳にこびりついている。
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築200年兜造り茅葺屋根の旅館『兜屋』の上に武田さんの住まいがあった。
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# by love-letter-to | 2007-04-01 22:28 | 人間万歳! | Comments(2)

ヒップアイロン

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ヒップエレキバンならぬヒップアイロン…お尻の下に敷いて、その重力で野草などを
押し花にして旅先から持ち帰る。このグッドアイデアを教えてくれたのは室井光子さ
んだ。もう25年以上も前になるだろうか。

朝日カルチャーセンター立川の随筆講座の作品集で、『砂漠の花』と題した室井さん
の旅行記に惹き付けられた。当時、室井さんは還暦に近かった。
昨今なら60~70代、いや80代でも中近東やアフリカを旅する人は少なくないだろうが、
18世紀のイギリスの探検家マンゴ・パークに発見されるまで未知の川だったニジェール
川4,200キロを遡行しながら、サハラ砂漠の奥地を訪ねる旅に2度も行ってきたという。

気の利いた宿泊施設はないから寝袋を担いで、トイレも人の目をさけて用を足す
“自然浸透式”。女性にとっては最も苦手な難業の旅である。

お会いした室井さんは中肉中背というより小柄で、体育会系には見えなかった。
知的で品のいいシルバー世代。当時40代に差し掛かったばかりの私にはそう見えた。
元は小学校の教師をしていたが、職場の先輩と結婚、出産後は長く箱入り主婦だった
そうだ。

ところが教育に情熱を注いでいた7歳年上のご主人に肺癌で先立たれてしまった。
室井さんは40歳、まだ二人の娘は小学生と中学生であった。周囲のはからいで杉並
区の教育委員会に非常勤で勤めることになり、 仕事柄、海外視察研修にも参加して
視野が開けると同時に旅にはまってしまった。

いわゆる旅行社のパックツアーでなく、世界の秘境を旅してみたいと。そのきっかけが
元朝日新聞編集委員の森本哲郎さんが同行するパキスタン・アフガニスタンの旅
(1976年)であった。
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ヒップアイロンという私にとって耳新しい言葉は、このパキスタン・アフガニスタンの
旅の記録の次のような一節から仕入れた。
「旅行好きな私にとっての楽しみは、旅のアルバム作りと花ノート作りである。美しい
花、珍しい花に出会うと一つ二つ摘み取り、ただちに新聞紙に挟んで、ヒップアイロン(乗り物に乗っている間中お尻の下に敷いておく)をかけては、大切に持ち帰り、
花ノートを作る」。

写真では撮れない質感、その場の雰囲気を伴って、旅の懐かしさを呼び覚まして
くれると、室井さんも書いてあったが、私自身もギリシャの旅ではパルテノン神殿の
傍に咲いていたヒナゲシの透き通った真紅の花弁、スパルタへの山道に咲き枝垂れ
ていたエニシダなどをティッシュにくるんでガイドブックに挟み、ヒップアイロンを大い
に活用した。
薄い花びらなら旅先の空港を離陸するまでに完全にドライになってくれ、鮮やかな
色も保って私自身へのお土産になってくれた。

古代ギリシャのスパルタ教育で知られるスパルタの語源は、エニシダのギリシャ名
スパルヂュからきていることも押し花のお陰で知ることができた。黄色の蝶型のやさ
しい花がスパルタの語源だとは、意外や意外であった。

室井さんは文部省(当時)で実施した海外研修・視察などの参加者で組織した 国際婦人教育振興会の事務局長(1983~1992年)も務め、一時体調を崩しておられたが85歳の今日まで40回以上、50~60カ国以上を旅して、旅の記録集『寝袋の旅ふたたび』にまとめている。旅上手は人との付き合い方も上手で、知的好奇心を絶やさない素晴しい女性だ。

*ニジェール川は、全長約4200キロメートル、西アフリカのフータ・ジャロン高原に発し
、マリ、ニジェール、ナイジェリアを流れてギニア湾に注いでいる。
        《 室井さんの旅のアルバムから 》
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# by love-letter-to | 2007-03-28 11:32 | 人間万歳! | Comments(1)

遊々亭迷々丸さん

今は亡き人々への追想が続いたので、今回は旬の人の思い出のひとコマを。

遊々亭迷々丸と言ってもご存知ないだろうが、落語ファンなら林屋たい平
といえば名前を聞いたことがあるに違いない。日本テレビで日曜の夕方放映している
長寿演芸番組『笑点』にも昨年2006年5月からレギュラー出演している咄家だ。
現在最も売れっ子の一人で、旬の落語家だろう。

たい平さんが武蔵野美術大学の俗に“落研”時代、遊々亭迷々丸と称して
いた頃に会ったことがある。玉川上水を題材にした新作落語を語っていると聞いて、
何度も電話をかけたが呼び出し音が繰り返されるばかり。
まだケイタイのない20年ほど前のことでした。

仕方なくアパートの郵便受けにメモを入れて、彼からの連絡を待つことにした。締め切り
まで1週間。ボツかな…と殆ど諦めかけていた5日目の夜、
「たじかですけど…」と、イキのいい電話が入った。

「えっー!?たじか?」 「ムサビのたじかですが、メモが…」。そこまで聞いて、
相手が遊々亭迷々丸さんだと分かった!本名は田鹿明さんで、ムサビ(武蔵美)
の視覚伝達デザイン学科の4年生。卒業制作の仕上げに埼玉の染色工房に泊り込ん
でいたという。

用件を伝えると、ムサビの落研の部室で『玉川上水』の落語を語ってくれることに
なった。「もの凄く汚い部屋ですよ」 「まあ想像はつくわ」

…ということで、日時を打ち合わせて落研の部室に向かった。驚いたことに、部室で
待っていた遊々亭迷々丸さんは黒紋付の羽織袴姿だった。
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その格好で学園西町のアパートから自転車を飛ばして来たという。「授業よりも落研で
落語やってる時間の方が長かったかな」と、頭を掻きながらも真剣な表情で、
「えー、町が発展してきますと、人間が増えてきます。増えてくると必要なのは出すこ
と。つまりはオシッコ、ウンチ、出さないと死んでしまったり…。さらに必要なのは元素で
ございます。酸素、水素、窒素、炭素、質素、簡素、味噌、醤油…やっぱり肝心なのは
H2O、難しく申しましたが水でございます(以下略)」。

笑顔を絶やさない達者な語り口で、台本のセリフに酸素や窒素に続いて質素や簡素の
ボキャブラリーが登場するあたりは、現在売れっ子の咄家たい平さんの
片鱗が窺えるが、当時、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科卒のデザイナーなら引く
手あまた。アーチストとしても有望かもしれないのに、落語家に弟子入りしたいと話して
いた。

「大学を卒業して、また一から落語家の修業をするのは勿体無いじゃないの?」と、
老婆心が口をついて出てしまった。「だけど、言葉で人の心をデザインできるような
仕事
をしたいんですよ」。

その言葉通り、林屋こん平さんに弟子入り。平成10年頃からNHK総合テレビ
『ふるさと愉快亭 小朝が参りました』にレギュラー出演するようになった時は、
本当に嬉しかった。平成12年(2000)に真打に昇進。最近は少し太めになって画才や
文才も発揮して活躍している。
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# by love-letter-to | 2007-03-25 10:28 | 人間万歳! | Comments(2)

医者 記者 芸者

まだ地域新聞記者の卵だった時代、昭和47~48年当時の小平市役所は旧庁舎(現在の中央公民館の建物)で、その2階の東南の角にあった市長室・応接室を何度か訪ねたことがあった。

当時の大島宇一市長(2代目小平市長)は、人あしらいが上手でコチコチに緊張している記者の卵が名刺を差し出すなり、「あつこさんの敦の字の意味を知っていますか」と言って、敦の字の語源の講釈を始めたのには面食らった。

元々は『叩く』とか『打つ』を意味する文字で、転じて「人の心を打つ」「胸を打つ」という意味が込められているということだった。

しかし、敦の字は音で読むと『敦煌』のとん、あるいは『倫敦』のどんで、“とん”は豚のトンのイメージにつながり、“どん”は泥臭いとかのろまを称して関西弁では“どん臭い”というから、子供の頃から自分の名前が好きになれなかった。また、“あつかましい子”と勝手に解釈して、めげていた。

ところが、大島市長は「とてもいい字を使った名前です。どなたが付けられたのか、付けた方は漢学の素養がおありだったのでしょう。うちの娘も実は敦子です」と、苦笑された時の目尻の皺が印象的だった。

それから数年後、再び大島市長を訪ねた時、私の差し出した名刺を一瞥するなり、
「あなたの名刺は以前に頂いておりますから」と制されて、その記憶力の凄さに恐れ
入った。一介の記者の名前を数年経っても記憶しているとは!

政治手腕は老獪だと評されていた大島市長が高名な言語学者で、諸橋轍次
(もろはし てつじ)編集・大修館書店刊『大漢和辞典』『中國語大辞典』の編纂に
学生時代から関わり、漢和標準辞典の編者であったことは後々になって知ったこと
である。

大島市長にはもう一つ教わったことがある。小平市役所にも当時は記者クラブがあり、
年に1~2回、市長主催の懇談会と称した宴席が設けられた。

日刊紙の男性記者の中に紅一点と言えば聞こえはいいが、地域新聞のしかも週刊新
聞の記者の卵にまでお声がかかり、辞退する勇気もなく恐る恐る末席に座った。
ところが、大島市長がお燗を持って末席にも回ってきた。酒席の作法も知らず丸っきり
下戸の私が困惑していると、「医者、記者、芸者と言ってね、者がつく職業は
ぶってちゃ仕事にならんですよ。さあ少しでも口をおつけなさい」とニヤニヤ。

ともすれば医者も記者も専門職だと思い、思い上がりがちだが、芸者さん同様に
サービス精神が大事であると、大島市長にズバリ指摘され“目から鱗”だった。
事あるごとに『医者、記者、芸者』を呪文のように唱えているが、まだまだ修行は
足りてない。

昭和42年5月~昭和58年4月、4期務めた大島市長は市政から退いた。前後して
小平市役所は新庁舎に移転したように記憶している。
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# by love-letter-to | 2007-03-24 00:35 | レクイェム | Comments(5)

マロニエの木陰の人

情熱的なピアノのイントロから始まる『マロニエの木陰』。マロニエの木陰』と言えば
松島詩子松島詩子といえば『マロニエの木陰』と言われるくらい、往年のファンは
魅了され、忘れがたい名曲である。

リズムの感のあるピアノ伴奏も詩子さん自身が弾いており、歌謡界で“弾き語り”で
歌ったのはこの『マロニエの木陰』がそもそもではないかと。
昭和11年頃レコード吹き込みしたが、それまで3年間もレコード会社のディレクターの
机の引き出しで眠っていた。
音域が広く難しい曲で歌える歌手が見つからなかったそうである。

戦時下の浅草公会堂で出征家族の慰安会でも歌うことになっていたが、
相次ぐ空襲警報でバンドマンたちが到着しなかったことがある。
「松島さん、元音楽教師だからピアノが弾けるだろ。弾いて歌ってよ」。
痺れを切らした関係者や客席の声に急かされてダダダーン!

両手の5本指でキーを叩きつけるようにして始まる『マロニエの木陰』の有名な
イントロに続いて、「空はくれて丘の涯(はて)に…」と歌う松島さんの心に染み入る
歌唱力に会場は酔った。以来、松島さんの十八番になり、コンサートで欠かせなくなった。

松島詩子さんに直接お会いしたのは、昭和53年(1978)勲四等瑞宝章を授章された
直後であった。まだ小平が村時代の昭和16年に建てた住まいの愛用のグランド
ピアノの前で。

「勲章なんか頂いたら、年がばれちゃったわよ」と、美人歌手でならしてきた
容姿に似合わずざっくばらんで、気配りの行き届いた女性だった。

女学校の音楽教師に飽きたらなくて、周囲の反対を押して歌手デビューを果たした
当時から、レコード会社の社命で5つ6つサバよんできたそうだ。
とにかく歌うことが命で、練習の鬼。歌手生活半世紀近いベテランにもかかわらず
毎日発声練習を欠かさず、ボイストレーニングにも通っていた。

松島詩子の芸名はかの有名な作曲家山田耕筰がつけてくれた。
レッスンをする時間がとれない代わりに「名前をつけて上げるよ」と。
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親子ほど年が離れ別世界に住むような松島さんだが、この日のインタビュー以来、
親しくお付き合いをさせてもらった。
昭和60年(1985)に開かれた『傘寿の祝い歌』コンサートの前後だったか、
「孫にね、バーバが元気で歌えるのは“マロニエのお陰”だねと、言われたの」と
嬉しそうに語った松島詩子さん。
平成8年(1996)11月91歳で他界される直前まで、『マロニエの木陰』のピアノの
タッチは乱れることがなかった。誰にも真似のできない味だった。

マロニエの木陰:坂口淳作詞 細川潤一作曲
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# by love-letter-to | 2007-03-21 14:38 | レクイェム | Comments(7)

麦藁帽子の少女

 『おせっかいな手紙=武蔵野書房刊』の見本刷りが刷り上るなり、
 筆者中込重春さん(立川のたい焼き屋)の未亡人演子さんと
 井伏鱒二さんにご挨拶と報告に伺うことになった。
 1990年の秋口で太陽はまだ夏の盛りのようにギラギラしていた。

 荻窪駅から歩いて10分ほどの閑静な住宅街にある井伏家。通された応接間は
 10畳ほどの和洋折衷で、入口の壁に見覚えのある少女の絵が架かっていた。
 何処かで見た気がした。記憶を呼び戻そうとしている私の視線を感じたのか、
 井伏さんは「あ、あのセザンヌは僕のお気に入りなんですよ」。

 さすが井伏家だ。セザンヌの作品を所蔵しているなんて・・・と、驚愕と羨望の眼を
 向けると、中央のテーブルの前に達磨さんのように座っていた井伏さんは、
 「あれはね、上野でセザンヌ展が開かれた時のポスターなんですよ。初めて
 ここに来た人たちはセザンヌの『麦藁帽子の少女』の実物だと思って
 腰を抜かすらしいがね」と言って、してやったりとばかりにクククッと口をすぼめ
 て笑った。

 その井伏さんの口元は小鳥の嘴のように可愛らしく、20年近くなる今でも瞼に
 焼きついている。

 しかし、ポスターでも額に納めて井伏家に飾られていると、本物に見えてしまう
 から不思議である。来客は私のようなちっぽけな凡人ばかりではない。文学や
 美術、出版界などの錚々たる人が出入りしている。来客たちは井伏さんに
 試されていたに違いない。

 “人を食うのが作家商売”でもある。90歳を超えても現役でおられた井伏さんの
 底知れなさと『駅前旅館』や『珍品堂主人』など軽妙な作品の作家の両面を見た
 ように思う。
 若い頃は短躯で太めの決して美男タイプではなかった井伏さんだが、美しく歳を
 重ねられているのも、この日の驚きだった。透き通るように色白で渋い濃紺の
 和服の襟元に小紋柄の襦袢の襟を覗かせて座っておられる姿は、惚れ惚れする
 ほど粋だった。

 当時91歳。『小栗上野介』に関する資料を手にしながら、「僕はあと3年は生き
 ます」と、繰り返し口にされた。その度にエッ!という感じだったが、3年後の1993年
 6月24日、94歳で肺炎で亡くなられた。
 
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 『麦藁帽子の少女』は清春白樺美術館蔵 油彩・キャンバス 81×65㎝ 1902年
 頃の未完成作品。
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# by love-letter-to | 2007-03-19 16:30 | レクイェム | Comments(0)
 『おせっかいな手紙』と題した本には思い出がいっぱい詰まっている。
 国分寺市内の小出版社『武蔵野書房』から1990年6月に刊行された。
 1,500部ほど出版されたが、私の手元には1冊しか残っていない。
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 サブタイトルは『拝啓 井伏鱒二様』とあるように、ある人が作家の
 井伏鱒二氏に宛てた手紙を中心にまとめた本である。

 ある人とは…立川市錦町の路地の一角で昭和30年代から、たい焼き屋で老夫婦
 の生計を立てていた中込重春さんである。たい焼き屋といっても、ちっぽけな借家
 の土間の半畳ほどのスペースで、ガス台にこて型のたい焼き器を5丁並べて
 手焼きしていた。「独房より狭いや」と苦笑しながらも、独自の非能率的なスタイルを
 崩さない頑固なたい焼き屋だった。

 おまけに梅雨明けから秋分の日前後までは“釣り休み”。夫婦して釣りキチだった。
 その釣りを通して当時の文学界の御大である井伏鱒二さんと文通が始まった。

 そもそもは釣り雑誌に掲載された井伏さんの玉稿にいちゃもんつけたのが、文通の
 きっかけだそうだ。中込さんは元々文学青年で物書きになりたかったらしいが、
 人一倍恥ずかしがり屋が災いしてか、横道にそれたタイプであった。

 いちゃもんをつけた手紙に思いがけず井伏さんから返事が来た。以来、中込さんは
 井伏さんに“たい焼き屋の親爺”として自嘲気味に、たい焼き商売の日常などを、
 推敲に推敲を重ねて書き送るようになった。

 その手紙の書き出しは決まって「拝啓 井伏鱒二様」であった。
 井伏鱒二自選集にも 収録されている『中込君の雀』は、二人の往復書簡
 から誕生した短編だ。
 他にも『中込君の釣り』『岩殿山』などが井伏作品として発表されている。

 昭和50年頃に『泳げたい焼きくん』の歌が大ヒットした直後から、中込さんの
 たい焼き屋も、連日長い長い列ができるようになった。当時、1個30円で売っている
 店が多かったが、中込さんの店は1個10円を頑固に守り続けていた。
 あんこも皮も自家製にこだわり、1個1個焼き上げる。
 「10円のたい焼き屋」としてマスコミにも取り上げられ、長い列はさらに長くなった。
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朝9時過ぎに開店してから売り切れまで、飲まず食わず、小用も足せず…。 「鎖に繋がれた犬みたいだよ」と、お得意の駄洒落を飛ばしながら、たい焼きを 焼いていた中込さんだが、昭和60年頃から体調を崩して入退院を繰り返し、63年11月にこの世から旅立った。

 4畳半一間の住まいには、コツコツと書き溜めた原稿や大学ノートに几帳面に 綴った釣り日記などが本箱にぎっしり残されていた。それらの中から抜粋して 本にまとめたのが『おせっかいな手紙』である。

 本にまとめるお節介役をした私にとって、中込さんは永遠の恋人のようでもある。

 
 
 

 
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# by love-letter-to | 2007-03-17 17:55 | レクイェム | Comments(1)

忘れ得ぬ人々&道草ノート折々


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