青 梅 橋 夏至も過ぎ、吾輩捨て猫ホームレスは苦手な猛暑を迎える前に青梅街道を西
へ。東大和市駅前で立川方面から来た通りと合流して青梅街道は大きくカー
ブして北上するが、その合流地点で小さな祠と石造物が目に飛び込んできた。
傍らの説明板によると、承応4年(1655) 玉川上水から分水された野火止用水
を青梅街道がこの地点で横断するために橋が架けられ、青梅橋と名付けられ
たそうだ。
両岸は石組で固めた幅2.5メートル長さ4メートルの木の橋だったが、昭和にな
ってコンクリート製に。その橋も昭和38年に撤去され青梅橋が名のみになった
経緯は、簡単にいうと東京都の水事情と玉川上水開削300年来の水道施設の
大幅な変更・駅周辺の道路拡張などによるもの。
東大和市駅も昭和52年(1979)までの駅名は青梅橋駅。青梅街道もかつては現
在の桜街道のルートで、その中央に桜並木が続いて桜の名所だったそうだが…。
変則的五差路になって車両通行の煩雑なかつての青梅橋には、吾輩も目が回
るようだった。祠の中に高さ1.2メートルほどの庚申塔。安永5年(1776)年小川
村の講中により建てられ、裏面には「西おうめみち、東江戸、南八王子、北山く
ちみち」と道標も兼ね、その脇の高さ50センチ余りの石造物は青梅橋の名残り
だそうだ。前面には「河を…」と彫られているように読めるのだが?
かつての分水口には都水道局小平監視所が設けられ、その下流の玉川上水に
も野火止用水にも元の水はストップされ、野火止用水も青梅橋跡から700メート
ル下流ほどは暗渠にされてしまった。今回は平安の昔に因んだ草木の花を。
《追記》青梅橋の石造物について早速、以下のような情報が寄せられました。
「青梅橋の件、祠入りの庚申塔の左側の石造物はかっての青梅橋の親柱の一つ
と思われます。以前は後ろの植え込みにあったのですが数年前イチョウの根元に
移され、更にその位置に庚申塔が移されて、現在の配置になりました。
正面には「阿を免ばし」と彫られています。又右手には欄干がはめ込まれていた
と思える穴の跡も残っていたと思います」小平I.Y