まだ地域新聞記者の卵だった時代、昭和47~48年当時の小平市役所は旧庁舎(現在の中央公民館の建物)で、その2階の東南の角にあった市長室・応接室を何度か訪ねたことがあった。
当時の
大島宇一市長(2代目小平市長)は、人あしらいが上手でコチコチに緊張している記者の卵が名刺を差し出すなり、「あつこさんの敦の字の意味を知っていますか」と言って、敦の字の語源の講釈を始めたのには面食らった。
元々は『叩く』とか『打つ』を意味する文字で、転じて「人の心を打つ」「胸を打つ」という意味が込められているということだった。
しかし、敦の字は音で読むと『敦煌』のとん、あるいは『倫敦』のどんで、“とん”は豚のトンのイメージにつながり、“どん”は泥臭いとかのろまを称して関西弁では“どん臭い”というから、子供の頃から自分の名前が好きになれなかった。また、“あつかましい子”と勝手に解釈して、めげていた。
ところが、
大島市長は「とてもいい字を使った名前です。どなたが付けられたのか、付けた方は漢学の素養がおありだったのでしょう。うちの娘も実は敦子です」と、苦笑された時の目尻の皺が印象的だった。
それから数年後、再び大島市長を訪ねた時、私の差し出した名刺を一瞥するなり、
「あなたの名刺は以前に頂いておりますから」と制されて、その記憶力の凄さに恐れ
入った。一介の記者の名前を数年経っても記憶しているとは!
政治手腕は老獪だと評されていた大島市長が高名な言語学者で、
諸橋轍次
(もろはし てつじ)編集・大修館書店刊『大漢和辞典』『中國語大辞典』の編纂に
学生時代から関わり、漢和標準辞典の編者であったことは後々になって知ったこと
である。
大島市長にはもう一つ教わったことがある。小平市役所にも当時は記者クラブがあり、
年に1~2回、市長主催の懇談会と称した宴席が設けられた。
日刊紙の男性記者の中に紅一点と言えば聞こえはいいが、地域新聞のしかも週刊新
聞の記者の卵にまでお声がかかり、辞退する勇気もなく恐る恐る末席に座った。
ところが、大島市長がお燗を持って末席にも回ってきた。酒席の作法も知らず丸っきり
下戸の私が困惑していると、「
医者、記者、芸者と言ってね、者がつく職業は
ぶってちゃ仕事にならんですよ。さあ少しでも口をおつけなさい」とニヤニヤ。
ともすれば医者も記者も専門職だと思い、思い上がりがちだが、芸者さん同様に
サービス精神が大事であると、大島市長にズバリ指摘され“目から鱗”だった。
事あるごとに『
医者、記者、芸者』を呪文のように唱えているが、まだまだ修行は
足りてない。
昭和42年5月~昭和58年4月、4期務めた大島市長は市政から退いた。前後して
小平市役所は新庁舎に移転したように記憶している。