◇ ヨロー社長の助け舟 ◇
「きみ~ぃ、どうすんだ!800通以上もの応募葉書をどうやって始末をつけるんだ!」
社内中に響き渡るような大きな声だったが、温かさと励ましのこもった声をかけて
くれたのは、元の職場アサヒタウンズ(朝日新聞の姉妹社)の高木四郎社長だった。
我が家で採れた一握りのフウセンカズラの種の配布を紙面で呼びかけたところ、翌日
から申し込み葉書が続々。1週間で860通を上回って困惑してまった。
その応募葉書の山を見て高木社長は反響の大きさに驚くと同時に、「もしかしたらフウ
センカズラの種の提供者が現れるかもしれないから、紙面で呼びかけてごらん」と助け
船を出してくれ、『編集室から』のコラムでも軽妙な筆致で応援してくれた。

本名は高木四郎(しろう)だが“
ヨローさん”の愛称で呼ばれることがもっぱら。名前の
字面からであろうが、「よろめきの
ヨローなんだ」と、高木社長の旧友から若かりし頃
の艶っぽい武勇伝を、面白おかしく聞かされたこともある。元朝日新聞東京本社の社
会部長というより、文化人という方がぴったりくる教養のある名文家であった。
◇ ポケットマネーでハーゲンダッツを ◇
昭和47年(1972)9月、十数年ブランクの後、私が潜りこんだ職場の社長が高木さん
でなかったら・・・。創刊・入社式の社長挨拶も「これまでにない自由で家族的な雰囲
気の職場にしたい」と、社長も編集長も、“さん”付けで呼び、朝10時出勤すると、まず
ドリップコーヒーを飲んでから、仕事にかかるのが日課であった。
社長がポケットマネーでハーゲンダッツをどっさり買って、冷凍庫は満杯になることも。
夕刻ともなるとアルコールの入ったグラスが回って来る職場であった。
ヨロー社長から直接、文章のイロハを教わることはなかったが、記者の卵が書いた記
事に「面白い話があるんだなあ」「人物が上手く書けてるよ」とエールを送ってくれた。
“豚でもおだてりゃ木に登る”で、おだてられて育てられ、木に登りっぱなしで今日まで
きたような気がしている。
社長はいうなれば船長さん。
ヨロー船長の船に同船できた幸せをかみしめている。
◇ 65歳でドイツ留学 ◇
さて、その
ヨロー社長は65歳で引退するなり、ドイツ語の勉強を始め68歳でドイツに留学をして、戦争で絶たれた大学時代の夢を実現させた。
その留学先がマイヤー・フェルスターの戯曲『
アルト・ハイデルベルク』の舞台となった
由緒ある
ハイデルベルク大学で、ネッカー川のほとりの美しい大学都市に単身移り住
むという。戯曲のように某国の若き皇太子ではないから、投宿先のメッチェンと恋に落
ちることもないだろうが、古希近くなっても学習意欲と情熱を燃やす
ヨロー元社長の顔
は輝いていた。

まずは車の国際免許を取り、ドイツ学を学ぶ一方でアウディの中古車を買ってアウト
バーンを走るんだと。
平成4年(1993)3月上梓された5年間の留学体験を綴った『
老春のハイデルベルク』を、今読み返して見ると、当時の
ヨロー元社長の年齢に近づいたせいか、情熱さえあればこれからでも新しいことに挑戦できるんだ!と意を強くする。
心は老いないと実感もできる。
◇ ドイツ語が上手くなる秘訣は練習あるのみ ◇
68歳の学生は最高齢かと思っていたら、ハイデルベルク大学には何と19世紀生まれ
の学生が在学していてギャッフン!60~70代の学生も珍しくなく特別扱いされなかった。
しかし、入学当初は日本で5年近く学んだドイツ語が役に立たなくてチンプンカンプン。
で、留学生相手の語学校にも通ったが、担当の教師は「ドイツ語が上手くなる秘訣は
練習あるのみ」と。
ドイツの大学は入るにやさしく出るに難しく、日本のようにレジャやーランド化した大学で
はなく、学生はよく勉強し、大学のステータスは健在であった。
学割の恩恵も多々あったそうだ。ドイツにある250校の大学は殆どが国立で授業料は
無料。入学試験に合格さえすれば、留学生もタダで年限なし、しかも転校も自由だった。
さすがヤジウマ留学生は、大学生活だけでなく“老春”を謳歌して、オートキャンプを
体験したり、暇があれば森や林を歩いた。世界各国からの留学生との出会いや文化
比較論は、面白く読ませられる。読むたびに「きみ~ぃ、どうすんだ!」と発した大声
を思い出す。

昨平成18年は南極観測50周年の年であったが、
ヨローさんはその
第一回観測隊に
同行した二人の記者の一人で、もう一人は田英夫・参議院議員(元共同通信記者)で
あった。
その時の
ヨローさんの談話も語り草になっている。「僕は外国語がからきし駄目で、
初の海外取材ですが、南極には
ペンギンとアザラシしかいないから外国語がしゃべ
れなくても大丈夫でしょう」。抜群の
ユーモアのセンスの持ち主であった。
その
ヨロー元社長は平成16年9月にドイツよりも南極よりも遠い地へ旅立ってしまった。「ちょっと行って来るよ」と言わんばかりの旅立ちであった。