“
筍のもだえ焼き”で忘れようにも忘れられないのは、その絶妙なネー
ミングの主の
砂川昌平さんである。初めてお会いしたのは立川市の教
育長の後、監査役も退いた1980年代半ばで、「公職とはおさらばし
たからサバサバしてるんだ」と言いながらも差し出された名刺の裏に
は、納まりきれないほど肩書きが印刷されていた。
「筍はサ、やっぱり『檀流クッキング』の竹林焼きが一番だナ。朝掘
りのケツから酒を飲ませてアルミホイルにくるんで、焚き火で…」と
舌なめずりをしながら、蒸し焼きされた筍がもだえるように
昌平さん
は身を揺すって、その旨さを自慢した。
「そんなに美味しい話ばっかりでなく、食べさせて下さいよ」という
ことで、毎年4月末に行われていた『
竹の子会』に顔を出すようにな
ったのがそもそも。
昭和59(1984)年8月、玉川上水に“清流が復活”した機会に、アサヒタ
ウンズで『玉川上水』の長期連載に取り組むことになった私は、砂川
分水と砂川新田について
開拓者直系子孫からじきじき話を聞こうと出
かけた。
ところが、「古文書の類も水車一式もすべて立川市に寄贈しちまった
から、市の歴史民俗資料館に行った方がいいよ」。ぶっきらぼうな返
事に、これが小耳にはさんでいた
ショッペイさんか…と。教育長や監
査役の立場上、言いにくいことも言ってのけてきたらしく、昌平をも
じって
ショッペイと煙たがる人も。
出鼻をくじかれ、話の接ぎ穂を探して旧家の鴨居や柱を見回していた
ら、「子供の頃はさ、春先の風の強い日には読んでる本の次のページ
をめくるまでに、砂埃がたまって…こうやって砂を払ったもんだよ」
と、傍らの本を手にひっくり返してパタパタ振る手つきをした。
「エッツ!砂川さんちのような豪邸でも、目に見えるくらい砂埃が部
屋に入ってきたんですか?」「そうさ、砂川では神棚に牛蒡の種を蒔
きゃ、芽が出るってサ。この辺りの土は元々関東ロームと言って富士
山の火山灰でできてるから、軽くて春先の季節風に飛ばされちまって、
空が灰色に濁り、
赤っ風とか
黄塵と呼ばれてサ、武蔵野の名物だと言
われてきたもんですよ」。
次第に昌平さんの舌は滑らかになり、「我々土地のもんは武州多摩郡
(ぶしゅうたまごおり)の百姓です。茅や芒の生い茂る原野を開墾して
きた
武蔵野インディアンですよ。昭和の時代になっても米軍の基地拡
張に身体を張って闘争してきたんだよ」。
開拓者子孫で広大は土地を受け継いでいる身を自嘲しながらも、土地
バブルに走る当時の風潮をいささか苦々しく思っている口ぶりだった。
この日の別れ際に、“
武蔵野インディアン”は「古文書なんかめくって
玉川上水の歴史をなぞったってつまらん。自分の足で歩き、目で見て、
土地の人の話を聞いて書くべきだよ」と、背中を押されてしまった。
今になって思うと凄い慧眼で有難い忠告であった。
ところで、昭和50年代に発表された
三浦朱門の連作『
武蔵野インディ
アン=河出書房新社刊』の題名も、
砂川昌平さんが仲間に語ってい
たのを小説のタイトルにしたそうだ。朱門さんと昌平さんは東京府立
二中(現都立立川高校)のクラスメートであった。
ある日、「十勝の大豆を薪釜でコトコト煮てサ、沖縄の天然塩を使っ
て味噌を作ってんだ。
手前味噌のようだけど、へへへ…これがうめぇ
んだ」。またも舌なめずりしながら、味噌作りの話を持ち込んできた
ことがあった。
立川市の『障害者の働く場を作る会』で、3~4年前から作業所建
設資金作りに、味噌作りに取り組んでいるという。たしか昭和60年
の2月11日、
昌平さんの誕生日から仕込みに入った砂川家の味噌蔵
に駆けつけた。
会長の
昌平さん自ら枯れ木を燃やしたり、煮え立ってきた大豆をつ
まんで「こうやって手間隙かけてんだから、まずいわけがねぇよ」
と、手前味噌自慢は留まらなかった。1年寝かせた味噌を3キロず
つ100人に頒布する予定が、申し込みが殺到して1キロずつになっ
てしまった。それでもあぶれた希望者には翌年に回ってもらったそ
うだ。
秋になると、新ソバの旨い話をしにやって来た。「新ソバだと、ソ
バ粉100%でも切れねぇんだと。その打ち立てを2斗釜で茹でると
手打ち蕎麦専門店の主自身が、店ではこの味が出せないと言ってん
だ」と、
昌平さんは鼻の下を伸ばした。その三日月型の横顔は
写楽
の浮世絵のサムライに似ていると言われていた。
秋も深まった頃、立川市栄町の手打ち蕎麦『
拮更』の店主・酒井登
志英さんが道具一式車に積んで砂川家にやって来た。庭先で新ソバ
を打ち、窯係りが薪をボンボン燃やして煮えたぎらせた2斗釜の中
に放り込んだ。一回転したところを掬い上げ、井戸水で揉み洗いし
たソバをツルツルっと頂く趣向だ。20人余りの手が一斉に伸び、
「
うまい!」と嘆息したきり、後はソバをすする音だけが屋敷林に
こだました。
かつて朝日新聞社と全日本写真連盟主催で年2回公募されていた
『
多摩の素顔写真展』の提案者で、審査員も務めてきた
昌平さん初
の写真展『シルクロードの旅=1992年4月29日~5月5日』の時
も、真っ先に口から飛び出してきたのは「西域はメロンや西瓜、野
菜がうめぇんだ」と目を細め、もっぱら食い物の話だった。
青少年時代からライカを手にし、還暦を迎えた時から写真専門学校
に通い、小久保善吉氏らの薫陶を受けて暗室まで設ける本格派だっ
た。
そのシルクロードの旅で、
昌平さんは近くに止っていた現地の
人のトラックの荷台に飛び乗って撮影していたら、突然発車し
てしまった。「あれっ!
お代官さま(昌平さんのこと)がいない
!」と仲間が大騒ぎしていたら、大草原のはるか向こうに昌平
さんがポツンと立っていた。「あやうく
草原孤児になるところ
だったよ」とニヤリ。
トラックは途中で現地人仲間を拾うために停車したので、あや
うく
草原孤児になるのを逃れることができたそうだ。“直言居
士”、を昌平流にもじって草原孤児とは…!ピンチに遭遇して
も咄嗟に
草原孤児なる名言を吐いた元祖
武蔵野インディアン!含羞という表現がぴったりするシャイな文化人であった。
平成7年(1995)4月、69歳の若さで旅立ったあの世でも、筍
のもだえ焼きや西域の西瓜の話をしているに違いない。