「アレッ、何でキャベツの葉が草むらに落ちているんだろう!」先日、
玉川上水の商大橋付近の草叢で、薄黄緑色のキャベツの切れ端みたい
なものが目に付いた。
気になって近づいてみると微かに震えており、さらに目を近づけると、
その切れ端の一方に真っ白な産毛を纏った“芋虫”さながらの蝶の胴体
があるじゃん!
羽化したばかりの揚羽蝶で、羽をジワジワ広げると同時に紋様や筋が
鮮明になってくる。かなり大きな揚羽らしく羽は6~7センチ長さも
あるが、細いススキの葉にしがみついていた。
こんなシーンに出くわすと、
玉川上水両岸のグリーンベルトに自然が
しっかり息づいている感激を新たにしてしまう。そして思い出すのは
玉川上水堤で絵筆を走らせていた画家・
倉田角次さんの姿である。
「こうやってスケッチしている間にも、緑が見る見る増えていく」と、
早春の上水で画業に勤しんでいた。点々と若緑色を散らしたようなナ
ラの幼葉、渋みがかったケヤキの新芽、淡白い花にも見えるクヌギの
新緑…。
「これほどスケールが大きく、感動的な自然は世界にも類がない」と
言う
倉田さんの言葉は、いささかオーバーに聞こえたが、16歳のとき
日本を飛び出してハワイを皮切りに40数年間、28カ国を放浪してきた
画家が太鼓判を押す
玉川上水の雑木林を見直した。
倉田さんによると「欧米の森林は殆どが常緑樹で、四季の変化に乏しい」。
春の新緑、夏の緑のブラインド、秋にはそれぞれが特有の色に紅葉。冬
の裸木の木立がまた一本一本表情があり、
武蔵野の落葉樹林はドラマ
ティック!だと。
近代水墨画の大家で、元文展の審査員だった父・
小室翠雲に背いて
倉
田さんは洋画を志し、勘当同然でハワイ総領事館に勤める叔父の元へ
身を寄せたのが反抗期16歳の時だった。
「大家の息子だからと期待されるのが重荷で、水墨画の伝統技法にも反
発して自由に描きたかった」そうだ。ゴッホやセザンヌ、マネー、モネ
など後期印象派の画にも憧れていた。
ハワイ大学付属ハイスクール卒業後、叔父の転任でパリへ。
ソルボンヌ
大学美術学科で学ぶ一方、
藤田嗣治画伯に師事するなど目映いばかりの
履歴だが、「自分の画を求めて遍歴を重ねたに過ぎない」という。
その果てに肺結核を患い、50代半ばでボロボロになって帰国した
倉田
さんは「再び絵筆を握ることはできないだろう」と、落ち込んでいた
時期もある。
死線を越え散歩が許され近くの
玉川上水を訪れた時、「40年間自分が
求めていた自然に初めて出会った!」という。
玉川上水によって開眼し、
倉田さん独自の幻想的な画法を生み出した過程は、私如きには理解でき
ないが、薄もやを通して浮かび上がってくる上水の流れと木立は、名画
の回想シーンをイメージして和んでくる。
油絵の具を使っているが日本画以上に日本画らしいとも思う。反発した
父
翠雲の資質も大いに受け継いでおり、血は争えないものだと翠雲門下
生からも言われていた。
初めて
倉田さんの存在を耳にしたのは、玉川上水のフェンスに絵を展示
している画家がいるという口コミだった。路上で絵を売っている素人画
家の一人かと思っていた。
そう伝えると、「フフフ…、あの頃、昭和50年代終わり頃は病気上がり
でスッカラカンでね。画廊を借りるお金もありませんでした」という
倉
田さんだがファンが一人二人…と増え続けて、内外で個展も開催され絶
賛を浴びた。
私が自著『玉川上水』の連載でお会いした昭和60年代半ばには、美智
子妃殿下(当時)もファンのお一人だと伝えられ、その後、皇室にも作
品が収められた。
珠玉の作品を数多く遺して
倉田画伯が他界されて10年近くなるが、玉
川上水を歩くたびに
倉田さんの絵がオーバーラップしてくる。
〈追記〉
追記:玉川上水の茂みで目にした羽化したばかりの揚羽蝶だと思ってい
たのはオオミズアオという鱗翅目ヤママユガ科の蛾で、体長10㌢にも
なると、知人からメールが届きました。
羽の色は淡い青磁色で胴体は真っ白な毛で覆われ、まん丸な黒目と櫛型
の触覚など特徴のる蛾だそうです。
学名のアクティアス・アルテミスは、ギリシャ神話の月の女神アルテミ
スからつけられたもので、そう言えば青い月を連想させ神秘的な姿でし
た。それをキャベツの葉っぱの切れ端だなんて俗っぽい表現をしてお恥
ずかしいかぎりです。
図鑑によるとモミジ,ザクロ、アンズ,サクラ,ウメなどバラ科,コナ
ラなどのブナ科,カバノキ科などの樹木の葉を食糧にして、市街地の街
路樹にも生息しているそうです。