たしか昭和62年(1987)の3月初めでした。立川駅ビル9階の朝日
ギャラリーで『
小さな引揚者』写真展を開催した初日、オープン前
から見学者の列ができ、異例のことでびっくり。
たちまち会場は人で埋まってしまい、奉天(現瀋陽)の孤児収容所で起
き上がる元気もなく寝そべっている幼児、骨と皮になり皮膚も爛れて
いる幼子、自分と同じくらいの荷物を背負って懸命に列に並んでいる
少女など…写真の前で立ち止まって動かない人、周囲をはばからず泣
く声が隣室のアサヒタウンズ編集室まで伝わってきました。
当時、小平市に住んでおられた写真家・
飯山達雄さんが敗戦から約一
年後、かつて満州と呼ばれた中国東北地方や朝鮮に放置されている
人々の惨状をGHQや日本政府に訴えるべく決死の覚悟で、渡航して
撮影してきた写真のうち約30点を展示した写真展でした。
「満蒙開拓民に応募すれば10反歩の自営農民になれる!」と喧伝さ
れた
国策で、満州や内蒙古に送り出された開拓団の人々。第二次大
戦終結時には、
約60万人の民間人が大陸に取り残されていました。
大戦末期には軍関係者はいち早く引き揚げ、働き盛りの男性は根こ
そぎ動員されシベリアに抑留され、開拓団に取り残されたのは
老人
と女性と幼い子供が殆どだったそうです。
飯山さんも朝鮮から引揚者でしたが、その窮状を見かねて衛生兵に
なりすまし、引き揚げ船に潜り込んで大陸に再渡航したそうです。
敗戦国の日本人が敵地の中国に渡るのですから、見つかればまず生
きては帰れません。
そのような
飯山達雄さんが命がけで撮影してきた写真に、私が出会
ったのは、『小さな引揚者』写真展の2ヵ月ほど前でした。「戦後
間もない小平の暮らしを写真に撮っていた写真家がいる」と聞いて、
当時の小平の写真を見せてもらいに訪ねました。
ところが、
飯山さんは「そんな写真よりも…」と、数枚の写真を取
り出してきました。骨箱を首から提げた少年、うつろな瞳で柱にも
たれ掛かって幼児、引き揚げを待つ長い列に鉄砲を構える中国兵…。
写真を手にしたまま私は動けなくなってしまいました。
本当に膝がガクガクして震えが止らないほどショックを受けました。
骨箱を抱えていたのは少年でなく、強姦されないために坊主刈りに
した少女だったのです。
終戦当時6歳だった私よりも幼い子供が、敵国になった異国の地で
飢えと恐怖に怯えながらも懸命に生きている。その姿は言葉では言
い表わせないほど私の胸に迫ってきました。
アサヒタウンズ社はその前年の10月に立川駅ビルに移転したばかり
で、併設したギャラリーはまだ利用者が少なく、空きが目立ってい
ました。
飯山さんを訪ねたのも、戦後の小平の写真をお借りするつ
もりでした。
「これらの写真を貸して下さい」と、私は
小さな引揚者たちの写真
を収めた箱を飯山さんから奪い取り、逃げるようにしてタクシーに
飛び乗りました。
写真展の説明などクドクド話していると、飯山さんの気が変わって
しまいそうで…。実を言うと、額装にしなければ貸さないとか、少
しでも傷をつけたら弁償をと後から注文がきましたが、なんとかク
リアしてオープンにこぎつけました。
でも、その当時すでに戦後42年も経って、戦争体験は風化しつつあ
りました。ですから、引揚者の写真展など、あまり反響がないので
は…と、編集長からも同僚記者からも軽く見られていました。
ところが、連日1000人近い参観者が訪れて、一週間の会期を三週
間にも延長しました。飯山さんも会期中にしばしば会場を訪れて、
「あなたは魔女だよ。大男の俺と鉛筆一本で勝負に挑んだ魔女だよ」
と。180センチ近い長身のスケールのでかい“冒険野郎”でした。
大陸に置き去られた人々の撮影に使ったカメラはローライ・コード
とベビー・イコンダで、衛生兵の白衣の胸に穴を開け、そこから隠
し撮りしたそうです。フィルムは戦後の闇市で仕入れたものをカメ
ラに合わせてサイズ加工。かなり光を被っているので、
飯山さんし
か焼付けができないそうでした。
飯山さんは1904年横浜に生まれ、6歳の時に家族と朝鮮に渡り、少
年時代から写真と登山に熱中して、朝鮮の未踏峰の山を次々に登っ
た後、中国大陸からニューギニアを踏破した青春時代の話は、
『
青春バガボンド』という痛快な本になっています。
引揚者の写真をGHQに突きつけ、「
ジュネーブ条約に違反する人
道問題だ」と抗議した後、小平でしばらく隠遁。その後、ブラジ
ル、アルゼンチンに渡り原住民と生活しながら、その生活を紹介
して『
未知の裸族ラピチ』『
秘境パタゴニア』など出版。明治生
まれの先駆的な写真家でした。
とにかく80歳を超しても膨大なライフワークを抱えてパワフルな
日々を送られ、91歳で他界されたと聞いております。