8月15日。正午前、残暑見舞いを投函に行こうと玄関ドアを開けた
ら、熱気に押し戻されそうになった。燃え盛る太陽の勢いたるや!
火傷しそうに熱い!
62年前の8月15日もジリジリと太陽が照りつけ、四国の田舎町はう
だるような暑さだった。6歳だった私は父の生家の縁側で、疎開して
きた従姉妹たちとままごと遊びに熱中していた。
マツバボタンの葉っぱをキュウリに見立てて刻もうとしたら、1歳年
下の弟に小刀を横取りされて大きな声を上げた途端に、「静かにしな
さい!」と叔母たちに怖い顔をされた。
座敷のラジオの前で祖父と叔母3人に母も神妙な顔をしていた。
あの時ラジオから流れていたのが
玉音放送だった。「戦争が終わった
!」と言われてもぴんと来なかったが、大人たちの姿は空気の抜けた
風船のようだった。
それから40年後、私は
中国残留孤児鈴木ヒロノさんの過酷な体験を
代筆することになった。彼女は母親のお腹にいた時、両親は旧満州
(中国東北地方)の開拓団に移住し、旧ソビエトとの国境に近い訥河
(のうほう)県
北学田開拓団で生まれた。
満州の広野で生まれたので
ヒロノと名づけられたそうだ。彼女が3
歳の誕生日を迎えて間もなく迎えた昭和20年8月9日。この日、日
ソ不可侵条約を一方的に破棄して、旧ソビエトは太平洋戦争に参戦。
たちまちソビエト軍が
北学田開拓団にもどっと侵入して、略奪や無
謀な行為を繰り返し開拓団は恐怖に陥った。
当時、
ヒロノさんの父親も強制動員されて行方知れずで、開拓団の
住まいには母親と5歳年上の姉と
ヒロノさん、1歳になったばかり
の妹が取り残されていた。
数日後の朝早く、母親が土間で洗濯の湯を沸かせていた時、ソビエ
ト兵がドアを蹴って押し入ってきた。金目のものを物色した挙句に
現金を要求しているらしい。
言葉は話せないがジェスチャーで、「必ず用意しますから」と母親
が約束をして、その場はどうにか切り抜けたが、翌朝、そのソビエ
ト兵は重いドアを蹴り破って侵入するなり、母親に大声を浴びせて
銃剣で襲い掛かった。
姉の気転で、
ヒロノさんと妹は薄べりの下に隠れることができた。
「その時のドアのギィーッと鳴る不気味な音、薄べりの下から覗き
見した男の皮のブーツは生涯忘れられない」と、語って身を震わせ
たヒロノさん。
男が立ち去った後、土間に倒れて動かなくなった母親に恐る恐る近
寄った。頭と口から流れ出る鮮血、もの言わなくなった母親に3歳
の
ヒロノさんは「早く、起きてよ」と声をかけ続けたという。まだ
母親の死を理解できなかった。
その後、姉と妹と子供だけ3人になった
ヒロノさん一家は、開拓団
の引き揚げからも取り残されて、妹は衰弱死してしまった。中国人
の養父母に貰われた先で、母代わりを務めていた気丈な姉も脳腫瘍
で失って天涯孤独に…。
どういう運命の巡り合わせか、養父母はまだ幼い
ヒロノさんを“女中”
代わりにこき使って、10歳前後の年頃で一家の掃除洗濯子守までや
らされたという。もちろん学校にも行かせて貰えなかった。
それでも
ヒロノさんは「いつかは日本へ帰る。私は日本人だから」と
心に言い聞かせて、帰国の夢を捨てなかった。養父母の一家を経済的
に支えるために他家へ子守りにも出た。子守りに追われながらも、足
し算引き算を練習し、中国語の読み書きも覚えたそうだ。下は養父母
の家へ里帰りした時のヒロノさん。
そして、日中国交が回復する以前、19歳の時に全く自力で帰国の夢を
果たしたのだが、帰国してからも日本語ができない
ヒロノさんの苦闘
は語り尽くせず、受け止め切れない重い問題ばかりだった。
同じ敗戦の日にままごとをして遊んでいた私と、血まみれになった母
親に声をかけ続けていた
ヒロノさん。同じ日本人に生まれながらも…
彼女の生い立ちのすさまじさに出来ることはして上げたいと、日本語
の覚束ない彼女に代わって手記をまとめるお手伝いをした。
その手記は
『平和祈りて』というタイトルで、20人の戦争体験をまと
めて昭和61年7月に出版された。当時小平市に住んでいた故
藤原敏子
さんの呼びかけで、20人が戦争体験を綴り、お金を出し合って出版に
こぎつけた。
このささやかな共同出版の『
平
和祈りて』に関わったことから、
私は
ヒロノさんの生まれ育った
北学田開拓団の跡地と彼女の養
父母を訪ねる旅にも同行するこ
とになった。昭和61年10月末に
訪ねた旧満州への冒険に近い旅
は次回に。