◇ メッセンジャー役を引き受けて ◇
「ナイロビに行くなら
松本さんに、ちょっとしたお土産を届けてくれないかな」
何の取材の時だったか忘れてしまったが、小平市内住んでおられた『
あヽ野麦峠』
で有名な
山本茂実先生にお会いした時のことであった。我が家に近い仲町に住ん
でおられたので、山本家を訪ねる機会が時折りあった。
松本さんというのは当時、朝日新聞社
ナイロビ支局長をしていた
松本仁一さんである。
山本さんは1983年、教え子の青年海外協力隊員たちがアフリカ各地で稲作指導をしている現場を回って、そのルポルタージュを執筆中であった。
45日間にわたる取材旅行中にナイロビ支局長の
松本さんにも大変お世話に
なったということだった。
初めての海外旅行で現地の地理も事情も全く分らないのに、「朝日新聞社から紹
介状も貰っており、多分
松本さんにもお目にかかりますから…」と、私は安易にメッ
センジャー役を引き受けてしまった。
◇ つながらなかったナイロビの電話 ◇
ところが、1985年7月7日
ナイロビのホテルに着いた夜から、朝日新聞ナイロビ支
局へ再三電話をかけたが、全くつながらない。念のため電話番号は出発直前にも
確認して来たのに、発信音すら聞こえない。ベッドの中でも悶々とし3日目になると
焦ってきた。
7月9日、
NGOフォーラムの事前準備でナイロビ大学を訪ねた後、市内で自由行動
の時間があった。ツアー仲間と繁華街でケニアドルの両替やショッピングをしている
時、目の前のビルの
日の丸の国旗が目についた。
マップで確かめると
日本大使館の所在地である。近くにいた仲間に事情を話して、私
はそのビルのエレベーターに飛び乗った。たしか6階だったと思うが、エレベーターの
ドアが開くなり、黒人のガードマンが仁王立ちしていて追い返されそうになった。パス
ポートを提示して幼稚な英語で必死に用件を伝え、やっと大使館の窓口にたどり着く
ことができた。
受付の女性に、電話がつながらない窮状を伝えると、「7月1日からナイロビ市内の
電話番号は一斉に局番が2桁から3桁に変更になったからでしょう。普段から電話
事情が悪い上に、突然のことで大使館でも混乱しているんです」と、親切に教えてく
れた。助かった!
ケニアの首都ナイロビは人口約200万人、近代的な高層ビルの立ち並ぶ大都市で
あるが、当時、国連関係の催しは初めてであり、
世界女性会議のように海外から
1万人以上を受け入れるハードもソフトも準備不足で、混乱を極めているようだった。
その夜、
松本ナイロビ支局長が宿泊先のホテルに訪ねて来てくれ、
山本茂実先生から託されたお土産を手渡すことがやっとできた。
今思い出しても冷や汗が出る。
◇ 懐かしい山本家のロビーと書斎 ◇
その十年ぐらい前、
山本家を初めて訪ねた時、熊野宮付近で道を尋ねたら「ああ、
“野麦峠の先生”のお宅なら、あの黒い塀の家だよ」とお年寄りが教えてくれた。以
来、私は山本先生というより
“野麦峠の先生”と呼んでいた。
飛騨のうら若い女性たちが諏訪の製糸工場へ出稼ぎに通い、家計を支えた哀史
『
あヽ野麦峠』。昭和43年(1978)に刊行され250万部を超すベストセラーになっ
た名作は、野麦峠の先生によると、子供の頃にお婆さんから聞かされた昔話が土
台になっているそうだ。
当時、通る人が絶え忘れ去られていた飛騨と信濃境にある野麦峠も、一躍クロー
ズアップされた。「これという産業のない貧しい山村に、“動く陽明門”といわれる高
山祭りの豪華絢爛な屋台が存続しているのが不思議だと思わないか?製糸女工
たちの稼いだ金がつぎ込まれているんだよ」と、訪ねるたびに
野麦峠の先生は作
品の裏話を聞かせてくれた。
次の話題作『
喜作新道』も北アルプスの表銀座といわれる大天井岳から槍ヶ岳へ
抜ける険しい尾根道を独力で切り拓いた牧の喜作が、ある日、猟にでかけた雪の
山で謎の死をとげる。北アルプスに鳴り響いた名鉄砲打ちであった喜作に関する
克明な取材の一端を、講談師のように語り聞かせてくれた。情景が浮かび上がる
ようで、時間を忘れて聞き入った。
当時の山小屋風の
山本家は玄関を入った所がワンフロアーになっており、囲炉裏
の周りに木のベンチや椅子がおいてあった。2階の北向きの書斎の窓からは空に
手が届きそうだった。
また、
野麦峠の先生はグリーンロードを歩くのを日課にされていたようで、パッタリ
顔を合わすこともあった。「小平駅北口に、うまいラーメン屋があるのを知っている
かい?」と『満州餃子』のラーメンがお気に入りのようだった。1998年3月81歳で
他界される半年ほど前、グリーンロードの延命寺裏付近でお会いしたのが最後と
なってしまった。
松本歴史の里の一角に『
山本茂実展示室』があり、自筆原稿や資料、遺品が
展示されているそうである。
松本仁一さんは1984年にアフリカの広い範囲で
発生した大旱魃による甚大な被害から“
アフリカの飢餓”を予見し、その第一
報を日本に伝えた記者で、1990年には朝日新聞アフリカ総局長に。94年には
ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。朝日新聞社刊『
アフリカで寝る』
『
アフリカを食べる』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。