◇ 突然の朗報 ◇
「
元範多農園にあった蔵のことで…」と先日、
日本植物防疫協会総務部の
内久根毅
さんから突然電話が!『もぐら通信』HPの前書きから知恵を絞って我が家の電話番
号を探がし当てたとのこと。その推理力に驚くと同時に恐縮してしまった。
『
在りし日の範多農園を訪ねて』シリーズの発端となった“元範多農園の蔵”は、小平
市鈴木町2-772番地の一角
日本植物防疫協会・資料館の敷地内に現存してい
るが、昭和12年頃、この一帯に“
範多農園”と称する広大な西欧式農園が設けられた
時に、麻布宮村(当時)から移築されたと伝えられている。
約1万6000坪もあった農園を築いたのは日英混血の実業家
ハンス・ハンターこと範
多範三郎(日本名)であるが、その話はさておき、内久根さんから“元範多農園の蔵”
が今年の6月から公開されていることを知らされた。嬉しい電話だった。
◇ 謎を秘めた白壁の蔵伝説 ◇
その昔は大岡越前の守屋敷にあったとも伝えられ、風説の多い白壁の優美な蔵。元
の所有者
ハンス・ハンターとともに謎を秘めた蔵。 その蔵は戦後間もなくから
日本植
物防疫協会の前身が所有し、昭和44年から同協会の資料館として使われてきた。
老朽化も進んでいるが今回、内部を改装して植物の病害予防・害虫駆除などに関す
る資料の『展示蔵』として公開していくことになったとのこと。
「一度見にいらっしゃいませんか」と誘いを受けて、翌10月5日に旅友達と一緒に駆け
つけた。存続が気がかりだった蔵が新しい役割を得た姿に、一日でも早く会いたかった。
内久根さんと技術顧問の
田中良明さんが中心になって展示にこぎつけたそうで、つきっきりで展示資料の懇切な説明をしてくれた。
◇ 長く閉ざされていた蔵の扉が開けられて ◇
間口3間、奥行き2間あまりの2階建て“元範多農園の蔵”の外観は往時のままだが、
ぎっしり詰まっていた書棚が取り払われてフローリング材が敷かれ、漆喰壁はお化粧
直しされて見違えるように明るく心地よいギャラリーに変身していた。
ハンターは日本の伝統家屋に並々ならぬ愛着を持ち、範多邸母屋を構えるに当たっ
て関東一円を自ら探して歩いたそうだが、麻布宮村の大岡越前直径子孫の別宅にあ
った白壁土蔵にも惚れ込んで譲り受けたとされている。
近隣の地主や農家の穀倉より小ぶりで繊細で女性的な趣のする土蔵は、大名か上層
武士階級の衣類保存用の蔵ではなかったかと推察されている。 麻布周辺でも人目を
引く蔵で所有者が転々として“妾蔵”とか“さすらいの蔵”とも呼ばれ伝説の多い蔵であ
ったらしい。
その蔵の入口正面にハンス・ハンターと範多農園・白壁土蔵の解説が掲げられており、
閉ざされてきたこの付近一帯の近代史にも光が射してきたように感じられた。
植物の病害虫に関する資料など興味を惹かれないかもしれないが、一見の価値は
あると思う。『新撰作物病害図』は明治30年代、東京帝国大学農科で教材として使
用された『稲熱病(いもち病)』と『梨赤星病』掛け軸で、スライド映写機もプロジェクタ
ーもない時代に、後ろの席からも見えるように細部まで克明に描かれている。
豊な表現力と色彩は日本画としても、ボタニカルアートとしても観賞できる。2階に展
示されているポスターの数々も時代背景が浮かび上がり、病害虫と闘いながら作物
を生産してきた農家や関係者の苦労が偲ばれて仕方がなかった。田植えも稲刈りも
手作業の時代だった。
長崎県に残る『蟲除大菩薩』や高知県に伝わる『虫送り行列』の儀式、虫塚(石川県
・東京都)の写真にも、病虫害に苦慮したひと昔前が思い出された。
◇ 元範多農園の生き証人との出会い ◇
近在では見かけないタイプの“元範多農園の蔵”のルーツを訪ね始めてから約20年
になるが、忘れ得ないのは故
伊藤徳造さんとの出会いである。
広大な領地の一角に屋敷を構える英国のマナーハウス(領主の館)を理想として設け
られた
範多農園の母屋は、第二次大戦末期に米軍の爆弾攻撃によって全焼し、
ハン
ス・ハンターも脳梗塞の療養中に他界。農園の大部分は戦後の農地解放により、耕
作者や元の地主などに払い下げられて以後、切り刻まれ細分化されて範多農園の
面影は失われてしまった。
蔵のルーツをたどる手がかりも全く期待できそうになかったが、ラッキーなことに
伊藤さんと知り合うことができた。
伊藤さんは側近として
ハンス・ハンターの多岐にわたるスケールの大きな事業と私生活を身近に見てきた生き証人だった。
大戦中に
範多農園跡地の一角に移住して以来、半世紀以上も口を封じてきた伊藤んが
ハンス・ハンターと
範多農園に関して語るきっかけは、昭和63年当時、植物防疫資料館長をしていた故
古山清さんと時々道で出会い、親しく口を利くようになったことかららしい。
私が “
範多農園の蔵”のルーツに興味を持ち始めた時期と偶然にも一致して、
古山清さんと一緒に伊藤家を訪ねることになった。伊藤家はハンス・ハンターが農園内に設けた別棟3棟の内の1棟であった。範多邸母屋と同じく関東近県の農家を移築したそうである。
ハンス・ハンターが那須塩原の庄屋を移築して構えた豪壮な母屋のことを初め、範多農園や蔵、彼が手がけた金山や錫鉱山事業、奥日光に鱒釣りを中心として繰り広げた国際交流などなど、半世紀も胸に畳み込んでいただけに
伊藤さんの記憶は整理され、驚くほど鮮明であった。失礼を承知で再三訪ねて、伊藤さんの記憶を書き留めた。
半世紀を経ても亡き主君に忠誠を尽くしているような語り口で、そんなに慕われてい
るハンス・ハンターの足跡を私は辿ってみたくなり、記録したのが『
在りし日の範多農
園を訪ねて』シリーズである。このとき伊藤さんが語ってくれなければ、“
範多農園”の
ことは地元史から抜け落ち、蔵の存在も見直されなかったかも…。
伊藤さんは昨平成18年6月18日、95歳で永眠されたが、今回の
日本防疫資料館
『展示蔵』の公開も、
伊藤さんの功績かもしれない。心の中で
伊藤さんに報告をした。
なお、日本防疫資料館『展示蔵』は毎月第1・3金曜日10:00~16:00開館。入場無料。
問い合わせは042―381-1632日本植物防疫資料館へ。