◇ 江分利満氏の第一印象 ◇
関頑亭さんを“奇蹟の人”と呼び、
ドスト氏と称して敬愛していた作家の故
山口瞳さん。『江分利満氏の優雅な生活』で作家でビューし、いきなり直木賞を受賞した
山口さん。
江分利満氏こと山口さんに初めてお会いしたのは、元旦特集で「山口家の正月料理」を
治子夫人に取材に伺った時であった。
昭和48年か49年の暮だったと思う。都立国立高校からワンブロック東側辺りの路地に面して、打ちっぱなしコンクリートの箱のような住まいに驚いた。“武蔵野の雑木林のある住まい”として雑誌のグラビアなどでよく紹介されていたが、実際に見ると外観は殺風景で小さな町工場のようだった。
通りに面しては小さな玄関ドアがあるきり。打ちっぱなしコンクリートの壁面が外壁も兼ねていた。チャイムを鳴らすと
江分利満氏がニューっと現れたのにも驚いた。奥に向かって
治子夫人を呼ぶなり、スルスルと書斎に駆け込まれた。
玄関先の応接間で、
治子夫人に山口家の定番の正月メニューを伺っていると、
江分利満氏が現れて、「キッチンにも案内したら…」と、作家自ら先に立って半地下のキッチンへ。「女性の建築家が設計した家だから、キッチンも主婦が働きやすいようですよ」と告げて、またスルスルと書斎へ走りこんだ。やっぱり直木賞作家は家の中でも走るくらい忙しいんだというのが、
江分利満氏の第一印象だった。
◇ 山口家の正月料理 ◇
それに比べて
治子夫人はおっとりとして、「パパ、去年の元旦は120人ぐらい見えたかしら?」と時々、書斎に向かって声を掛ける。当時、山口家では元旦に友人知人、出版関係者が100人以上も訪れ飲めや歌えの新年会が開かれていた。
「所謂おせちよりも揚げ春巻きとかシューマイの皮のチーズ包み揚げとかに人気があるのよ、呑ん兵衛さんが多いから。贔屓にしている『繁寿司』の若旦那が毎年ド~ンと築地から仕入れた魚とお寿司を届けてくれ、それを目当てに来る年始客も多いのよね、パパ」。
肝心のおせち料理よりも
山口夫妻の睦まじさばかり記憶に残っている。週刊新潮に31年間も連載されていた『男性自身』シリーズでも、治子夫人は毎回のように登場する。
頑亭さんに言わせれば“妻ノロジー”だそうだが…。
◇ 治子夫人の歌集 ◇
その治子夫人の歌集『鵠』が発刊された昭和54年の秋口にも山口家を訪ねた。その時も
江分利満氏の方が
治子夫人よりも積極的に、自由大学・鎌倉アカデミアでのお二人の馴初めから、短歌にまつわるエピソードなど嬉しそうに語ってくれた。
その当時、銀婚式を5年も前に迎えた夫妻なのに恋人同士に見え、世の中にはこういう優雅なカップルもいるんだと、大いにあてられてしまった。
はじめての口づけせしは稲村の岬のはなの砲台の跡
口づけしままに歩きし鵠沼の松の林を夢にこそ見き
(山口治子歌集『鵠』より)
その少し前から
江分利満氏は自身の母親の出自をミステリータッチで追及した『
血族』がベストセラーになっており、『来年の所得税申告が深刻な問題で』と、頭をかきかき苦笑いした顔が忘れ得ない。
◇ 夏休みが吹っ飛んだ都立の星神宮決勝戦 ◇
その
江分利満氏との忘れ得ないもう一つの思い出は、昭和55年の夏の高校野球西東京大会の決勝戦を山口家の応接間のテレビで観戦したことである。都立高校で初めて
国立高校が甲子園出場を果たせるかどうか…という歴史的な決勝戦だった。“都立の星”の悲願が実るかどうか…、首都球史に残る注目の決勝戦だ!
7月31日、この日から私は1週間の夏休みをとり、シーツだのタオルケットを洗濯してベランダでのんびりと干していた時、電話が鳴った。「明日の決勝戦でもしかしたら国高が優勝するかもしれない。国高特集版を出すことになったから」と、急遽、取材命令の電話だった。
「ヒーッ!明日から私は八ヶ岳へ旅行に出かけるのに…」と、不満の声を上げたが、「全員集合だ!社長命令だ!それで、
山口瞳さんと決勝戦をテレビで観戦して、山口さんの観戦記をドキュメント風に仕上げてよ。1回から9回まで山口さんなりの戦評や山口さんの表情や発する言葉を盛り込んで!ではよろしく…」。デスクは用件だけしゃべって電話を切った。
それから、山口家に電話をかけてテレビ観戦の取材を申し込み、了解を得るなどてんやわんや。翌8月1日、午後1時前に山口家へ。「国高の野球は練習試合も見ているんですよ。市川武史投手の防御率は勿論、選手全員のプレーの癖や打率も頭の中に入ってますよ」と、
江分利満氏はビールのグラスを片手に、神宮球場での決勝戦が始まるのを待ち構えていた。
私の大好きだった江分利満氏の若者に宛てたメッセージ広告
ブログに綴り始めたら、忘却の彼方にあった記憶が甦ってくるから不思議ですね。以下は次回に。