◇ バスに揺られて山間の青空学校へ ◇中央線相模湖駅から一日数本しか運行してないバスに揺られ、道志川方面へ約30分。土地の人は「すげぇ」と発音し、「何で、すげぇなんかに来たんだ?」と不思議がるくらい過疎の山あいの村・
菅井(神奈川県)を訪ねたのも17年も前の6月でした。
そこには児童文学作家の
今西祐行さんが畑を借りて、開設した『菅井農業小学校』という私設の“あおぞら学校”がありました。丹沢の山並みを見晴るかす畑地に『
菅井農業小学校』と染め抜いた幟が翻り、当時、校舎は『
耕人舎』と名づけた掘っ立て小屋と簡易トイレだけでしたが、後に山小屋風の木造平屋が建設されました。
◇ 児童は都内から、先生は土地のお年寄り ◇児童は月に1~2回、東京都内や多摩地区周辺から親子で通ってきていました。この日通学してきた106名の親子に囲まれて、校長先生と用務員を兼務している
今西先生が「1ヵ月見ない間にジャガイモの茎が見違えるように成長したでしょ。草も負けずに伸びていますね」と朝礼の挨拶に続いて、この日植えつけるサツマイモが外国から伝来した当時の話を語って聞かせ、授業開始になりました。
早速、先月植えつけたジャガイモ畑の草取りとサツマイモの植え付けが始まりました。畑の先生は土地のお年寄りたちです。ジャガイモの花を初めて見た親子には、「この花にジャガイモができるのではないよ」。「草だかジャガイモだか分んないヨ」という都会っ子たちに、ベテラン先生たちは「このギザギザの葉っぱがジャガイモの葉だよ」と、笑顔で教えています。
校長の
今西さんは
『肥後の石工』や『
浦上の旅人たち』など史実や戦争体験などを下敷きにした児童文学の傑作、人間の良心のあり方を追求した『
あるハンノキの話』『
一つの花』などの著者です。
九州地方には江戸時代末期に、石で作られた美しいアーチ型の橋があります。辛い過去と闘いながら命がけで弟子たちを育て、その石橋づくりに取り組んだ名職人・岩永三五郎の物語『
肥後の石工』に感銘を受けた私も、
今西さんとお会いするのは初めてでした。
奈良県生駒山麓で育った今西さんは「土を耕す、種をまく、収穫するという作業には、人間を作る究極的な何かがある。その何かが文化を創ってきた。だからカルチャー(耕すこと)という言葉ができた」と語り、昭和30年代から菅井に転居して土に親しんできたそうです。
◇ 登校拒否やいじめ問題、過疎に心を痛めて ◇ところが、代々、炭焼きや養蚕で生計を立ててきた菅井でも、「農業をやっても金にならない」という風潮が押し寄せ、過疎化が…。また、全国的に受験戦争がエスカレートする一方で、校内暴力や登校拒否、家庭内暴力、イジメ問題が深刻化してきました。
そんな折り、統廃合の持ち上がっていた地元の小学校の児童と農業を知らない都会っ子たちが交流できる場として、『
菅井農業小学校』を開設することにしたそうです。
最初は登校拒否児とその親たちがボツボツ通って来ていましたが、口コミで広まって農作業で汗を流し、自分たちで育てたジャガイモやサツマイモを収穫して食べる喜びを共に体験する仲間が増えていきました。
地元小との合同運動会や収穫祭で土地っ子と都会っ子の交流の機会も増え、何よりお年寄りの畑の先生たちの生き甲斐にもつながっていきました。「68歳の僕でも菅井では若手ですからね」と、青年のような若々しい笑顔を浮かべた
今西さんの姿は忘れられません。
◇ ハウス野菜になるなよ!◇「君たちはハウス育ちの見栄えばかりがいい野菜みたいになるなよ!」「土って凄いだろう、四つ切りした種イモから、こんなに見事なジャガイモを沢山育てるんだ!」と、タータンチェックのシャツの袖をまくって、率先して汗を流していた
今西校長先生。汗で光ったシルバーグレーの髪が美しかった!
土を耕すことは心を耕し、人を育てることにつながり、教育の原点が『
菅井農業小学校』にあったように思います。「幼い日に、自分の食べるものをはじめから自分の手で作って食べてみるというのが、農業小学校の学習のすべてです」と実践した今西さんの教育は、今日、クローズアップされている“食育”そのもの。小手先の教育でない教育を見せてもらいました。
その後、1991年に今西さんは芸術選奨文部大臣賞を受賞。92年に紫綬褒章を受章され、目白の椿山荘で開かれた祝賀会では、「土くれの僕には身にそぐわない席で…」としきりに照れておられましたっけ。2004年12月21日に81歳で他界されましたが
、『耕人舎』の建物は地元の人たちで大事に守られているそうです。