◇ 数奇な運命の掛け軸のその後 ◇
数奇な運命をたどった
花本聴秋の句「休戦三日 踊れ月下の 敵味方」の関係者探しも一段落した後日、その作者聴秋宗匠の孫・
上田都史(本名:馮介)さんから「昼飯に付き合ってくれませんか」と、誘いを受けたことが時折りあった。
「こんな爺さん寡とのデートじゃ悪いかな」「とんでもない!俳句のお付き合いは無理ですが、食事なら喜んで…」と、八王子周辺の割烹やレストランでルンルンご相伴にあずかった。
今から思うと、昭和60年代当時の
上田さんは生涯で最も執筆作業に脂が乗り、多忙な時期であったのだが、一区切りつけると気分転換に食事や午後のティータイムに話し相手が欲しかったらしい。2年ほど前に奥様に先立たれていた。
◇ 粋なお店でランチデート ◇
待ち合わせ場所で落ち合うと決まって「老いの独り暮らしは食事が単調になってね。腹は空いても旨くないんですよ」と、うなぎやてんぷら、お寿司、時にはフレンチをご馳走になった。
なかなかの食道楽と見えて、穴場的な店へご一緒することが多かった。知る人ぞ知る俳人として馴染みの店も
上田さんの美学にかなった粋なお店だった。
駅前の雑踏の中でも長身痩躯のダンディな
上田さんは目立ち、後ろから声を掛けられたことも何度か。「お知り合いが多いようですね」「いや、孤高の“廃人”ですよ。
山頭火や
尾崎放哉ほどではないが、わが道をヒタヒタ来たので…息子一家も寄り付かない」と、チラリと身の上話をされることがあった。
◇ 酒は憂いを掃く箒 ◇
上田さんはお酒も相当にイケルようだったが、下戸の私相手ではビール1~2本かお銚子2~3本でご機嫌になっていた。「呑めないのはアルコールを教育してくれる人がいなかったからでしょ。中国では
酒は憂いを掃く箒といって、酒屋の目印に箒が掲げられているんですよ」「箒が酒屋の看板になっているんですか?」「酒の異名を“
掃憂箒”といったことに由来するそうです」。
私にとっては博学で漢和辞典のような人としか言いようのない
上田さんだったが、どこかに屈折した影を宿し、シャイで立ち居振る舞いは痺れるほど素敵だった。当時喜寿を超えられていたが若き日のハンサムぶりも健在で、
いぶし銀のような色気を漂わせていた。
◇ 10代から俳句に親しんで ◇
祖父が京都俳諧の重きをなした俳人という家に生まれ育った
上田さんは、10代から俳句に親しみ俳句の個人誌を編み29歳の時、処女句集『
純粋』を刊行している。「だけど親爺はコチコチの海軍教官で、全く文学には無縁の人でした」「じゃあ隔世遺伝ですね」「まあ、そうとも言えるが、祖父のはいわゆる
月並み俳句でした」と、バッサリ言ってのけたので、びっくりしてしまった。
あの“休戦三日踊れ月下の敵味方”の句の作者が月並みとは…!「あの句で私も祖父を見直しました。小説でも絵画でも作者の手を離れて生きるというか、読者や観る人々に運命が委ねられるのと同様に、俳句も一人歩きして数奇な運命をたどるものだと感動させられましたよ」と
上田さん。
都史さん自身も五七五の定型句からスタートしたそうだが、花鳥風詠が本来の俳句ではない。
人間を謳うことが俳句の原点で、形式に縛られず人間の機微を謳いたいと
自由律句を詠むようになったとのこと。
山頭火や
尾崎放哉の研究家で、二人の評価を世間に知らしめた一人である。
◇ 糠に錆び釘 ◇
「俳句というのはそんな敷居の高いものではないですよ。日々感じたことや目にした印象を自分の言葉で表現すればいい」と、それとなく俳句に誘われたのだが、当時の私には“
糠に錆び釘”に終わった。
お会いした時は決まって、
上田さんの新著を頂いたが、“
積読”するだけだった当時が今になって恥ずかしい。悔やまれる。『
放哉漂白の彼方=講談社』『
俳人山頭火=潮文新書』、子規を起点とする近代俳句から現代俳句への道程を紐解いた超大作『
近代俳人列伝』3部作他、こんなに沢山の著書を頂いていたのか…と。そしてこれらは私への“
ラブレター”ではなかったのかとも思う。いわゆる
恋文ではなく人生の先輩として先明かりを灯してくれたに違いない。
◇ 香港・廣州・桂林の旅から ◇
その内の一冊『
香港 廣州 桂林からの手紙』は、
金子兜太夫妻らと訪ねた香港・廣州・桂林の旅の随想であるが、単なる紀行文ではない。
上田さんの人生が凝縮されている。豊穣な知識と研ぎ澄まされた触覚と嗅覚で捕らえた点景に熱い想いが!読み終えた夜は熱い“
恋文”に興奮して眠れなかった。
その後、
上田さんは後添えに恵まれたが、晩年の幸せは短かった。胃癌で入院して2ヵ月足らずで風のように消えられて13回忌が過ぎた。今、『
心の俳句 趣味の俳句』を読み始めて、遅まきながら俳句に惹かれ始めた。
上田さんの知己や慕う人たちで八王子・
金南寺境内に建立された句碑には、「
男地球に立ち夕映えに言うこと多く」と、男の気概が刻まれている。私は「
豆腐屋うらへ廻った陽も廻った」と何気ない暮らしを詠んだ句が好きだ。
夕錦 見せたき男の 懐手(ふところで) モグラ